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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

プライドとしてのオリエンタリズム

社会

 NHKスペシャル“アジアの一等国”の番組内容をめぐって賠償判決が下されたようだ。

番組内で名誉毀損、NHKに賠償命令 台湾統治の検証 東京高裁

 残念なことに、ぼくはこの番組を見ていない。なので、断片的な情報しかないのだが、この問題は結局のところ「オリエンタリズム」をどう捉えるべきかという話に落ち着くのではないだろうか。

オリエンタリズムとは何か

 オリエンタリズムとは、西洋人による東洋(オリエント)へのまなざしを批判的に表す言葉だ。エドワード・サイードの著作により知られるようになった。

 帝国主義の時代、科学技術の面では圧倒的に進んでいた西洋の人びとが「遅れている」東洋人に対して向けるまなざしには当然のごとく差別的なものがあった。しかし、ただ見下していただけかと言えば、そういうわけでもなく、そこにはエキゾチックなものに対する羨望と蔑視とが入り交ざったような複雑な感情がうごめいていた。

近代ヨーロッパ科学の明るみの中に登場した新しいオリエントは、「ヨーロッパ諸国民の風習との顕著な対比」を示す役割を担い、それによって東洋人の『奇妙な享楽性』が、西洋の風習の生まじめさと合理性とをことさらきわ立たせることになる。
(出典)エドワード・サイード、今沢紀子訳(1978=1993)『オリエンタリズム(上)』平凡社ライブラリー、p.203。

 一言で「東洋」などと言っても、広大な地域が広がっているわけで、東洋を語るというのはどこまで行ってもステレオタイプの域を出ない。しかし、東洋研究者(オリエンタリスト)たちが描き出す東洋人の奇妙なイメージは、文明の頂点にある西洋という自己イメージを確立するうえで不可欠だったというわけだ。

 このような関係のもとでは、西洋は文明の中心であり、無色透明で普遍的な存在とされる一方、東洋には西洋とは全く異なる奇矯な文化があると見なされる(1)。つまり、西洋人は「普通」で、東洋人は「変わった」存在だという構図が生まれることになる。

 以前にブログで書いた、ディズニーランドのアトラクション「イッツァ・スモール・ワールド」では、途上国に行くほど描かれるイメージがフィクション性を増していくというのも、こうしたオリエンタリズムの延長線上にあると言えるかもしれない。

 ともあれ、オリエンタリズムのもとでは東洋人は対話を行うべき人間というよりも、あくまで研究対象(または見世物)でしかなくなってしまう。乱暴に言えば、「ぼくは見る人/あなたは見られる人」みたいな構造が出来上がることになる。

オリエントの人間は、何よりもまず東洋人(オリエンタル)であって、人間であることは二の次だった。…オリエンタリストとは書く人間であり、東洋人とは書かれる人間である。これこそ、オリエンタリストが東洋人に対して課した、いっそうの暗黙裏の、いっそう強力な区别である。東洋人に割り当てられた役割は消極性であり、オリエンタリストに割り当てられた役割とは、観察したり研究したりする能力である。
(出典)エドワード・サイード、今沢紀子訳『オリエンタリズム(下)』平凡社ライブラリー、p.75、p.244。

東洋人はオリエンタリズムにどう対処したか

 それでは、このような西洋と東洋との関係のなかで、日本人も含む東洋人にはどのような選択肢があったのだろうか。一つは、なんとかして西洋人と同じく見る側に回ろうとすることだ。つまり、東洋のなかでもさらに遅れた存在を見出し、それと自己を対比させることで西洋の仲間入りをさせてもらうという発想だ。

 もう一つの選択としては、オリエンタリズム的なステレオタイプを受け入れ、それを利用してしまうというものがある。

オリエンタリズムは西洋の「偏見」にはちがいないとしても、アジアもまたその形成に協力したといってよい。フジヤマ、ゲイシャもまた然り。異文化をめぐるイメージの売りと買いとの競合が、常に異国情緒を創り出してきた。
(出典)青木保(1998)『逆光のオリエンタリズム岩波書店、p3。

 つまり、偏見を逆手に取ってビジネスの手段にするという方法だ。たとえば、アフリカのマサイ族といえば「野蛮な人たち」というイメージがあるが、実際には都市で暮らしている人も多い。だが、観光客相手には「野蛮」なイメージが受ける。そこで、マサイ族のなかには企業と契約し、観光客の前でだけ昔ながらの衣装で昔ながらの狩猟を行う人たちもいるのだという。

「人間動物園」の何が問題だったのか

 というわけで、ようやくNHKスペシャルの話。間接的な情報を得る限りは、この番組はおそらくオリエンタリズム的な偏見を告発しようとしたのだろう。「人間動物園」というのは、まさに上で述べたような「見る人」としての西洋人、「見られる人」としての東洋人という権力関係を表した言葉だと言える。

 ところが、内面化されたオリエンタリズムは、「見られる人」の側のプライドの源泉にもなる。実際、ステレオタイプ的なイメージというのは、乗っかればそれなりに受け入れられることがある。昔、スペインで現地の子どもたちからせがまれたので、空手のポーズを取ると大ウケしたことがある。むろん、ぼくは空手などやったことはない。そこにオリエンタリズム的な不平等や偏見はあれども、ステレオタイプに乗っかることがプライドになることもありえよう。

 あるいは、偏見の被害者だったということを認めるのにも抵抗が生じることもある。見世物にされていたというのは、たとえ被害者であったとしても自尊心を大きく傷つけるからだ。今回のNHKの番組が取材対象者の怒りを買ってしまったのは、そのあたりに対する配慮の不足があったのではないだろうか。

 結局のところ重要なのは「オリエンタリズムの被害者/加害者」という図式を杓子定規的に当てはめないことではないだろうか。偏見の対象であったとしても、上で述べたようにその偏見を逆手に取ることがある。その場合、「見世物にされた可哀想な人たち」という語りは、かえってその当事者を傷つけてしまうことになりかねない。

 もちろん、それはオリエンタリズムがもたらす偏見や差別を容認するということと同じではない。ただ、オリエンタリズムによって一方的に差別されるだけの存在だったという見方もまた、東洋人の側の主体性や能動性を否定するという意味において別種のオリエンタリズムになってしまう可能性もある。そのあたりをもっと強調すれば、今回の出来事もまた違った展開になったのかもしれない。

 まあ、当の番組を見てないから、ぜんぶ憶測なんだけど。