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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

郊外の風景と民主主義

郊外の風景

 ぼくは大都市の郊外で育った。いまから何十年も前の話だ。

 ちょうどぼくが生まれる直前ぐらいに大規模な集合住宅が建設され、多くの若いファミリーが引っ越してきた。それ以外にも多くの若いファミリーが暮らしており、当然、ぼくと同世代の子どもたちがたくさんいた。小学校は1学年6クラス、中学校に至っては11クラスまであった。

 公園にはいつも子どもたちがたくさんいて、少年野球のチームやそろばん塾、ピアノ教室や習字の教室も盛況だった。ぼくはそろばん塾に通っていたが、待合室のようなところで『少年ジャンプ』で「北斗の拳」を読むのが楽しみだった。

 小学校までの通学路にはわりと大きなおもちゃ屋があり、学校に帰りに店先にガンダムのプラモデルが並んでいるのを見ると、急いで家まで財布を取りに戻ったのも懐かしい。早くしないと人気のモデルが売り切れてしまい、不人気なモデル(ボールとか)しかなくなってしまうのだ。

 高校に上がると、駅前のレンタルCD屋にお世話になるようになった。ぼくもいっぱしに音楽を聴くようになっており、今でいうJ-POPのCDをよく借りていた。駅前の本屋で当時集めていたマンガの新刊が出ていないかをチェックするのも日課だった。

 そして、大学入学を機に、ぼくはふるさとを離れた。年に数回は帰省していたが、そのたびに街の風景が変わっていった。

 おもちゃ屋は自転車屋になり、店舗を縮小し、やがて消えた。ぼくが通っていたそろばん塾もなくなった。友人の両親がやっていたメリヤスの作業所も知らないうちになくなっていた。駅前のレンタルCD屋は不動産屋になり、映画館はポルノ路線に変更してしばらくは頑張っていたものの、今はもうない。ぼくが街を離れてから出来たコンビニも、数年前に店を畳んでしまった。

 新しく増えたものもある。病院と薬局だ。駅前には様々な病院や接骨院が並び、処方箋薬局ももちろんある。高齢者向けの弁当を販売する店も盛況だ。高齢になると、家で食事を作らなくなる家庭がけっこうあるのだろう。

 こう言ってはなんだが、ぼくのふるさとはずいぶんと辛気臭い場所になった。

 ぼくも含めて、この街で育った子どもたちは出て行ってしまい、今では高齢者が人口の多数を占めている。昼間は静まり返っているが、早朝は散歩する高齢者でけっこう賑わっているらしい。住人が亡くなったのに権利関係のせいかずっと空き家になっている住居も結構ある。高齢者相手の商売以外にはまったく向かない場所だと思うのだが、それでもたまに新しい店を構える人もいる。だが、数年も経たずに撤退していく。

変貌する風景の背後に

 街のこうした変化については、大規模なショッピングセンターのせいにされることが多い。確かにぼくの両親もたまに車で買い出しに出かけるが、どうもそれは本筋ではないような気がする。やはり大きいのは人口動態、つまりは高齢化だろう。

 商売というのはニーズに対して実に正直だと思う。ニーズのない商売は長続きしない。子どもが減れば子ども向きの商売は立ち行かなくなり、年寄りが増えれば年寄り向きの商売が増える。

 そういう意味では、ぼくら団塊ジュニア世代は実に恵まれている。子どもの頃には子ども向けの店舗やサービス、遊戯施設がたくさんあった。テレビでもゴールデンタイムに子ども向けアニメがやっており、夏休みになれば午前中は『天才バカボン』『ど根性ガエル』の再放送を繰り返しやっていた。お馴染みの「♪西から昇ったお日様が、東に沈む」というバカボンのオープニングテーマで太陽が昇る方向(その逆!)を覚えた人も多いだろう。

 このような動向はこれからも続くだろう。つまり、人口の多い世代のニーズに合わせて社会のあり方は変化していくのだ。ぼくらが高齢層に突入すれば、ぼくらの世代に向けた高齢者サービスも増えていく。もしかすると、「三倍速い」真っ赤な車でデイケアのお迎えに来てくれるサービスが登場するかもしれない。「足なんて飾りです」と介護職員が言いながら、ぼくらの車椅子を押してくれる未来が来ないとも限らない。

 だが、その一方で割を食う世代も出てくる。数が少ない世代だ。今ではゴールデンにアニメをやることは少ない。過去のストックが膨大にあるのでコンテンツが不足することは今のところないが、新しく作られる子ども向け作品は次第に減っていくのではないだろうか。『少年ジャンプ』の発行部数はぼくが成人してすぐぐらいまで伸び続け、1995年には653万部というピークを迎えたものの、現在では280万部を割っているようだ。

 遊園地もかなり潰れた。ぼくがたまに子どもを連れて行っていた多摩テックもなくなってしまった。多摩テックの末期には、平日に行くと寂しすぎるので相対的には客が多い休日に行くべきという話になっていた。それでもかなり人が少なかったので長くは保たないだろうとは思っていたのだが。大人にも求心力のあるTDLUSJは今のところ盛況だが、数十年後にはどうなるかわからない。

 近所の人に聞くと、少年野球チームも人数が集まらずに苦労しているらしい。1学年ではチームが出来ないので、複数の学年が集まってようやく1チームできるのだとか。まあ、これはサッカーに子どもが流れているというのも大きいようだが。

高齢化は悪いことじゃない?

 高齢化が一概に悪いとは言えないというのは理解できる。そもそも日本には人口が多すぎるのだという意見も。

 子どもが減ればファミレスで迷惑をかけられることもなくなるだろうし、集合住宅の騒音トラブルも解消されやすくなるだろう。人口が減れば、いまの殺人的な通勤ラッシュは緩和されるかもしれないし、住宅環境も良くなる可能性がある。子ども向けの産業が縮小しても、高齢者向けの産業が活性化すれば、差し引きゼロだということなのかもしれない。

 でも、病院と薬局ばかりが並ぶ、ぼくのふるさとの風景を思い出すと、あれが望ましい未来像だとはどうしても思えない。子どもが存在することの意味は、おそらく経済統計だけでは測れない。社会にとって子どもは未来の指標であり、ぼくらが死んだ後にも社会が存続していくことの目に見える証拠だ。未来への展望が描けない社会は、たとえ数字には表れなかったとしても、その根幹の部分を腐食させていくのではいだろうか。

 もちろん、「産めよ増やせよ」は時代錯誤だ。また、高度成長のあいだだけ偶然的に可能だった家族形態や子育てのあり方に固執し、「伝統的な日本の子育て」を守ろうとする発想は、子どもの数そのものを減らす可能性が高い。家族だけで「ちゃんとした日本人」を育てろというのは、日本人自体の数を減らしていく。

 そもそも、家族だけで育児を完結させろというのは、少子化に十分な対策を打つことができない政治の怠慢を子育て世代に押し付けるための言い訳にすぎない。正直な話、子ども手当や高校無償化などの政策が「バラマキ」だと批判され、社会で子どもを育てるという発想が「ポルポト的だ」という主張が出てきたときには、日本の将来に絶望しそうになった。

 次世代の育成という社会の根幹に関わる事業が政局に左右されてしまうという事態は、子育て世代やその下の世代に相当な不安を残したのではないだろうか。政策的な支援を想定しながら子どもを作ったとしても、政局や政権が変われば簡単にひっくり返ってしまう。そんな状況のもとで、安心して子どもを生んだり、育てたりすることができるはずがない。子どもが欲しいのに持てない人たちがたくさんいる現状を踏まえると、若い世代に支援をバラまいたとしても罰は当たらないはずだ。政治家の皆さんには、改革を声高に訴えるだけではなく、政策の安定性が持つ意味をもう少し考えて欲しいと思う。

シルバーデモクラシーのなかで

 団塊ジュニアが40代に突入しているいま、少子化対策はもう手遅れだという指摘は正しいと思うし、もはや人口の大幅な減少は避けられない事態だ。でも、手遅れだからといって何もやらないことが正しいとも思えない。シルバーデモクラシーのもと、高齢の有権者の意向が無視できないこともわかる。だが、有権者はつねに近視眼的な自己利益のもとでだけ誰に投票するかを判断するのではない。明確な理念とビジョンに納得しさえすれば、多少の犠牲は受け入れる存在でもある。

 都知事選であれ国政選挙であれ、候補者は知名度を競うのではなく、空虚なスローガンを振り回すだけでもなく、今後の社会の存続をどのように考えるのか、その点を明確に示して欲しい。

 他方で、政治家であれ官僚であれ、社会生活を送っている以上、マスメディアやネットで流通する意見からも影響を受ける。たとえば、新聞の社説は、新聞のなかでももっとも読まれない部分として知られているが、社説が扱うテーマに関係する人たちは熱心に目を通すとも言われる(だからこそ、官僚機構は政策審議会に新聞の論説委員を入れ、彼らの取り込みを図ったりする)。

 さいきんでは、ネットからの影響を受けていると思しき政治家の主張を見ることも珍しくない。政治家であれ官僚であれ、その多くは自己利益だけではなく日本の将来を真剣に考えているのであり、だからこそ見たもの聞いたものから影響を受ける。

 こう考えると、理念とビジョンを考えるのは、狭い意味での政治家や官僚だけの仕事なのではなく、メディアや言論人なども含めた社会全体での仕事だということになる。それは狭い有権者に限らず、国籍を持つ人も持たない人も加わることのできる議論であっていいとも思う。実際、政策研究の領域でも、国家が危機的な状況に陥ると、既存のルーティン化した政策的手段が通用しなくなるために、メディアが流通させる理念の影響力が大きくなるという指摘がある。

 実に空々しいし、空虚であることは嫌というほどに承知しているのだけれども、つまるところ民主主義というのはこういうことなんだろう。理念とビジョンを考えるのは、社会を構成する一人ひとりの責任なのだ。もちろん影響力の多寡はあるし、ぼくがこんな過疎ブログで吠えたところで何かが変わるわけでもない。

 でも、選挙での一票一票が持つ意味は乏しくとも、それが集まれば勝敗を決するのと同じく、無数の声が上がることには意味がある…んじゃないかと思う。たぶんね。