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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「在日」とは、在日の人たちのことではない

社会

 今朝の『朝日新聞』に在特会関係の記事が掲載された。そのなかで、反在日デモに参加している女性のことが紹介されている。

 韓流ドラマに親しむ「ふつうのOL」だったという。昨年夏、韓国大統領竹島上陸と天皇謝罪要求に衝撃を受け、ネットで関係記事を検索。在特会の存在を知り、「真実を見つけた」とのめり込んだ。「私も日本を守るために行動しないと」と思ったという。
 在日韓国・朝鮮人から何か被害を受けたことがあるのか。そう問うと、女性は答えた。「周りに在日がいないので、どんな人たちなのか直接には知りません」
(出典)『朝日新聞』2013年11月22日

 この文章からまず浮かぶのは「ネットde真実」という言葉だ。ネットで見つけた怪しげな情報を「隠された真実」だと思い込み、それに反する情報を受け付けなくなってしまうという状態を指す。だがここでは、「ネットde真実」という話にとどまらず、もう少し踏み込んでこの反在日デモについて考えてみたい。

 それにあたって格好の手引きとなるのが、マーレー・エーデルマン『政治スペクタクルの構築』(法貴良一訳、青弓社)の第4章「政治的な敵の構築と効用」だ。この本の原著の出版は1988年であり、日本について論じた本でもない。けれども、この本を読んでいると、反在日デモについて思い当たるところが頻繁に出てくる。

 エーデルマンはまず、「敵」について次のように述べる。

 政治における敵とは外国のことかもしれないし、嫌われているイデオロギーを信奉する人々や何か自分たちと異なったところを持つ人々であったり、なんらかの空想の所産であるかもしれない。いかなる場合であれ、敵の存在は政治の場面につきものである。
(出典)マーレー・エーデルマン、法貴良一訳(1988=2013)『政治スペクタクルの構築』青弓社、p.91。

 エーデルマンは、このような「敵」と「政治的に対立する相手」とは全く違うのだと主張する。というのも、政治的に対立する相手の場合、そこに憎悪があるとは限らないからだ。むしろ、彼らとの関係において重要なのは、共通のルールに従って彼らを打ち負かすことにある。スポーツでのライバル関係と考えていいかもしれない。

 ところが敵の場合、状況は全く異なる。というのも、相手が敵である場合には、相手を打ち負かすことというよりも、相手の存在を否定し、消し去ることがその目的になるからだ。上の記事で紹介されている次の発言は、まさにそのことを示している。

支持は広がらず、在日韓国・朝鮮人が住みづらくなるだけでは」と尋ねると、「まさにそれが私たちの望みです」と切り返された。在日が住みにくい社会こそ日本人の住みよい社会、と女性は力説した。
(出典)『朝日新聞』2013年11月22日

 エーデルマンによれば、敵と名指しされるのは、社会の様々な不満や憤りをぶつけることができる弱い立場の人が選ばれることが多いのだという。つまり、何かに対する不満や怒りを別の対象へと置き換え、後者にぶつけることで解消しようとする衝動が存在するのだ。在日の人たちの場合であれば、韓国や北朝鮮の政府に対する不満や怒りが、より攻撃しやすい対象である在日の人たちに向けられていることは否定できないだろう。

重要なのは誰かを敵と所定することであって、それがもたらす害悪の程度ではない。失業率が急上昇しても、誰か具体的な敵が見当たらなければ、それは自然の大災害や神の御業と違いがない。それとは対照的に、これといった害悪をもたらしていなくても、黒人やユダヤ人、ヴェトナム人がなんらかの邪悪な資質のシンボルとなることもある。
(出典)エーデルマン、前掲書、p.115。

 もちろん、攻撃するためには何らかの口実が必要となるので、「公園の不法占拠」といったそれらしい理由が語られたりもする。しかし、それが在日の子どもたちに悪罵を投げつけることが正当化されるほどに深刻な問題だとはとても言えない。在日の人たちを攻撃する口実として利用されたに過ぎないというほうが遥かに説得的だ。

 そして、このような敵はイメージによって形作られるがゆえに、そう名指しされた人びとの実像と全く異なる存在になっていくとエーデルマンは論じる。反在日デモに参加する人たちの語る「在日」とは、実際に生活を営んでいる人間なのではなく、敵対心をぶつけるために都合よく仕立てあげられたイメージでしかない。だからこそ、広告代理店を陰で支配し、パチンコ屋からの献金によって政治にも大きな影響力を及ぼす一方で、大多数が失業し、犯罪に走ったり生活保護に依存しているという荒唐無稽な「在日」像が語られるのだ。

 そのようなイメージとしての敵への憎悪は、実在の人間からは乖離しているため、本来ならその敵に含まれるはずの人たちとの友情と矛盾なく共存できる。したがって、反在日デモに参加する人たちに在日の友人がいたとしても不思議ではない。アドルフ・ヒトラーが母親の看病にあたったユダヤ人医師や元上官のユダヤ人を保護していたという話があるが、これも彼の知人であり人間として認識されているユダヤ人と、彼が脳裏に描く「ユダヤ人」とが全く乖離していたことの証左と言えるだろう。

誰かを人間として扱う場合には、敵であることは忘れなければならない。自分の親友のなかにユダヤ人もいると話す反ユダヤ主義者は、本気でそう言っているのである。人間と敵を別扱いする心理は、現代オーストリアのような国々で反ユダヤ主義が拡大、高揚する理由も説明してくれる。そうした国々にはもはやユダヤ人がほとんどおらず、反ユダヤ主義は生身のユダヤ人とは無関係である。
(出典)エーデルマン、前掲書、p.104。

 これを裏返せば、反在日デモに参加する人たち仮に在日の人たちと知り合ったとしても、必ずしも敵意の抑制につながるとは限らないことを示している。それどころか、「自分には在日の知人もいる」ということが、「在日」を攻撃する言い訳に使われる可能性もあるだろう。必要なのは、人間としての在日の人たちと、敵としての「在日」のイメージとをつなぎ、後者を破壊するための回路をつくることだ。

 それでは、どうやればそれは可能になるのだろうか。即効性のある解決策は思い付かないが、やはり平板化された敵のイメージを崩していくしかないだろうと思う。多くの日本人とは違うルーツを持ちつつも、同じように笑い、悲しみ、時に間違いを犯したりもする。そういった人間としての側面を知っていくことでしか、敵への憎悪は抑制できないだろう。

 そしてそれこそが、メディアが本来果たすべき役割なのではないだろうか。犯罪などの問題を起こしてばかりの存在ではなく、差別されるだけの可哀想な存在でもない。一人ひとりが違う顔を持った存在として在日の人たちを描き出すことがたぶん必要なのだと思う。もちろんそれは生易しい課題ではないのだが。