擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

とりあえず釣られてみれば?

 この二つのエントリ。

ネットで釣られたら負けです
偏見→追記あります

 ぼくなりに対立点を単純化すると、「ネットの文章は釣りかどうか疑いながら読め」という主張と、「釣りかどうかの判定なんて、その人の偏見でしかない」というもの。

 最初に言っておくと、ぼくは基本的に後者の主張に共感する。が、ネットには釣りというか、疑ったほうがよい情報があるのも確かではある。

 たとえば、ちょっと前にこんなグラフがツイッターで拡散したことがあった。

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(出典)http://togetter.com/li/539599

 でも、この情報、何かおかしい。特に慶應女子の数字に違和感がある。東大、早稲田、慶應だけを抽出して「東京主要3大学」というタイトルの付け方もまともではない。もちろん、これもぼくの「偏見」かもしれない。

 そこで、調査方法を見るために少し調べてみる。すると、そもそも調査元とされる「日本学生生活機構」なるものがネットでは見当たらない。「東京主要3大学恋愛志向調査」で検索しても、このグラフしか見つからない。

 奨学金で知られる「日本学生支援機構」なら存在するし、学生生活に関する調査も行っている。でも、平成24年度の分はまだ「調査中」であり、過去の調査項目と比較しても内容が違いすぎる。そこで結論。この情報は限りなく怪しい。もちろん、100%ウソだと断ずるには根拠が足りないが。

 この手の情報が良くないのは、特定の層(たとえば慶應女子や東大男子)に対する偏見を煽り立ててしまいかねないことだ。なので、デマであればデマだと言ったほうが良いし、仮に調査が行われていたとすれば、その調査方法をきちんと検証する必要がある。

 このように、偏見や差別をもたらしかねないような情報、あるいは健康に害をもたらしかねないような情報等については、その妥当性をきちんと検証していくことは必要だ。怪しげな情報で他人を「釣ろう」とする輩は、当然に批判されるべきだ。

 その一方で、どうがんばっても検証しようもないし、検証したところで実りが少ない情報もネットには満ち溢れている。個人の体験談や感想みたいなのがそれに該当する。その場合には、冒頭で挙げた後者のエントリの人が言うように、結局のところ「釣り判定」というのは読み手の偏見に拠るしかない。

 世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな人生がある。多くの人からすれば信じられないような境遇の人もいれば、驚くべき体験をした人もいる。世界はまことに広い。自分が信じられない話を聞いたときに、即座に「釣りだ」と判定してしまうのは、結局のところその人の世界観の狭さを表すにすぎない。

 手元に実物がないので、うろ覚えで書くが、山岸俊男さんの『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)には、「他人を常に信頼しない人は、意外と騙されやすい」という話がでてくる。他人への信頼というのは一つのスキルであって、実際に誰かを信頼し、そして裏切られることによって、信頼できる人とそうでない人とを見分ける能力が上がっていく。

 ところが、最初から他人を疑ってかかる人は、そうしたスキルを磨くことができない。なので、何かのはずみで大きなポカをやらかすことがあるというわけだ。これを応用すれば、文章を読むときに常に釣りと疑ってかかる人というのは、「自分は騙されない」と思い込んでいる分、意外なところで大きく釣られるという話になってしまうかもしれない。

 とはいっても、ネットでは至るところで釣りが行われているわけだし、あらゆる場合に釣られずにいることはたぶん不可能だ。だとすれば、信じたところでたいした実害がない文章であれば、素直に受け取っておいたほうがいいんじゃないかと思う。どこかの時点でウソだと分かったなら、「あちゃー、釣られちゃったなー」と苦笑いすればそれで済む話だ。

 他人の逸話に釣られる、釣られないというのは、別に知的能力の優劣を示す指標でも何でもないのだから。