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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

直接性の願望

コミュニケーション

 ネットは便利だ。

 何か知りたいことがあればググればいいし、誰かとつながりたければSNSを使えばいい。その気になれば地球の裏側で起きているニュースも知ることができるし、見ず知らずの人にメッセージを投げることもできる。

 だが、ネットを使うほどに、ある種のもどかしさを感じたりもする。ネットを使うだけでは、スクリーンの向こう側に行くことはできないということだ。もちろん、電車や飛行機で実際の現場に行けばよいだけの話なのだが、それが現実的でないケースのほうが多い。

 東日本大震災が起きたあの日、被災していた人たちや帰宅難民になっていた人たちはそれどころではなかっただろうが、運良く安全な場所にいた人たちの多くはスクリーンの前でそのもどかしさを感じていたのではないだろうか。

 今まさに多くの命が失われつつあるという情報が次々と流れていくなかで、自分には役立つことがなにもできないという無力感。真偽はともかく情報だけはあるがゆえに、スクリーンの向こう側にいる人に手を差し伸べることができないことのもどかしさはさらに強まる。震災時には多くのデマがネットを駆け巡ったが、それをRTしたりした人の多くは自分にも何かできることがないかを探しあぐねていたのではないだろうか。

 こうしてネットは直接性の願望を強める。膨大な情報が存在し、自分もまた発信者になることが可能であるがゆえに、スクリーンの向こう側の出来事に直接にアクセスできないことへの不満はかえって強まる。だからこそ、自分自身と実際の出来事との間に存在する「余計なもの」を排除したいという願望もまた強まるのではないだろうか。

 たとえば、ネットでは昔からマスコミ批判が盛んだが、その背景には自分自身と出来事との間に挟まっている「マスゴミ」が情報を歪曲しているのではないかという疑念があるのだろう。マスコミは余計な意見など加えず、出来事を淡々と報じれば良いという意見は根強い。

 そして、最近話題になっている日本ユニセフにしてもそうだ。被災地で困っている人に直接に支援を届けたい。にもかかわらず、せっかくの寄付金を「中抜き」するとはけしからんではないか、という憤りがその背景にあるのだろう。もちろん、広告塔のアグネス・チャンさんが嫌いというのも大きいのだろうけれども。

 だが、実際には一般の人たちと出来事との間をつなぐ存在は不可欠だ。メディア研究では有名な「誰も見ていない森のなかで木が倒れたら、それはニュースか?」という問いかけがある。もちろん、実際には木が倒れたぐらいではなかなかニュースにならないが、ここで言いたいのはそういうことではない。ニュースは勝手に生まれるものではないということだ。何かの出来事がただ起きただけではニュースにならない。誰かがそれをニュースと呼ぶにふさわしいと判断し、文章なり映像なりにすることで初めてニュースになりうる。

 実際、ネットでは時々「マスゴミ」が全滅することを祈願していたりする人がいる。しかし、もし仮にそうなればニュースは消滅する。政府や企業が情報を出したとしても、一般の人びとがそれらをすべてチェックすることは不可能である以上、それらの情報は存在しないのと同じになるからだ。結果として、既存マスメディアよりも遥かに怪しげなサイトが情報の新たなハブとして「ニュース」を提供するだけだろう。

 慈善団体にしても同様だ。仮にネットによって被災者に直接的にお金が届けられるシステムが完成したとしても、今まさに食料品や薬品に困窮している人たちにとっては紙切れも同じだ。いつ、どこで、誰に、どのような支援をするのかということを判断できるのは、結局のところ一般の人びとと被災者の間にいる人たちしかいない。そうした人たちが間に入るのがどうしても嫌なら、自分で被災地に行くしかない。

 確かにネットは便利だ。だが、裏を返せば、ネットが便利なのはそれがあくまで事件や出来事への間接的なアクセスしか保証しないからだと言える。直接的にアクセスするためには膨大な時間的、金銭的コストが必要となり、結果としてネットが可能にするような軽やかな振る舞いは不可能になる。いったんフィリピンに支援に行ったのなら、次の瞬間にシリアの支援に行くことは不可能だ。

 スクリーンの向こう側には、災害に苦しんでいる人たちだけではなく、彼らの実情を世間に伝えることで幅広い支援を引き出す人たちや、実際に彼らに支援物資を手渡す人たちがいる。日々、ネットの便利さを享受するわれわれは、直接性の願望に惑わされることなく、間接的にしか出来事に触れることしかできないことの限界とメリットについて考えてみても良いのではないだろうか。