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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

ヘイトスピーチに寛容な言説空間の誕生(加筆)

(5月のエントリに補足をしたので再投稿)

長いので要約

① 「表現の自由」を維持するためには、社会を構成する一人ひとりが不快な表現に耐えることが必要だが、生存を脅かすような表現を向けられている人たちにまでそれを要求することはできない。

② ネット上での「多数派」の形成は歪みが大きいために、ヘイトスピーチ(1)が多数のユーザーに支持されているという錯覚を生じさせうる。自己を多数派だと誤認した人たちはネット上でさらにヘイトスピーチを繰り返し、少数派だと誤認した人たちはそれを批判しにくくなっていく。

③ 結果、ヘイトスピーチの日常化が生じ、以前はそれを必ずしも支持していなかったような人たちにまでヘイトスピーチの正当性が承認されるようになっていく危険性が生じる。(加筆 2013/9/17)それがネット全体にまで広がることはないかもしれないが、特定のコミュニティ内ではヘイトスピーチを容認するようなムードが支配的になりうる。

本文 「不快な表現」と「生存を脅かす表現」

 以前、「表現の自由」をテーマに論文を書いたことがある。

 そこでの問題意識は、マスメディアが中心となってネットがそれに加担し、少数者の声を抑えこむ流れがどのようにして生じるのか、というもの。事例を使いながら分析を行った。

 その論文の結論の一つは「表現の自由」を持続するためには、社会の構成員が不快さに耐えなくてははならないというもの。多数派にとって不快な主張を許容しない空気が出来上がってしまうと、たとえ法律上は認められていても、実質的には表現の自由は圧殺されてしまう。

 しかし、ここしばらくのネットでの動きを見ていて、「不快な表現」と「生存を脅かす表現」は区別されねばならないと思うようになった。ムカつく表現に耐えることが必要なのは変わらないが、自己の生存を否定するような表現を向けられている人たちに向かってまで耐えろと言うことはできない。

擬似的な多数派形成とヘイトスピーチの日常化

 だからといって、直ちにヘイトスピーチ規制を支持するというわけではないのだが、現状のままで放置しておくことは明らかにまずいのではないだろうか。ぼくが危惧するのは、たとえ建前であっても「差別はいけない」という規範が維持されていたのが、ヘイトスピーチの日常化によって溶解してしまう可能性。いわゆるカジュアルな差別の氾濫だ。

 どのようにしてそれが起きるのかを予想してみよう。その背景には、ネット上での「多数派」の形成メカニズムが、マスメディアを起点としたそれとは違うということがある。

 ネットでのヘイトスピーチの氾濫にマスメディアは必ずしも加担していない(その素地を作っている部分はある)。しかし、昔からネットは声がでかい奴が勝つシステムだ。数としては多くなくとも、ネットに長時間接続していれば、発言数で相手を圧倒できる。

 したがって、数の上では多数派でなくとも、ネット上では「圧倒的多数派」を構成できてしまう(2)。ネット上での「少数派」に対して大量のヘイトメッセージを送りつけることで、発言しにくい空気を生み出すことができる。

 そういう状況でもハードコア層(自分が数の上では劣勢だと知りつつ、発言を止めない人)たちは頑張ることができるが、多くの人たちは沈黙を選択するようになる。「このテーマに触れるとヤバい」という空気ができる。結果、発言者の数のバランスはさらに歪になる。いわゆる「沈黙の螺旋」である。

 ネットでは以前からそういう傾向はあったものの、近年ではそのような「多数派」形成の歪さがより顕著になってきたように思う。コメントを恣意的に取捨選択するまとめサイトの隆盛はそうした傾向に拍車をかけている。

 現状でもマイノリティに向かって「死ね」「殺せ」という言葉を投げかけることは多数のネットユーザーにとって許容し難い行為であるとは思う(思いたい)のだが、ヤフーニュースのコメント欄でもまとめサイトでもそれらの言葉を批判する声は必ずしも多数派とは言い難い。

 こうしたネット上での歪んだ「多数派形成」は、「どの意見が多数派によって支持されているのか」という認識を歪め、ヘイトスピーチが多くのネットユーザーによって支持されているという錯覚を生み出しうるのではないか。

 人は自分が多数派だと思えば、さらに発言を行う傾向を持つ。したがって、そのような錯覚に陥った人たちはさらにヘイトスピーチを加速させる。「自分たちは多くユーザーに支持されているのであり、自分たちに逆らうのは(マスメディアに依存する)情弱か非国民である」という思い込みがそれを可能にする。

 (加筆 2013/9/17)もっとも、そのような多数派に関する錯覚が、ネット全体に拡大していくというのは杞憂かもしれない。ネットは基本的に島宇宙であり、その広がりには限界がある。しかし、特定のコミュニティ内部では容易に多数派形成がなされる。ヘイトスピーチを好むユーザーは同じようなユーザーと相互フォローし、ヘイト・コミュニティを形成するようになる。そこではヘイトスピーチを許容する空気が支配的になる。そうなれば、最初は「あいつらはムカつくが、差別はいけない」ぐらいのところで留まっていた人たちが、知らず知らずのうちにヘイトをまき散らすようになっていく可能性も否定できないのではないか。

まとめ

 まとめると、実質的な数では多数派とは言い難い声のでかい人たちがネット上での言論空間を支配し、抗いがたい空気を形成してしまう。バーチャルな「多数派」はさらに発言を加速させ、バーチャルな「少数派」はさらに沈黙していく。

 その結果、「これだけ大量の書き込みがあるのだからきっと本当なんだろう」という発想から「差別される側にもそれだけの理由があるはず」と考える人たちも出てくる。AとBという対立する意見があるときには、その両方にそれなりの妥当性があるという「バランス感覚」がそれを後押しする(自称中立派の誕生)。

 そうして、きわめて根拠に乏しいヘイトスピーチが正当性を確保し、以前にはそれを支持しなかったような人たちの間にまで流通するようになる。結果、ヘイトスピーチの日常化が起きる。(補足 2013/9/17)それがネット全体にまで広がる可能性は低いかもしれないが、特定のヘイト・コミュニティ内部では「差別はいけない」という規範が溶解していく可能性がある。

 無論、これは調査に基づく考察ではないので、間違ってくれていることを切に願いたい。

脚注

(1) ここで言うヘイトスピーチとは、おおまかに他者の言動ではなく生まれつきの属性を理由とした差別的発言としておく。無論、ヘイトスピーチを流布させる側は「差別ではなく区別」とか「差別される側に問題がある」と言いたがるが、特定の属性を持つ人たちを一括して中傷するような場合にはヘイトスピーチである。他方で、特定の団体や外国政府の政策や方針を批判する場合にはヘイトスピーチには該当しない。

(2) 無論、こうしたメカニズムはマスメディアを起点としても生じる(そもそも、ここでの考察はマスメディアの効果研究を参照している)。しかし、マスマーケットを対象とし、放送法によっても規制されている巨大メディアでは極論に振れることへの抑制が存在しうるが、ネット上の言論にはそうした制約が存在しない。