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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

『反コミュニケーション』

 藤子・F・不二雄の短編マンガに「テレパ椎」という作品がある。

 記憶に頼って書くと、この作品の主人公は「それを持っていると他人が何を考えているのかが全てわかる木の実」を拾う。そのため、他人が遠慮して言わないものの心のなかで考えていることが読めるようになってしまい、それまでの居心地の良かった人間関係に二度と戻れなくなってしまう…というストーリーだ。作中で主人公は考える。もし、人間が他人の心をすべて分かってしまうのであれば、そもそも文明なんてものを作らなかったのではないか、と。

 実際、少し考えてみれば、他人が何を考えているのかが全てわかる、あるいは自分が考えていることが全て他人に理解されてしまうというのは恐ろしいことだと誰もが思うだろう。そこには何の遠慮も気遣いもなく、むき出しの感情だけが存在し、相手を傷つけるし、傷つけられてしまう。

 しかし、その一方でわれわれは、自分のことを他人が理解してくれない、他人のことが分からないという悩みにも苛まれたりする。あるいは、心の壁を越えて相手の心と繋がっているように感じたり、他人と心を一つにしたいと願う瞬間もあるかもしれない。震災直後、「心を一つに」といったスローガンが出てきたのも記憶に新しい。

 このように、他人とのコミュニケーションは矛盾に満ちている。他人と繋がっていたいが、ずっと一緒にいると疲れてくる。恋人とは理解しあいたいが、理解できないからこそ異性に魅力を感じる。他人に理解されたいが、自分の心を全て見透かされるのは気持ちが悪い。

 奥村隆さんの『反コミュニケーション』(弘文堂)は、コミュニケーションが抱えるこのような矛盾を正面から捉えた本だ。「コミュニケーションが嫌い、できれば人と会いたくない、電話もメールもしなくない」というこの社会学者は、コミュニケーションはいかにあるべきか、そもそもコミュニケーションとは何かを探るべく旅に出る。

 パリでは思想家ジャン=ジャック・ルソーに会い、ベルリンでは社会学ゲオルク・ジンメルと対面する。ベルリンでたまたま入ったカフェには哲学者ユルゲン・ハーバーマスが登場し、精神科医のR.D.レインに会うために向かったロンドンでは、彼の診療室で文化人類学者のグレゴリー・ベイトソンと哲学者のジャン=ポール・サルトルが待っている。社会学者のアーヴィング・ゴフマンに会うためにカリフォルニアに向かう途中、飛行機の機内では文芸評論家のルネ・ジラールと隣り合わせる。そして、ゴフマンとのやり取りで得られた思考を今度は社会学者のニクラス・ルーマンにぶつけてみる…。

 もちろん、ここに出てくる人たちの大部分は故人であり、本書では著者である奥村さんと仮想の対話を繰り広げるわけだ。こういう筋書きを見て思い出したのは、霊言…ではなく、スティーヴン・ルークスの『カリタ教授の奇妙なユートピア探検』(NHK出版)だ。軍事独裁政権の国ミリタリアから逃げ出した啓蒙思想研究家ニコラス・カリタ教授は、「理想の国」を探し求めて新自由主義の国、多文化主義の国、功利主義の国を渡り歩くというストーリー。『反コミュニケーション』では、カリタ教授ならぬ奥村教授が、コミュニケーションとは何かを探し求めて思想上の巨人たちのもとを尋ね回っていくわけだ。

 本書の優れたところは、それぞれの思想家たちのコミュニケーション観のエッセンスを抽出したうえで、それらにどのような違いがあるかをクリアに描き出している点だ。どの考え方がもっとも優れているかのかを押し付けるわけではない。むしろ、本書でもっとも印象深いのは、奥村さん自身が頭を抱え続ける(苦悩する、というのとはちょっと違うと思う)姿ではないだろうか。したがって、「理想のコミュニケーション」とは何か、正解を知りたいというのであれば、本書を読んでもおそらく回答は得られない。

 だが、本書に登場するさまざまなコミュニケーション観を知ることで、自分がこれまで気付かなかった、あるいは思いもよらなかった考え方を見るけることはできるかもしれない。もちろん、そのことで悩みがさらに増す可能性もあるわけだが、他方ではコミュニケーションをめぐる固定観念から抜け出すためのきっかけになる可能性もありうるだろう。言うまでもなく、コミュニケーションの社会学を学びたい人にとっては、考えを整理するための良い材料になるはずだ。

 ぼくは大学院生のころ、奥村さんの『他者といる技法』(日本評論社)を読んで以来のファンだ。この本は残念ながら絶版のようだが、今でもメディアやコミュニケーションについて論じたいのであれば必読の著作だと考えている。『反コミュニケーション』は久々に読む奥村さんの著作だったが、期待に違わず良い時間を過ごさせてもらった。

 …と、褒めてばかりでも何なので、批判というほどでもないのだが、最後に一点だけ、ぼくだったらこうするという指摘(?)を行っておきたい。本書の最後には、大学3年生のAさんという学生が登場する。Aさんは奥村さんの分身とも言えるようなキャラクターで、コミュニケーションについて深く悩んでいる。作中ではAさんのレポートが紹介されるのだが、ぼくはすっかり性格が悪くなってしまったので、こんな良質のレポートが学生から出てきたらまずグーグルでコピペかどうかをチェックするだろう。

 それは措くとしても、本書は奥村さんとAさんとの対話で締めくくられる。だが、このAさんの造形は少し都合が良すぎるようにも思うのだ。いや、本書全体がそうだと言えばそうなのだが(なにせ飛行機でたまたまルネ・ジラールと隣の席になるわけだからして)、「いかんともし難い存在である他者とどう向き合うのか」が重要なテーマである本書において、最後に筆者にとって都合の良い他者が出てくるというのは少し残念な気がする。

 つねに自分の思った通りに動いてくれる他者は存在しない。存在するとすれば、それは自分の頭の中だけなのだし、そのような「想像された他者」もまた、コミュニケーションを厄介なものにしてしまう一つの要因になる。これは『他者のいる技法』が教えてくれた大切な教訓だ。

 なので、もしストーリーを完結させるにはAさんの存在がどうしても必要だったというのなら、本書のラストは「私が振り返ると、Aさんが座っていたはずの椅子には誰もいなかった」的な締めでも良かったのではないかという感もある。いや、もちろん、ぼくの趣味の話ではあるんだけれども。