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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

グリーン車のツイートはなぜ炎上したか

コミュニケーション 社会

 新年早々、さっそくネットでは炎上事件が起きた。もう沈静化しているとは思うのだが、あえて蒸し返してみたいこの話題。そう、大規模な遅延が発生した新幹線ではグリーン車の空席をお年寄りや子ども連れに解放すべきだというツイートをめぐる炎上事件だ[1]。

 この件に関してはすでにいろいろなことが語られているわけだが、ぼくなりに整理すると、件のツイートが炎上したのは、以下の5点が複合的に作用した結果ではないかと思う。

(1)グリーン車を解放するという権限を持たない車掌さんに声をかけたという点で、モンスターカスタマーとして判断されたということ。

(2)グリーン車の空席を解放すべきという理由づけにお年寄りや子ども連れといった「弱者」を持ち出すことで、「リベラル」的主張として解釈されたということ。

(3)沿線での火災が発生し、大規模な遅延が発生しているという状況下での話だということを理解しないまま、単なる帰省ラッシュでもグリーン車の空席を解放すべきだという主張として解釈した人がいたこと。

(4)グリーン車の「空席の解放」ではなく、グリーン車の乗客が席を譲るべきだという主張として解釈した人がいたこと。

(5)ツイートした人が特定層から非常に嫌われている国会議員のお子さんだったということ。

 この5つのなかでもっとも大きかったのはやはり(5)で、仮に実名を出していたとしても、そこらへんの大学生がこのツイートをしたところで、ここまで大規模な炎上になるとは考えづらい。おそらくは(5)という条件があったからこそ、(1)~(4)の理由が複合的に作用したのだろう。

 ただし、(5)という条件のもとでも、事故により大混乱が生じているということを当該ツイート内でもっと強調し、老人や子連れ家族と具体的に言うのではなく「長時間立たされて、体調を崩しそうな人」といったかたちで一般化し、なおかつ車掌さんに話しかけたことは伏せて「こういう状況では空席を解放してもいいんじゃないでしょうか」というようにフォロワーへの問題提起という形を取れば、インパクトはなくなるだろうけれども、ここまでは炎上しなかったんじゃないかと思う[2]。…たぶん…

 それは措くとして、このエントリで考えたいのは(2)だ。つまり、「リベラル」が弱者を代弁することに対する嫌悪感の源泉について論じたい。「リベラル」の主張が届かないという話や、弱者を代弁することの難しさについては、別のエントリでもしたわけだが(これとかこれ)、ここではやや異なる角度からこの問題について考えてみたい。

 まず、弱者を代弁することに対する嫌悪が発生する理由だが、一つは言うまでもなく現代では誰が弱者なのかがはっきりしないということがある。若者に比べれば恵まれた社会保障を享受している高齢者が本当に弱者と呼べるのか、子育てが富裕層の贅沢とすら見なされているいる状況下で子連れファミリーが本当に弱者と呼べるのか。たとえ若者でも何らかの病気を患っている人のほうが本当の弱者ではないのか等々。「弱者」であると誰もが合意しうるような存在が見えづらくなっているからこそ、弱者を盾にした主張は大きな反発を受けやすい。

 弱者を被害者と言い換えるなら、真の被害者の立場をめぐって対立が生じるのは日本に限った話ではない。米国でも被害者政治(victim politics)なるものの存在が語られ、「道徳的な優越性と最高度の注目を喚起する権利へのルートは、被害者となることによってもっとも効率的に獲得されうる」とすら言われる(C. Sykes, A Nation of Victims, St. Martin’s Press, 1992, p.12)。そうした弱者もしくは被害者の特権化に対する反発が、自己の主張の盾として弱者を使うことへの嫌悪感と結びついているのではないだろうか。

 そして、自分の主張の基礎づけのために「弱者」を持ち出すことが嫌われるもう一つの理由は、それが結果として弱者自身の主体性を否定していると解釈されうる点に求められるのではないだろうか。上のツイートに即して言えば、グリーン車の空席を解放しろと主張したのは、お年寄りや子連れ家族自身ではなく、若い女性である。では、彼女はいかなる権限のもとでお年寄りや子連れ家族を代弁しているのか。

 緊急時であったとはいえ、お年寄りや子連れ家族が自由席を選んだのは、彼ら自身の主体的選択である。彼らにグリーン車の空席を解放しろというのは、彼らの自己決定を歪めることになりかねない。極言すれば、彼らは超満員の新幹線のなかで好き好んで立っているかもしれないのだ。

 もちろん、ぼくもこれが極論であることは承知している。そんな物好きな人はあまりいないとは思う。だが、別のケースになると、弱者や被害者の主体性が否定されるかたちで彼ら自身の利益が主張されることは珍しくない。たとえば、福島で原発事故が発生したさい、福島に残ると判断した人たちを頭ごなしに否定し、「彼らは放射線のリスクを分かっていない」「強制的にでも避難させるべきだ」などと主張した人は少なくなかった。そうした主張にある種の傲慢さを感じ取ることは難しくないだろう。そのような傲慢さに対する反感もまた、「リベラル」が弱者を盾にすることへの批判と結びついているよう思う。

 以上、グリーン車に関するツイートが炎上した理由の(2)について見てきた。ここでもう少し踏み込むなら、それでは個人の「主体性」とはいったいどこから来るのか、個々人の判断はいかなる状況下でも尊重されるべきなのかという問いが出てくる。そこまで行くとさすがにお手上げなので、このエントリはここでおしまい。

 解散。

 …あれ、最初から誰も集まってない…?

脚注(というほどでもない)

[1]ちなみに言うと、ぼく個人としては、このツイートが炎上する一方、悪質な差別発言が野放しになっているウェブ空間は、やはりどこかおかしいと思っている。また、罵詈雑言のリプライにも怯まないツイート主の女性にも好感を覚える。

[2]なお、新幹線内で体調を崩した人は申し出れば多目的室を利用できる。