擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

社会のため息

 以前、さる研究会に出ていたときの話。その研究会はわりと高齢の「左」系の人で構成されていた。研究会のテーマも自ずとそっちの方向に行くのだが、それよりも気になったのが、結論がしばしば「新自由主義が悪い」「米国が悪い」というところに落ち着いてしまう点だった。

 そりゃ突き詰めていけばそういう話になるのかもしれないのだが、あまりに画一的な流れがどうにも気になった。そこで「何でもかんでも新自由主義のせいにしてしまうのはどうなんですかね」ということを遠回しに言うわけだが、どこまで通じていたかはわからない。

 もちろん、このように何でもかんでも特定の要因に還元してしまう発想は「左」の人たちに限った話ではない。何でもかんでも『朝日新聞』が悪いことにしてしまう主張は、靖国参拝を始め、ネットではお馴染みだ。日本の一言論機関にそこまでの影響力があるという見方は『朝日新聞』の中の人にとってもまんざらでもないのかもしれないけれども(迷惑なだけかもしれないが)(1)。

 「左」にせよ「右」にせよ、こういう論法が流通しやすいのは、特定の悪を指定することで、はっきりとした見取り図が描けるからだ。国際関係や貧困にまつわる様々な問題を新自由主義や米国の世界戦略のせいにしてしまえば、新自由主義を止める、米軍の撤退を求めるといったシンプルな解決策が導かれる。『朝日新聞』だけが悪いのなら、靖国神社には政治問題に発展するような要素は何もなく、同紙に謝罪させたうえで中韓に反論(または無視)するだけで良いということになるのかもしれない。

 以前のエントリでも書いたのだが、社会問題や外交問題など、多岐にわたる問題に関して、詳細な知識を持たない人が意見を表明するさいの判断基準となるのは、「誰が悪いか」だと言われる。靖国問題で言えば、朝日新聞が悪い、中韓が悪い、米国が悪い、安部首相が悪い、靖国神社が悪い、松平宮司が悪い、といったかたちで責任の所在を明確にすることで意見を表明するというわけだ。

 教育の問題で言えば、日教組が悪い、親が悪い、ゆとり教育が悪い、文部科学省が悪い、むやみに教育に手を突っ込みたがる政治家が悪い、などというパターンが考えられる。このように、まず悪を指定すれば、複雑な問題でもわりと簡単に見取り図を描くことができる。

 政治問題の背景を詳細に分析する専門家からすれば、問題の原因を特定の人物や組織に還元してしまう論法は、衆愚政治の発現以外の何物でもないように見えるかもしれない。しかし、見方を変えれば、「誰かが悪い」という論法が存在するからこそ、一般の人たちが政治に関して意見を表明できているとも言える。

 たとえば原発の問題にしても、エネルギーの安定供給や放射線廃棄物に関する技術的・経済的問題、都市と地域という日本社会の構造全体に関する問題などをきちんと理解したうえでその是非を論じろということになれば、多くの人は口をつぐまざるをえないだろう。そうではなく、電力会社が悪い、自民党が悪い、あるいは菅元首相や原発の改善を妨害してきた(?)反原発運動が悪いといったかたちで悪を指定してしまえば、原発問題を語ることのできる人は飛躍的に増える。

 つまり、あまたの問題に関して自分の意見を持つことが一般の有権者に求められる民主主義社会では、問題を特定の悪へと還元してしまう論法は避けることができないのかもしれない。(追記 2014/1/4)このような論法を避けるなら、さまざまな問題はどんどん「脱政治化」していく。つまり、一般の人には手に負えないがゆえに、専門家だけが意思決定に関わるべき問題と認識されるようになっていく(脱政治化については、このエントリに詳しく書いた)。そのほうが望ましいケースがありうることは否定しないが、それを突き詰めると民主主義自体を否定せねばならなくなる。

 さらに、これも別のエントリで述べたように、現代の社会はたとえそれが虚構に過ぎなかったとしても、責任者が責任を取るという前提で成り立っている。たとえ個々の責任者には問題の発生を防止する力などなかったとしても、問題の発生によって生じた巨大なストレスは誰かが責任を取ることでしか緩和できない。しかも、「みんなに責任がある」と言うことは、結局のところ問題の存在そのものを曖昧にしてしまう。

 以前、「歴史のため息」を聞くような歴史家でありたいという文章をどこかで読んだことがある。世のため人のためを真摯に願い、活動していたにもかかわらず、様々な責任を押しつけられ、後世になっても糾弾され続ける人物は少なくない。「歴史のため息」とは、そういう人が現れたときに漏れ出てくるものなのだろう。

 しかし、上記のようなことを考えたとき、そうした営みは歴史家に限定されるものでもないように思う。世に流通する「悪」や「責任」に関する還元論で見えにくくなっている様々な要因や力学を丹念に掘り起こすこと。糾弾されているのとは別の誰かに責任を転嫁するよりも、誰かが責任を取らねばならないことを受け止めつつ、問題を生じさせたシステム全体に目を向けること。それが広い意味での社会を対象とする研究者にとっての重要な課題と言えるのではないだろうか。

 それは「社会のため息」に耳を澄ませる作業と言っていいかもしれない。

脚注(というほどのものでもない)

(1)しかし、本当に『朝日新聞』が嫌いなのなら、同紙の報道や言論にはまったく影響力など存在しないのだと言い募ることのほうが有効な気がしなくもない。