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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

経済学の常識?

学問

(過去のツイートに加筆)
 ネットでは、ときどき「経済学の常識」や「経済学では常識」という表現を見かける。面白いと思うのが、まったく正反対の主張を正当化するさいにこの「常識」が持ち出されることだ。一例を挙げよう。

一例をあげると、財政赤字の解決のためには、消費税を引き上げ、社会保障費の削減を図るしかない。これは私の考えというよりは、「オーソドックスな経済学の考えから導かれる、ごく常識的な対応」だと思われる。恐らく大部分の経済学者はこの基本方向に大筋としては賛成するだろう。
(出典)http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20121126/240022/

 要するに、「経済学の常識」に照らせば消費税を引き上げるべきだという話だ。

 ところが、「経済学の常識に照らせば、デフレ下での増税はかえって税収を減らす」という主張もよく見る。残念ながらピンとくるサイトを見つけられなったのだが、「経済学の常識/デフレ/増税」などのキーワードで検索すれば、こうした主張をしているサイトをたくさん見つけることができる。

 このエントリの目的は言うまでもなく、これらの主張のどちらが正しいのかを示すことにあるのではない。そうではなく、「経済学の常識」から全く正反対の主張が出てくることの意味についてだ。

 経済学については全くの門外漢だが、経済学の内部でも対立する学派があると聞く。そこでまず引っかかるのが、「経済学の常識」という時、それはそのような学派間の対立を越えて共有される知見なのか、それとも特定の学派のなかでのみ通用する「常識」なのかという点だ。

 そして、もう一つ気になるのが、「経済学の常識」という言葉を使う人は、意図的にそれをひっくり返そうとする人を除けば、常識=真理という図式を採用している点だ。言うまでもなく、常識だからといって正しいとは限らない。多くの人が知っている(常識である)という事実は、それが正しいということを保証しない。

 これらの点を踏まえると、厳格に定義しない限り「経済学の常識」というのはきわめて使いづらい表現なのではないだろうか。社会、政治、経済の状況を無視して「常識」から自動的に「正しい政策」が導き出されるようなものでもないんじゃないかとも思う。
 
 にもかかわらず、むやみに「経済学の常識」という言葉を使いたがる人は、経済学という(多くの人にとって近寄りがたい)権威を祭り上げ、そこに寄りかかることで自らの正しさを示そうとしているのではないだろうか。

 むろん、多くの専門家にとって、学会で広く共有されているような知見を何度も繰り返すことは退屈だろう。だから、わかり切っている部分については「経済学の常識」という言葉で簡潔に述べ、自分自身の主張のために紙幅を使いたいという衝動に駆られるのはわかる。

 だが、ネットで見る限り、「経済学の常識」という言葉は、記述の簡略化のためというよりも、相手の知識不足を強調することで、自らの知的優位性を誇示するためのレトリックに堕しているようにも思える。実際、経済学の専門家は「経済学の常識」という言葉をそれほど使っていないような印象を受ける。グーグルで"経済学の常識"とフレーズ検索し、一番最初に表示される人を見ると、その印象はさらに強まる。

 しかし、このようなエントリを書いたからと言って、ぼくは経済学が無駄だとか役に立たないとか言いたいわけではない。ただ、「常識」という言葉で、特に経済学素人の異論を封じ込めたり、馬鹿にしたりする態度が気に食わないだけだ。この点を踏まえて、最後にジョン・クイギンの『ゾンビ経済学』の一節を引用しておきたい。

…またもや経済的「新時代」が崩壊したいま、経済学はそろそろもっと謙虚になるべきだろう。アダム・スミスから二世紀以上たって、経済学者たちは「己が無知だと知る人こそ最も賢い」というソクラテスの洞察の力を認めなくてはならない。絶対確実という意味での知識は実現不能かもしれないが、経済学者たちは市場や企業などの経済組織の強みと弱み、そして経済的社会的な結果を改善させるような政策行動の可能性について、理解を深めるのに貢献できるのだ。
(出典)ジョン・クイギン、山形浩生訳(2010=2012)『ゾンビ経済学」筑摩書房、pp.271-272。