擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

日本の自画像

平和国家としての自画像

 主語の大きな話には気をつけなくてはならない。

 大した根拠もなく「日本人はこうだ」とか「中国人はああだ」などと語るのは、ほとんどの場合、ステレオタイプの反映にすぎない。日本には1億2千万人以上の人がいるし、中国に至っては13億以上の人がいる。中国人だけで200年前の人類の総数よりも多いのだ。

 …という大前提はあるとはいえ、日本人の自画像を語ることは必ずしも無益ではない。たとえば、2013年2年の総理府の世論調査によると、「日本の誇り」として「自由で平和な社会」を挙げた人は26.4%に留まるものの、「現在の世相」の明るい面として「平和である」を挙げた人は54.8%と他の項目を圧倒している(いずれも複数回答/出典)。この調査結果からも、日本人の多くが「平和国家」というナショナル・アイデンティティを抱いていることは否定できないのではないだろうか。

 実際、政治的な立場を違えても「平和国家」という自画像は共有されていると言うことができる。護憲派の多くは平和国家であることを誇りとし、その現状を変えてはならないと考える。他方で、改憲派の少なくとも一部は、戦後の改革によって日本人は骨抜きにされた(=平和志向になった)と考えており、その現状を是正することが必要だと考えている。

 要するに、平和国家という自画像については立場を越えて共有されているものの、その評価が大きく異なるわけだ。現行憲法にきわめて批判的な安部首相にしても、「積極的平和主義」を掲げざるをえないように、平和国家という日本の自画像から大きく外れることはできないと考えているのだろう。

 このような自画像に依拠する場合、領土問題が激化すると「われわれ日本人は平和に暮らしているのに、拡張主義的な外国勢力が一方的にそれを脅かしている」という認識になりやすい。要するに、日本が一方的な被害者であるという発想になるわけだ。ぼくもそういう認識に共感するところは大きいし、少なくとも今の日本人が他のアジア諸国への侵略を再び支持するようになるというのは想像しづらい。

 しかし問題は、他の国がつねにそういった観点から日本を眺めてくれるとは限らない、ということだ。

日本の軍事的冒険?

 もちろん、日本人の平和志向は海外でも広く受け入れられているのではないかと思う。日本でもしばしば紹介されるBBCの国家イメージに関する調査でも、日本に対する評価は高い(出典)。平和志向で長い伝統を有しつつも科学や技術に強い国というイメージがそれなりには定着しているのだろう。戦後日本の歩みの勝利とも言えるかもしれない。

 だが、そういったイメージは決して固定的ではない。第二次世界大戦の記憶は欧米やアジア諸国にいまも深く根付いており、情勢いかんではそれが再び強く出てこないとも限らない。むしろ、東西冷戦が終結したことで、1990年代以降には国際状況を第二次世界大戦の枠組みやアナロジーで捉える風潮がより強くなったとすら言いうる。

 過去の戦争はそれ自体がメディアによって媒介された記憶であったとしても、小手先の広報戦略ではひっくり返すことが困難なほどに深く定着している。たとえ「親日的」と見なされている国であっても、日本の過去の植民地支配を全肯定するような主張には不可避的に反発が生じる。

 実際、靖国参拝や領土問題などに関する英米メディアの報道を見ていても、日本を一方的な被害者だとは見ていないものがほとんどだ。領土問題では中国の拡張主義的な対外政策に批判的ではあっても、とりわけ歴史問題では日本が挑発しているという論調が強い。『ニューヨーク・タイムズ』は安倍政権に批判的なことで知られているが、昨年12月の靖国参拝後の社説の一部を紹介しておきたい。

日本の管理下にある島々をめぐる中国の好戦的な動きは、中国の軍事的脅威が存在することを日本の公衆に確信させた。この問題は、安倍氏が中国からのあらゆる合図を無視し、日本の軍隊を領土防衛に厳しく限定された存在からあらゆる場所での戦争に派遣しうる存在に変えるという彼の目的を追求するための口実を与えてきた。靖国への訪問はそのアジェンダの一部なのだ。(中略)日本の軍事的冒険はアメリカからの支援があってのみ可能だ。米国は安倍氏のアジェンダが地域の利益にはならないことをはっきりとさせる必要がある。
(出典)Risky Nationalism in Japan

 平和国家という自画像を強く内面化している日本人からすれば、「日本の軍事的冒険」などと言われても頓珍漢な言いがかりとしか思えないだろう。だが、歴史問題という文脈のもとでは、そうした言い分に説得力を与えてしまう。

 その意味で、靖国神社遊就館の展示は「日本の軍事的冒険」の脅威をアピールする好材料を提供しているとも言える。もちろん、本来なら一宗教団体の施設がどのような展示をしようがそれは勝手だ。だが、それが政府の要人がこぞって参拝する神社に付随しているともなれば、いくら「私人としての参拝」を強調しようとも、彼らがそこで示されている歴史観を支持していると見なされても仕方がない。たとえば、英国の保守系新聞である『デイリー・テレグラフ』のサイトには、靖国神社に関して次のようなQ&Aがある。

Q 多くの国々には戦没者の記念碑があるのに、なぜ中国と韓国は靖国に苛立っているのか?
A 安倍晋三を含む日本のナショナリストは、靖国と米国のアーリントン国立墓地には何の違いもないと主張したがる。だが、アーリントン墓地とは異なり、靖国は多くの人びとにとって受け入れ難い歴史観を宣伝している。付設の博物館は日本を第二次世界大戦における米国の被害者として描いており、20世紀において侵略的な帝国の軍隊がアジア―とりわけ中国と韓国―を暴れまわったさいの極端な残虐行為にはほとんど言及していない。重要なことに、将軍で首相の東條英機も含む第二次世界大戦の14人の指導者―彼らは国際軍事裁判でA級戦犯として弾劾された―もまた、1978年に秘密裏に合祀されている。このことは翌年になってようやく公衆の知るところとなった。
(出典)Yasukuni war shrine: what is its importance?

 おそらく、安部首相や政府としては、少なくとも対外的には歴史問題と現在の防衛戦略を切り分けたいところだろう。靖国神社参拝や慰安婦問題と現在の防衛戦略とは全く別問題であり、過去の日本の名誉を守ることと軍事的冒険を企てていることとはイコールではない、と言いたいはずだ。

 しかし、その両者を切り離すことは、安部首相が考えているよりもずっと困難かもしれず、安部首相自身の言動がそうした解釈に説得力を与えてしまっている。実際、一部の議員や保守派の論客の主張を見ていると、ぼくでも「日本の軍事的冒険」あるいは軍国主義化がもしかすると冗談では済まないのではないかという不安が湧いてくる。少なくとも、「反日的」な言論を取り締まりたいと考えている人はわりと多そうだ。

どのような文脈で政策を展開するか

 同じ政策や戦略を展開するのであっても、それがどういう言論的な文脈のもとで行なわれるかによってその評価は大きく異なる。軍備の増強が「防衛目的」か「侵略目的」と見なされるのかは、もちろん軍備の内容そのものによっても変わりうるが、その国を取りまく言論的な状況が大きく作用する。過去の侵略戦争を美化・肯定したがっていると見なされる文脈下での軍備拡張や積極的な防衛戦略は、どうしたって強い警戒感を招くし、対抗勢力によるプロパガンダにも利用されやすい。

 もし安部首相が本気で「積極的平和主義」を実践したいのであれば、そういった文脈そのものを変えていく必要があるだろう。しかし、上でも述べたように、それは小手先の公報戦略やNHKの活用では不可能だ。そもそも政府の主張を代弁するとトップが明言している国際放送を誰がまともに聴くと言うのか。プロパガンダ戦略としても下の下だと評価せざるをえない。

 となると、歴史問題に関しては保守派の少なくとも一部とは手を切ることが必要になる。歴史問題については学術的な水準からしても相当に質の低い陰謀史観じみた言論が保守派の内部にはびこっている(リベラルや左派は陰謀史観とは無縁だと言うつもりはないが、そうした言論は政治への影響力が低い)。先日、NHKの新会長が露呈したお粗末な歴史認識は、日本の財界や政界にそうした言論の影響が広がっていることの証左と言えるかもしれない。

 かつて、政治学者の大嶽秀夫さんは『再軍備ナショナリズム』(1988年)のなかで、日本の防衛戦略と復古主義的なイデオロギーとを切り離すべきだと主張した。それから25年以上が過ぎたが、その指摘は今こそ重要性を帯びているように思える。