擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「反日分子」からの挨拶

 ジョージ・オーウェルの小説『動物農場』のあとがきには、「英国ファシスト連盟(BUF)」のリーダー、オズワルド・モズリーをめぐる顛末が書かれている(モズリーの主張については、以前、このエントリで紹介した)。第二次世界大戦が勃発すると、英国政府はモズリーとその妻、そしてBUF(この頃には英国連盟と名乗っていた)の幹部を拘束し、裁判抜きに収監してしまう。オーウェルもこの措置に賛成している。

 その後、1943年になるとそろそろモズリーたちを釈放しても良いのではないかという話が出てくる。モズリーとは政治的立場がまったく異なるはずのオーウェルも釈放には賛成する。ところが、当時のイギリスには強い釈放反対論が存在していた。オーウェルによれば、その釈放反対論は「民主主義を守るためには全体主義的な手法が必要」だと主張していたのだという。

 その「手法」は要するにこういうことだ。民主主義を守るためにはいかなる手段を用いても「敵」を粉砕しなくてはならない。では、その「敵」とは誰のことを指すのか?それは民主主義をあからさまに攻撃する者だけではなく、「客観的」に民主主義に害をなすものも含まれる。つまり、本人は「イギリスのため」と思っていても、他人から見て民主主義に有害だと判断されれば、その人物は粉砕されねばならないということになる。

 オーウェルはこのような主張を激しく批判する。どの思想が「有益」でどの思想が「有害」なのかを専制的に決定するような態度、個々人の思想の独立性を認めない上記のような主張は、いずれ全体主義へと帰結してしまう。オーウェルがその後、『1984年』で全体主義社会の恐怖を書いた背景には、こうした主張への強い反発があったのではないだろうか。

 さて、話は突然変わって、現代ニッポン。ネットを見ていたら、こんな記事を見つけた。要するに、アメリカで韓国人団体が日本人に嫌がらせをしているという話だ。もちろん、嫌がらせが事実で、日本人の英語学習を妨害するような動きに出ているのであれば、そうした動きは厳しく批判されるべきだ。

 しかし、この記事の実に嫌な部分は以下のようなところだ。

今、日本人が立ち上がらなければ、先人やわれわれの名誉だけでなく、未来の日本民族の名誉までも奪われる。対峙すべきは、韓国系団体や韓国世論だけでなく、日本国内の反日メディアや反日分子である。

 ぼくは従軍慰安婦に関して、この人が表明している認識にはまったく賛同しない。慰安婦とされた人たちに対しては深刻な人権侵害があったと考えるし、日本軍も明らかにそれに関与していたと考える。なので、この人からすれば、ぼくは「反日分子」ということになるだろう。

 ただし、ぼくは日本によって悪しかれと思って、そういう主張を支持しているわけではない。過去の人権侵害や過ちを認めない国家は、今後においても同じことを繰り返す可能性が高いと考えるだけだ。ぼくやぼくの子どもたちが今後も暮らしていく日本にそういう国家になって欲しくないからこそ、過去のダーティな部分を躍起になって否定しようとする動きをぼくは強く批判する。

 だが、こう言ったところで、おそらく上で引用した人の「反日分子」認定は変わらないだろう。「お前の思想は日本にとって客観的に有害であり、お前は反日分子だ」と言うかもしれない。「反日」や「売国」といった言葉をやたらと使う人の根底には、おそらくそういう発想があるんじゃないかと思う。そうでもなければ、自己の主張と国家の利益とを簡単に同一視してしまえる言葉をこうも安易には使えないだろう。

 上の文章を書いた人は、「早大政経学部卒業後、米ハーバード大学大学院で政治学博士課程を修了。ハーバード大学国際問題研究所・日米関係プログラム研究員などを経て帰国」したらしいのだが、こんなに華々しい経歴を持ちながら、こんなクソみたいな文章しか書けないというのは、いったい何を学んできたのだろうか。