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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

努力の価値は

雑想

 励ましの言葉にはタイミングが大切だ。タイミングを逸した励ましは毒になる。

 うつ病の人に「頑張れ」という励ましは禁句だと言われる。うつ病になるのは責任感が強い人が多く、そんな人に努力を促すことはかえって追い込んでしまうことになるからだという。

 それとは少し違うが、奥さんの出産に立ち会った旦那さんが「頑張れ」と励ますのも良くないと聞く。鼻の穴からスイカを出すほどの苦しみにあえぐ奥さんからすればお気楽に「頑張れ」と言われても「もう頑張ってるわよ!」とムカつくだけなのだとか。

 もう少し言えば、頑張りや努力といった発想は、いわゆる自己責任論との相性が非常に良い。自己責任論は、仕事を失ったり、生活が立ち行かなくなった人に対して「それはお前の努力が足りなかったからであり、社会のせいにしてはいけない」と説く。もちろん、本当にそれが事実なこともあるだろうが、どう頑張っても個人では対処しきれないような問題ですら個人のせいにしてしまうこともある。病気で働けない人が生活保護を受給するのに「それはお前の努力が足りないからだ」というのは言葉の暴力以外の何ものでもないだろう。

 しかも、努力にはそれをやったからと言って必ず報われるとは限らない残酷さがある。話は少し飛ぶが、人間の身長の大小を決めるのは遺伝か環境かという話がある。結論から言えば、環境が改善されればされるほど遺伝の影響力が大きくなる。つまり、社会が貧しく、全体的に栄養状態が悪いときには個々人の置かれた環境の影響力が大きい。イギリスでもかつては社会階級によって体格に大きな差があったそうだ。

 しかし、社会全体の栄養状態が改善されて平均身長が伸びるほどに、個々人の持つ遺伝子の影響力がむしろ増していく。身長を高める遺伝子を持っていても栄養が足りないせいで伸びなかった子どもたちは非常に大きくなる一方で、そうした遺伝子を持たない子どもたちの背はそれほど高くならない。

 この話の「環境/栄養状態」を「努力」に置き換えてみよう。全体的な努力の水準が上がれば上がるほどに、その人の遺伝、あるいは生まれもった才能が決定的な影響力を持つようになる。

 たとえば、みんなで一生懸命に速く走るトレーニングをすれば、ある程度までは速く走れるようになる人が多いだろう。だが、100m走で10秒切れるようなアスリートになるか否かは、まずもって遺伝子により決定される。少し前にネットで話題になった「アスリートもまずその体に生まれるかどうかが99%。そして選ばれた人たちが努力を語る。やればできると成功者は言うけれど、できる体に生まれる事が大前提」という為末大さんのツイートは、まさにそのことを指している。

 というわけで、努力という言葉の評判は非常によろしくない。だが、努力という発想は完全に不要だと言われるとそれも少し違うような気もする。努力と呼ぶか否か、努力と意識するか否かは別として、自分の能力を伸ばすために懸命に頑張らなくてはならない瞬間というのはどこかに存在するのではないかと思うからだ。

 羽海野チカの将棋マンガ『3月のライオン』(白泉社)は、こうした努力の意味を考えるうえで一つのテキストになる。厳しい勝負の世界に生きる棋士たちの姿を描くこの作品のキーワードの一つは、たぶん「努力」だ。たとえば、ある棋士はモノローグのなかで次のように述べている。

 「信じれば夢は叶う」
 それは多分 本当だ。
 但し 一文が抜けている。
 「信じて 努力を続ければ 夢は叶う」
 ―――これが正解だ。
 さらに言えば
 信じて「他のどのライバルよりも1時間長く毎日 努力を続ければ ある程度迄の夢は、かなりの確率で」叶う―――だ。
(出典)羽海野チカ(2012)『3月のライオン(7巻)』白泉社

 あるいは、圧倒的な天才棋士との勝負を前にして、努力で這い上がってきた棋士は思う。天才との差が「縮まらない」からといって、それはオレが前に進まない理由にはならん、と(4巻)。『3月のライオン』は、こういう努力型のタイプに温かい眼差しを向けているという意味で、読者に力を与えてくれる良い物語だと思う(1)。

 アスリートの世界であれ将棋の世界であれ、その価値基準を速いかどうか、勝負に勝てるかどうかという一元的な尺度で判断してしまうと、実は面白くないのではないように思う。もちろん記録や勝敗は重要だ。しかし、価値基準が一元的で、なおかつ才能やセンスの差だけが決定的なのだとすれば、努力することはやはり虚しい。

 おそらく、努力が重要だと言えるためには、社会のなかで多様な価値基準が必要なのだろう。たとえ不器用でも、自分の芸を磨くことに心血を注いできた人が「他の人には出せない味がある」と言われたりするようになるのも、「味」を評価するための基準がいくつも存在するからだ。

 どれだけ速く走れるか、どれだけ勝負に勝てるか、どれだけ点数を取れるか、どれだけカネを稼げるかなどの一つの物差しではなく、いろいろな価値基準で評価される世の中であってこそ、多くの人にとって努力は意味を持つ。他人とは違う自分の持ち味は何かを考え、それを伸ばしていくことができるからだ。そうでなければ、最初から努力などしないほうが懸命だろう。

 そういう意味で、努力が価値を持つ社会になれば良いと思う。特に、40歳を過ぎても芽が出ず、とうの昔に自分の才能やセンスなど信じられなくなっている立場からすれば。努力とはたぶん、才能にもセンスにも見放された者がそれでも前に向かって歩くための、最後に信じられる拠り所なのだから。


(1)もっとも、作中に出てくる努力型の棋士であっても、実際には並外れた天賦の才に恵まれていることは否定できないだろう。