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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

カテゴリーの政治

社会

階級政治の終焉

 人間というのは、いろいろなカテゴリーをつくる。民族、人種、身分、階級、ジェンダー、エトセトラエトセトラ。そして、このカテゴリーは政治を動かすうえで重要な役割を果たしてきた。身分制度に基づいて統治をしたり、民族ごとに国家を作ったり、特定の人種を抹殺しようとしたりしてきたわけだ。

 19世紀から20世紀にかけては、民族や人種とともに階級というカテゴリーが重視されてきた。マルクス主義の思想では、資本主義社会が発達していくにつれて、ごく少数の資本家(ブルジョワ)と圧倒的多数の労働者(プロレタリアート)に社会は分裂していき、やがて後者が革命を起こす、と考えられていた。

 ところが、実際のところ労働者というカテゴリーはそれほど確固たるものではなかった。たとえば、労働者の革命が起こる可能性が高いと考えられていたイギリスでも、あらゆる労働者が労働者の政党である労働党を支持していたわけではなかった。それどころか、資本家を重要な支持基盤とする保守党を支持する労働者も少なくなかったと言われる。

 そして、第二次世界大戦後における中産階級の成長は、資本家階級対労働者階級という対立図式をさらにあやふやなものにしていく。労働者というカテゴリーで多くの人をまとめていくことがどんどん難しくなっていったのだ。

 サービス産業化の進行もそうした傾向に拍車をかけた。労働集約型の製造業とは異なり、職場が分散しがちなサービス産業では労働者間の連帯は困難になる。自ずと労働組合の組織率も低下していく。実際、イギリスの労働党も労働組合に依存するほど選挙に勝てなくなっていったのであり、現在においても労働組合との距離をどうやって取るのかに苦慮している。

多様な社会運動の発展と困難

 さらに、階級のほかに様々なカテゴリーに基づく社会運動が発展を遂げてきたことで、問題はいっそう複雑になっていく。アメリカの公民権運動に代表される人種差別撤廃運動、選挙権を獲得するための運動からより実質的な差別撤廃を求めるようになったフェミニズム運動、民族意識の高揚や移民の拡大によって生じたエスニック・マイノリティの運動など、社会運動において様々な要求が掲げられるようになる。

 このような様々な運動がお互いに何の矛盾もなく共存できたかと言えば、もちろんそんなことはない。たとえば、人種差別撤廃を訴える人がきわめて女性差別的な思想を持っていることなど珍しくない。あるいは社会階層が下がるほどに(つまり労働者階級の人びとほど)男女分業的な思想を支持する傾向が強いという指摘もある。そもそも、あるカテゴリーに基づいて運動を展開するひとは、そのカテゴリーに基づく差別をもっとも重視する傾向にある。したがって、それ以外のカテゴリーを重視する人とはどうしてもウマが合わない部分が出てくるのだ。

 しかも、現代社会ではカテゴリーそのものの妥当性が揺らいでいる。たとえば、一言で女性といっても裕福な白人女性と貧困に苦しむ黒人女性とでは置かれている立場は全く異なる。ある一点では同じカテゴリーに属していても、それ以外ではほとんど共通点のない人生を歩んでいるということが多々あるのだ。そのように、カテゴリーで人びとの属性を考えることが困難になっていく状況を、社会学などでは「個人化」と呼んだりもする。個人化が進み、カテゴリーの自明性が揺らぐほど、それに沿って運動を組織化することは困難を増していく。

 もちろん、カテゴリーに基づく差別や格差が完全に消失したわけではない。ネットのみならず現実世界でも繰り返される他民族、他人種へのヘイトスピーチのみならず、先日紹介したジェンダー間での進学格差などは厳然と存在し、クラシックな労使対立にしても雲散霧消したわけではない。

 だが、個人化が進行するほどに「私は差別など受けていない」「ジェンダーの格差など体験したことがない」という人もまた増えてくる。そういう人たちからすれば差別や格差を訴えることなど「甘え」でしかない。「努力さえすればちゃんと報われるはず、私がそうだったように」というわけだ。被差別階層出身者のそのような声は殊更にマジョリティには甘美に響き、歓迎をもって受け入れられる。そうしてカテゴリーに基づく差別や格差の存在は否定されていくのである。

運動間の連帯

 だとすれば、現代の社会運動において重要なのは、社会運動の多様化や個人化によって分散していく人びとをどうやって共通の目標のもとで連帯させていくのかという問題になる。運動が分散し、連帯が断片化していくほど、格差や差別構造のうえにあぐらをかいている人たちにとっては有利な状況が生まれるからだ。数年前に「勝ち組」と「負け組」という言葉が流行ったが、負け組とされた人たちがそもそも「組」になっていないのが問題なのだという指摘もある。

 しかし、上でも述べたように、異なるカテゴリーを重視する人たちが連帯していくことは難しい。現在進行中の反レイシズム運動においても、その難しさが浮き彫りになったのではないだろうか。あるカテゴリーに基づく差別を批判するために、様々な主張を持つ人たちを集めようとするほどに内部矛盾は大きくなり、分裂が生じやすくなる。「差別を批判すると言いながら、別の差別をしているじゃないか」という話になってしまうのだ。

 以上、社会運動論としては常識以前のことを書いてきた。もちろん、こうした状況に何か決定的な処方箋を提示できるわけではない。ただ、論争の当事者がどこかに落としどころを見つけていかないと、際限のない分裂とそれに伴う求心力の低下という結果をもたらすことだけは確かだと思う。