擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

失礼なコミュニケーションへの憧れ

文化的親密圏とは何ぞや?

 文化人類学者のマイケル・ヘルツフェルドは、『文化的親密圏』という著作のなかで次のようなエピソードを紹介している(1)。

 2000年代のタイ、バンコクでは「アジアのシャンゼリゼ通り」を実現するべく、古い街路の再開発が進められていた。そのさいに再開発の妨げと見なされたのがホームレスの人びとだった。そして、バンコク市長はホームレスを「野良犬」に例え、世論に大きな憤りを生じさせることになった。ムスリムや仏教徒にとって、動物呼ばわりされることは大変な侮辱になりうる。

 その一方で、タイ人は親密な人たちとの間では動物に例えるニックネームを頻繁に用いる傾向にあるのだという。エビ、カニ、ブタ、ネコなどのニックネームはきわめてありふれているとヘルツフェルドは述べる。むしろ、そのようなニックネームは親密さの証だとも言いうるのだ。

 このように、同じ呼称であっても、親密な人間関係のなかでは問題なく流通するものが、公的な場面で用いられたならば大問題になりうることがある。たとえば、プライベートな会話では「お前、本当にクズだな」と互いに笑い合っていたとしても、マスメディア上で政治家が友人について同じことを言えば、問題になる可能性は高いだろう。

 ヘルツフェルドは、建前が支配する公的な圏域と無礼な言動が許される親密な圏域とを区别し、後者を文化的親密圏と呼ぶ。文化的親密圏のなかでは規範からは外れた言動も許容されるが、それが公的な圏域に流出してしまうと一気に問題となり、批判が集中する。この夏に続発したツイッター炎上も、そうした現象として位置づけることができる。文化的親密圏としての「うちらの世界」で完結するはずのものが、その外に出てしまったのだ。

「よそよそしさの圏域」

 けれども、公的圏域と文化的親密圏という二分法は大雑把すぎて、人間関係の微妙な部分をすくい上げられないような感もある。というのは、ヘルツフェルドが言うような意味での公的圏域と文化的親密圏のあいだに「よそよそしさの圏域」みたいなものが存在しているようにも思うからだ。

 ここで少し、ぼくの昔話をしてみたい。以前にも書いたように、高校時代のぼくはとにかくモテなかった。男女共学の高校であり、かつまた多数の女子部員が所属する部活にいたにもかかわらず、女子との交流は少なく、特に高校生活の後半では会話した記憶すらも乏しい。

 その一方で、当たり前ではあるが、女子と仲良くしている男子もいた。そういう連中が楽しげに会話しているのを遠目に眺めては「リア充死ね」とは思わなかったが(むろん、当時そんな言葉はない)、羨ましいと思っていたことは否定しない。

 ともかく、そんな彼らの様子を伺っていると、なんというか男子が実に女子に対して失礼なことを言っているのである。ぼくには到底言えないような発言を平気でしている。実にけしからんというか、羨ましいではないか。

 だが、そのような失礼な発言をするためには、それによって人間関係が壊れないという安心感が必要になる。つまり、文化的親密圏において変なニックネームを使うことができるのは、そのような安心感があってこそなのだ。それがなければ、公的圏域でも文化的親密圏でもないところでよそよそしく相手と距離を取り続けるしかない。

失礼なコミュニケーションへの憧れ

 したがって、失礼な発言をすることができるコミュニケーション空間への憧れが少なからぬ人にあるように思う。たとえば、高校生が主人公のアニメなどでも、登場人物は互いにきわめて失礼な発言を繰り返したりする。「低能」、「胸が小さい」、「頭が悪い」、「変態」、エトセトラエトセトラ。その背景には、そういった言葉を交わしても壊れることのない人間関係に対する切望があると言えるかもしれない。

 そして、コミュニケーションが上手くない若者は、そうした切望が強すぎるせいか、不用意に失礼な発言をしてしまうことがある。実際には、文化的親密圏を築くためには、それなりに時間をかけて人間関係を育んでいく必要がある。その準備作業なしにいきなり失礼な発言をしてしまうと、ただの嫌な奴になってしまいかねない。大学生になったぼくは、高校時代の反動からか、人間関係が出来上がる前からえらく失礼な発言を繰り返すようになったが、そういうやり方はお勧めしない。

 とはいえ、失礼な発言を伴うコミュニケーションというのは、若者の特権なのではないかとも思う。これも以前に書いた通り、歳を重ねるほどに、相手に対して思ったことをそのまま発言することは難しくなっていく。若者の間であれば冗談で済むかもしれない言葉が、中高年になってくると刃のように突き刺さりかねないからだ。ぼくも、たとえ相手が学生時代からの親友であったとしても、気がつくとずいぶん気を遣いながら話すようになっていた。でもそれは、仕方がないことなのだろう。

 なので、もし可能ならば、若い人たちには小さくてもいいから文化的親密圏を作り、失礼なコミュニケーションができるようになって欲しいと思う。それが若者の特権だからだ。

脚注

(1)Michael Herzfeld (2005) Cultural Intimacy (2nd edition), London: Routledge, pp.69-70.