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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

ネットが悪い? ユーザーが悪い?

 アイスクリームケース事件に端を発した、今回の炎上騒ぎ。ネットでは様々な議論が展開された。

 「うちらの世界」「低学歴の世界」が語られるとともに、学歴は関係なく単に非常識な人が問題だという指摘や、ネット以前からいた非常識な人や自警団的な人が可視化されただけだという主張が行われている。

 その一方で、ネットの登場によって一従業員が組織全体に被害を及ぼすことが可能になったというテクノロジーの問題に引きつけて問題を語る人もいる。

 このような見方の違いは、メディア論界隈でもしばしば論じられる。そこで、今回のエントリでは、この炎上騒ぎを題材にとって、メディア論における「技術決定論」と「社会決定論」の対立について論じてみたい。といっても、まったくもって難しい話じゃないです。

技術決定論と社会決定論

 そもそも、メディア論とは何かというと、「メディア」の登場によって社会がいかに変化してきたかを明らかにしようとする学問だ。注意が必要なのは、ここで言う「メディア」というのがあくまでメディアそのものであって、それによって伝えられるメッセージ(記事や放送の内容)は重視されないということだ。

 ラジオを例に取れば、ラジオを通じてどんな放送が行なわれるのかよりも、ラジオというメディアが人びとの日常生活に入ってくることによっていかなる変化が生じたかが注目される(1)。メディア論の大家マーシャル・マクルーハンの「メディアはメッセージである」という言葉は、メディアが実際に何を伝えるのかよりも、メディアの存在そのものが重要なメッセージなのだということを意味している。

 さて、このようなメディア論には、しばしば「技術決定論」や「メディア決定論」という批判が向けられてきた。メディア論は往々にして、メディア技術が一方向的に社会に影響を与えるという想定をする。「ネットが社会を変える!」というのは典型的な技術決定論的発想だと言える。また、こうした技術決定論は政策レベルでもしばしば見られ、情報インフラを整備すれば地域が活性化するという発想のもと、膨大なハコモノ投資が行われ、その多くは大した成果をもたらさなかった。

 それに対して、結局のところメディアの使い方を決めるのは社会の側だという主張も繰り返し行われてきた。技術があったところで、それを社会が受け入れなければそもそも普及しない。しかも、技術はしばしば開発者の意図とは大きく異なるかたちで使用されるようになる。さらに近年では技術開発に膨大な費用がかかるようになっており、どのような技術が開発されるのかという時点ですでに社会の側の意図が反映されている等々が主張される。

 たとえば、社会学者の佐藤俊樹さんは「情報化が社会を変える」という予測がいかに的外れであったかを明らかにしたうえで、次のように主張している。

情報技術や情報科学自身はとても重要だし、役に立つ。ただ、それで社会も語れると思うのは間違いである。それらは科学技術の世界に属しているのであって、それ以上のものではない。社会という要素が入ってきた場合、科学技術の専門家の予測がいかにあてにならないかは先に見たとおりである。技術が社会にどう接続されるのかは、社会の側から決まってくる。そして、社会がどう変化するか考えるためには、まず社会自体を知らなければならない。
(出典)佐藤俊樹(2010)『[新世紀版]社会は情報化の夢を見る』河出文庫、p.77-78。

ネットが炎上を生むのか、ユーザーが悪いのか

 というわけで、ようやく炎上の話になる。技術決定論的な立場からすれば、こうした騒動というのは、ネット時代ならではということになるだろう。ネットの存在こそが炎上を生むという話だ。

 他方で、ネットに実際に親しんでいる人たちからすれば、悪いのはそういう使い方しかできないユーザーであって、ネットそのものが悪いわけではないという論調のほうが遥かに受け入れやすい。「うちらの世界」や「低学歴の世界」に関する議論は言うまでもなく、ネットで人気の子役はるかぜちゃんの「インターネットが危険なんじゃない(ω)インターネットが、世間にあふれる危険を可視化しただけだよ」というツイートも、同様の発想を表したものだと言える。つまり、これらの議論は社会決定論の連続性にあると言っていい。

断言しよう。凡庸な人間はネットを使うことによっていきなり優秀になるわけではないし、バカもネットを使うことによって世間にとって有用な才能を突然開花させ、世の中に良いものをもたらすわけでもない。
むしろ、凡庸な人が凡庸なネタを外に吐き出しまくるせいで本当に良いものが見えにくくなることや(ネット上の良い意見の発掘機会が失われるだけでなく、本を読んだり人と会話したりすることにかける時間も減る)、バカが発言ツールを手に入れて大暴れしたり、犯罪予告をするようなリスクにこそ目を向けるべきである。
(出典)中川淳一郎(2009)『ウェブはバカと暇人のもの』光文社新書、pp.16-17。

炎上にどう対処するのか?

 そして、このような技術決定論と社会決定論の違いは、問題が起きたときに検討される対処法の違いとなって出てくる。技術決定論に立脚するなら、技術を使うためのスキルが問題なのだから、「メディア・リテラシー教育」が必要になる。学校でネットの使い方をちゃんと教えろ、という話にもなる。ぼくが前回あげたエントリもその流れに位置づけられるだろう。

 他方で、社会決定論的な見方をするなら、そういう小手先のリテラシーの話ではなく、その背後に横たわるもっと広くて深い問題こそが重要だということになる。「うちらの世界」をもっと広い世界と接続するためにはどうすればいいのか、という問題意識はまさにそれだ。

技術の特性は一人歩きする

 それでは、技術決定論と社会決定論、どちらが正しいのだろう?個人的には、ぼくは社会決定論のほうがずっと妥当性が高いと考えている。メディアの技術が一方的に社会のあり方を変えるという発想は、やはり受け入れがたい。ただし、技術の特性にも目を向ける必要はあるとは思う。この点に関して、デヴィッド・ライアンという研究者は次のように述べている。

テクノロジーの変化を社会関係に還元する社会決定論は、テクノロジー決定論と同じ程度に不適切だ。一旦配備されると、テクノロジーの産物やそのシステムは、諸々の社会活動を現実に誘導・束縛・促進・制限する。自律的に「影響力」を生み出す力はないかもしれないが、しかし、社会関係の中でそれらが果たす役割の現実性を否認することは、今日の社会生活の最も広範な特徴の一つに目を塞ぐことになる。
(出典)デヴィッド・ライアン、河村一郎訳(2001=2002)『監視社会』青土社、p.47。

 何だかんだ言って、技術には特性がある。社会の側がいくら影響を及ぼそうとも、技術の特性そのものは往々にして一人歩きする。たとえば「原爆そのものが人を殺すわけではない」といっても、原爆登場以前に一握りの兵士が何十万人もの人間を一瞬で殺すことは不可能だったし、核兵器の存在そのものが戦後の国際情勢に与えた影響は計り知れない。あるいは、ネットが登場する以前であれば、マスメディアの媒介もなしに無名の一個人の行動が即座に無数の人たちの注目を集めるという事態はありえなかっただろう。

 なので、ネットにまつわる様々な問題を考えるためには、ユーザーのリテラシーの側面と、その背後にあるもっと大きな社会的側面の両面から考えていく必要がある。

 とはいえ、社会的要因のほうはおそらく現在の社会構造の根幹に関わる問題であって、その解決は容易ではないしすぐに可能になるわけでもない。なので、小手先ではあっても、とりあえずはリテラシーの側面からアプローチしていくほうが手っ取り早いとは思う。

 うーん、いつもながらにつまらない結論だな、これ。

脚注

(1)より具体的に言うと、ラジオが一般家庭に普及し始めた当初、まだ家庭の電化が進んでいなかったので、出力が弱く、先進的なユーザーはヘッドフォンで聴取するしかなかった。それでも音が小さいので、ユーザーと同じ部屋にいる人たちは沈黙を強いられることになった。ところが、電化が進み、出力の大きなスピーカーを備えたラジオが普及するようになると、ラジオは家族団らんのツールとして大きな役割を果たすようになる。併せて、一般家庭の居住環境が改善するにつれ、それまでは不快さを避けて家の外で多くの時間を過ごしていた人たちは、家庭のなかで多くの時間を過ごすようになっていく。これを敷衍すると、いわゆる「ひきこもり」は、多くの人びとが個室を持てるほどに居住環境が改善するとともに、室内で膨大な時間を潰すための様々なメディアが発達することで可能になったとも言える。