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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「ドロドロしたもの」の政治学

 かつて田中角栄は「政治は欲望の分配」と述べたのだという。

 政治家には様々な人びとが利権を求めて群がる。それをどう調整し、多くの人びとを満足させるかに政治家の手腕はかかっているというわけだ。利益の調整を得意とした田中らしい言葉だと言える。

 もちろん、それが政治の全てだと言うわけではない。だが、政治システム論で有名な政治学者デヴィッド・イーストンもまた、政治を「社会に対する希少価値の権威的配分」と定義している。カネ、資源、名誉、食糧。いずれにせよ万人が欲しいだけ手に入れられるものではない。だからこそ、政治が権威をもって人びとに納得させるかたちでそれを分配しなくてはならない。

 裸一貫で叩き上げた政治家ときわめて抽象的な理論で鳴らした学究の徒とが奇しくも類似した結論に到達しているのを見ると、やはり政治と欲望は密接に結びつかざるをえないのだろうと思う。

 ここでは、政治にまとわりつくこのような欲望を「ドロドロしたもの」と呼びたい。後でも述べるが、社会にとって建前は重要だ。しかし、建前だけでは生きていけないのもまた事実だろう。建前の背後にはドロドロした本音が控えており、それは単にカネが欲しいという話に留まらない。性欲や名声欲、あるいは人を見下したいという欲求。それらの本音が社会の根底ではつねに渦巻いているし、それを無理に無くそうとすれば息が詰まるような社会になってしまう。

 実際、このような「ドロドロしたもの」は政治的なイデオロギーを背後から支える役割を果たしてきたのではないかとも思う。たとえば共産主義。プロレタリア革命を経て到来する平等な社会。美しいお題目の背後に「金持ち連中を引きずり下ろしたい」というドロドロしたものがあったことは否定できないのではないだろうか。

 いわゆる新自由主義もそうだ。市場原理の導入、競争の促進によるサービスの向上、民営化による効率的な組織運営。立派な建前の背後に、「既得権益」を貪っている規制産業や公務員の連中を引きずり下ろしたいというドロドロした感情があったからこそ、一時的にせよ広範な支持を勝ち取ることができたのだと思う。

 ただし、それが必ずしも悪いと言っているわけではない。それどころか、ドロドロしたものを引き受けることができないイデオロギーは力を持つことができない。ドロドロしたものと正面から向き合い、害の少ない方向へとそれを流しこむことができる建前を思考するところに思想的な挑戦はある。

 実際のところ、いまの「リベラル」が思想的な力を持つことができない一つの要因は、そういったドロドロしたものの居場所がないことに起因するようにも思う(1)。平和が大事、差別に反対、人権を大切に、原発に反対。建前としては立派なのだが、それを背後から支える欲望に乏しい。ドロドロしたものと正面から向かい合っていないからこそ、単なるスローガンの連呼に留まっている側面すら無しとは言えない。

 もっとも、リベラルが完全にドロドロしたものと手を切っているかというと、そうでもない。あえて言うなら、「差別をする人たち」や「戦争や原発に賛成しそうな人たち」を見下すことによってかろうじてドロドロしたものに居場所を与えている。

 だが、そういったかたちでの欲望の充足はあくまで副次的なものに過ぎない。仮にイデオロギー闘争に勝利したとしても、敵をやっつけたという爽快感は得られるかもしれないが、そこから先はドロドロしたものを満たすことができない。共産主義新自由主義であれば「勝利の暁には分け前が待っている」と約束できるところだが(実際にその約束が果たされるか否かはもちろん別だ)、リベラルの思想にはそれができない。

 その点において、今の「保守」の思想は欲望をうまく吸い上げることができている(2)。中国や韓国への差別意識、偽史に騙されてずっと謝罪を強いられてきたという被害者意識(3)。戦争や領土紛争ではキレイ事なんて言っている余地はないという感覚。そういったドロドロしたものを吸い上げることができているぶん、求心力は強い。しかも闘争に勝利できれば、首相の靖国参拝はし放題、韓国から竹島は戻ってくるし、中国も尖閣には二度と手が出せない。うまくいけば両国とも破綻してくれるかもしれない。歴史教科書も誇りが持てるよう書きたいように書けるという「利益」も約束できる。

 実際、テレビや論壇、あるいは政財界の「ぶっちゃけ系」の人たちの多くが、保守の思想になびきやすいのも理解できるような気がする。「ぶっちゃけ、あいつら俺らよりも劣ってるでしょ」「ずっと昔の戦争の話をいつまでもグダグダ言うんじゃねえ」「他の国だってやっていたじゃないか」。そういう本音をすくい上げることで「よくぞ本当のことを言ってくれた」という喝采を受けることができる。

 しかし、世の中は本音だけでは渡っていけない。世界にいくら差別や暴力、偏見が渦巻いていようとも、とりわけ国際政治の場では本音しか語れない者は未熟なプレイヤーでしかない。むしろ、本音をどこまでオブラートに包んで美しい建前を語れるかが試されていると言ってもいい。戦間期の国際政治におけるユートピアニズムを厳しく批判したE.H.カーは、その一方で次のようにも述べている。

道徳的原理の装いで利益を包みかくす必要があるということ自体がリアリズムだけでは十分ではないことを示している。…
政治を道義だけに基づいて行うことが可能だと夢見るユートピアンは、愛他主義は幻想であり政治行動は利己主義の上にたつものと信じているリアリストと同様の見当はずれをしている。
(出典)E.H.カー、井上茂訳(1996年)『危機の20年』岩波文庫、p.179およびp.188。

 さらに言えば、建前はたんなるでまかせ、ハッタリではない。それを口にする以上、ある程度までは行動に縛りがかかる。実際の行動から乖離しすぎれば建前は説得力を失うからだ。

 そして、説得力のある建前を語るためには豊かな教養と思想的な裏付けが必要になる。日本を一歩でも出たらまったく通用しないような内向きの論理や詭弁ではなく、より普遍的な言葉で自己の利益を語らねばならない。だが、ドロドロしたものをうまく吸い上げることで国内での支持を集めることには長けていても、説得力のある建前を語ることを苦手とする今の保守派にはそれが難しい。今の政権はよく「誤解された」と言いたがるが、誤解も何も説得力のある建前を最初から持たないのだ。

 建前ばかりでドロドロしたものとの対峙を避けているリベラルと、ドロドロしたものは吸収できても美しい建前を語ることが苦手な保守。現代日本の政治に貧困があるとすれば、その点に求められるのではないだろうか。

脚注

(1)「リベラル」といっても内実は様々であるが、とりあえずここでは『朝日新聞』的な主張と考えてもらいたい。ちなみに、ぼくは『朝日』が特に嫌いというわけではないし、優れた報道も多いと思う。
(2)「保守」にしても様々であるが、ここでは現政権とその周辺によく見られるような主張を想定している。
(3)ただし、このような「被害者意識」はもともと存在していたものというより、後付けで形成された部分のほうが大きいように思う。この意味では、「ドロドロしたもの」が具体的にどのような形態を取るのかは所与というよりも、社会的に構成される部分が大きい。