擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

領域横断的研究の憂鬱

 ツイッターで書こうと思ったのだが、長くなってきたのでブログで書くことにする。

 ぼくがまだ駆け出しの研究者だったころ、ある先生が次のようなことを言っていた。

 「研究者(執筆家)には、新しいアイデアをぽんぽん出していくタイプと、既存の発想とその新しいアイデアとの間を繋いでいくタイプがいる。前者は派手だし目立つが、独特の才能が必要になる。それがなければ、後者のやり方を地道にやっていくしかない」のだと。

 補足すれば、新しいアイデアで勝負しようという場合、単に新たな概念や理論を思いつくというだけでは不十分だ。それをうまいフレーズで表現するコピーライター的な才能も必要になる。だが、ぼくには多分、その両方の才能がない。

 というわけで、ぼくの研究スタイルは圧倒的に後者で、既存の研究の裏付けが乏しいところで文章を書いているとどうにも落ち着かない。もちろん、既存研究をただ並べているだけでは何の成果にもならないので、異なる領域の発想を組み合わせて、注目を集めている理論や発想を裏付けたり、批判したりするわけだ。

 そのために、いろいろな領域の論文をつまみ食いすることになるわけだが、これはどこまでやっても中途半端にしかならない。特定の領域で知識を蓄積している人からすれば、聞きかじりの知識を並べているようにしか見えないだろうと思う。実際、ある分野をずっと研究している人の文章を読んだりすると、その含蓄の深さにしばしば絶句してしまう。

 それでも領域横断的な文献リサーチはそれなりに大変で、どこまでやってもきりがない。アイデアだけをさくっと流用するなら簡単だが、やはりそれがどういう文脈で生み出され、どのように活用され、いかなる批判があるのかというところまでは押さえておかないと、どうにも落ち着かない。

 加えて、前にも書いたように、ぼくは本や論文を読むのがきわめて遅い。とはいえ、今さら新しいアイデアで勝負ってわけにもいかないだろうし、これを続けていくしかないんだなあと思う今日このごろだ。最近では、こんな研究を続けたところで何か意味があるのだろうかと思うことしきりだ。

 結局、専門的な領域を持っている人は、他領域に関心を持った場合には自分でそれを学んでその間を架橋する。だから、ぼくのような中途半端なスタイルの者の出番は存在しないのだ。

 しかも、自戒を込めて書くと、こういうやり方は逆説的に教条主義的な既存研究至上主義に陥る可能性があるようにも思う。専門領域に関する知識が不十分だというコンプレックスがあるために、自分よりもさらに知識が欠落していそうな人を見つけると、我慢できずに激しく攻撃してしまう。

 その結果、裏付けが乏しいままに新しいアイデアを出してきた若手を潰すような振る舞いになってしまう。研究者である以上は裏付けを求めるのは当然だが、それが度を越すと知的停滞を促進させてしまいかねない。若手というのは蓄積が乏しいから若手なのであって、その部分を無視したまま「○○を知っているか」「☓☓も知らないのか」などと問い詰めたところで、生産的なやり取りには発展しないように思う。

 もちろん、そのような批判を乗り越えてこそ、若手は自己のアイデアを洗練させていくことができるのだという考えかたもできるかもしれない。ただ、それが可能なのは日常的な接触があってこそであって、普段は接点のない若手にそれをやったところで、あまり効果は期待できないのではないだろうか。

 ああ、なんか途中で話が変わってしまった。いずれにせよ、一見すると気楽に見える領域横断的な研究にも、それなりの憂鬱さがある。どこまでいっても半端者でしかない憂鬱さだ。とはいえ、習い性なのでこういうスタイルは変えられないし、今さら変えても手遅れだというのもある。

 だからこそ、ぼくは学生にもし勉強の途中で何か一つのテーマを極めたいと思ったのなら、領域横断的であることを捨てて、そのテーマに邁進することを薦めている。もちろん、一つのテーマを極めるためにも、その周辺領域を固めることは不可欠ではあるとは思うが、ぼくのように度を越せばどこにも行き着けない研究にならざるをえない。

 実際、どこにも辿り着けないんだよな、今のままだと。