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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

教室という場所

学問

 ぼくは自分で勉強ができない高校生だった。

 自室で勉強していても、10分から15分で限界がくる。気がつけばマンガを読み始め、テレビを見て、ゲームをしてしまう。意志の力で耐えようとしても、すぐに限界がきてしまう。

 そういうしているうちに大学受験のシーズンがやってきた。部活動を引退しても、相変わらず自分で勉強ができない。初めて受けた模試は散々な結果で、たしか選択で選んだ世界史は100点満点中1点だった。偏差値は30ぐらいだったろうか。

 それでも受験勉強はしなくてはならない。そこで、放課後に仲が良かった友人と一緒に学校の図書館で勉強することにした。彼らが真面目だったおかげで、それほど雑談をするわけでもなく、黙々と勉強に励んだ。不思議なことに、自室では15分でも苦痛だったのが、図書館では1時間でも平気で机に向かうことができた。

 そこで気づいたのは、ぼくがとことん駄目な奴だということだった。要するに、マンガやゲーム、テレビなど集中を妨げる周囲にあると、勉強する意欲がまったくなくなってしまう。他方で、勉強するしか他にやることがないような空間では、それなりに集中できる。この気づきのおかげで、ぼくはどうやれば自分が一番集中できるのかを考えるようになり、勉強する時間も集中力も飛躍的に伸びた。結果、現役では無理だったものの、1浪でなんとか大学に潜り込むことができた。

 しかし、ぼくのこういうだらしなさは大学生になっても、大学院生になっても、さらには大学の教員になっても変わらなかった。試験前に友人と一緒に勉強するにしても、受験勉強という明確なハードルと寡黙な仲間がいない場合には、雑談に興じてしまい、まったくもって勉強にならないことも判明した。

 研究をするにしても、気を散らすものが近くにあるとどうしても集中できない。教員になってから特に困ったのがネットだ。ネットに接続できる環境にあると、どうしても論文を読むのが遅くなったり、作業が滞りがちになる。しかも、ネットで拾ったネタは授業中の小話で使えることがあるので、まったくの無駄でもないと自分に言い訳できてしまう。

 なので、大学に就職してからのぼくの最大の課題は、どうやればネットのない環境で研究するかということである。そのため、ぼくはネットに接続できないカフェを渡り歩いたり、わざわざ長めに電車に乗ったり、公園のベンチで本を読んだりしているわけだ。自分の手元に今読むべき論文や本、そしてネット接続されていないPCしかないという状態が、ぼくが最高に集中できる環境だ。

 もちろん、こういう勉強や研究のやり方には個人差がある。うちの奥さんに聞いてみたところ、彼女は自室でないと集中できないタイプらしい。それでも、集中しやすい環境とそうでない環境の違いというのは存在するのであり、それを無視して教育の効果を語ることはできない。実際、学生にPCソフトの使い方を教えたりすると、かなりの数の学生が関係のないサイトを見ており、まったく集中できていない様子を伺うことができる。

 このように考えていたところ、先日読んだケント・グリーンフィールド『<選択>の科学』にまさしく同じようなことが書いてあった。人間の選択は周囲からの様々な操作や誘惑によって簡単にねじ曲げられてしまう。それらに打ち勝つためには、意志を鍛えるのではなく、最初から誘惑が存在するような場所に身を置かないことが必要なのだという。

私の友人の一人に、大学で知り合って結婚した妻と長いあいだ円満に暮らしてきた、家族に対してとても献身的な中年男性がいる。ビジネスで成功を収め、地元のコミュニティで中心的な役割を果たし、オバマ大統領の友人でもある。チャーミングで人付き合いがよく、女性にもてる。その彼に、さまざまな誘惑のなかで妻に対する誠実さを保ち、長いあいだ円満な結婚生活を維持していくための秘訣とはいったい何かと尋ねたことがある。それに対する彼の返答は「誘惑の多い状況や、誤解を招く状況に身を置かないこと」だった。
(出典)ケント・グリーンフィールド、高橋洋訳(2011=2012)『<選択>の神話』紀伊國屋書店、p.282。

 あるいは、アルコール依存症の克服に失敗するケースでよく見られるのが、「本当に禁酒に成功したのなら、酒が置いてあるところに行っても大丈夫なはずだ→本当に成功したのなら、少しぐらい飲んでも飲み過ぎないはずだ」というような心理だとも聞く。つまり、アルコール依存を断ち切るために本当に必要なのは、意志の力を鍛えることよりも、最初から誘惑の源には近づかないという選択なのだ。

 そう考えると、学校の教室という空間は、単に教員の話を聞くために集まるという以上の意味を持っていることがわかる。つまりそれは、勉強の妨げとなる誘惑から生徒や学生を隔離し、いま学ぶべきことに集中させるという機能を担っているのだ。上で紹介したグリーンフィールドは、授業をするさいに学生が教室にPCを持ち込むことを禁止しているのだという。

 もちろん、教室にそのような機能を遂行させるためには、教員が居合わせることが必要であり、私語を抑制したり、余計なことをさせないということが必要になる。私語をしても良いのであれば、目の前のおじさんが語る小難しい話に耳を傾けるよりも、隣に座っている友人と昨夜のアニメについて話をしたほうが楽しいに決まっている。

 授業の代わりに学生にビデオを見せておけばいいという発想にぼくが懐疑的なのは、このような理由からだ。自宅で見るにせよ、教員のいない教室で見るにせよ、それは生徒や学生の自制心を強く見積もり過ぎているのではないだろうか。そのような発想をする人は環境に左右されない、強い意志をもって勉学に取り組むことができたのだろう。

 だが、ぼくのように意志の弱い者からすれば、自宅や教員のいない教室で真面目に授業のビデオに集中している自分の姿を想像することができない。見始めたのはいいものの、10分ぐらいで飽きて、友人と無駄話をしたり、ネットでツイッターをやったり、おもしろ動画を延々と眺めている姿ならいくらでも想像できるのだが。