擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

脱線する読書

 ある研究者のブログを読んでいたときのことだ。

 そのブログ主は1日2、3冊という猛烈なスピードで読書記録をアップしているのだが、ある時、そこで「1年に50冊しか本を読めない研究者」のことが批判されていた。要するに「少なすぎる」というわけだ。「私は1年にだいたい500冊は読む」とも書いてあった。

 ここで告白するが、ぼくは学術書を読むのが遅い。小説ならまだしも、学術書を1日に1冊以上読むというのは到底無理だ。普通は1冊読むのに1週間、大著なら1ヶ月以上かかることもある。そのペースで読んでいれば、500冊読むのには10年近くかかる計算になる。日本語の本だけではなく、並行的に英語の論文も読んでいるので、それほど時間が取れないということを勘案しても、やはり相当に遅いと言わざるをえないだろう。

 なぜ遅いかと言われれば、読書に割いている絶対的な時間が少ないということがあるのかもしれないが、要するに本の内容に集中していないのだ。

 本を読んでいると、その記述をきっかけとして、いろいろな考えが頭に浮かぶ。著者の思考に対する批判や、いま読んだことを自分の研究にどう結び付けるかといった建設的な思考に至ることもあれば、ほとんど関係がないようなテーマへと移行してしまうことも多い。気づけば、同じページを開いたまま、10分近くもボーっとしていることもある。

 今日、たまたまネットでこのエントリを読んで気づいたのだが、ぼくとは違い、学術書をスラスラ読める人というのは、速読術的に読んでいるだけではなく、本の筋を純粋に追える人なのではないかと思った。自分の思考はとりあえず封印して、筆者の言わんとすることだけを追求できる。そういうスキルがあるというのは、確かに凄いことなのだろう。

 少なくとも文系では、研究者にとって本の読み方は非常に重要だ。内容によって速読や熟読を使い分けろとか、英語であればパラグラフリーディングだとか、必須の学術スキルとして様々なことが語られる。若い研究者なら、これからも長い読書生活が待っているのだから、自分に合った方法をいろいろと試行錯誤してみると良いだろう。

 しかし、ぼくはと言えば、そもそも速読なんてできないし、熟読というほど緻密に読むわけでもなく、だらだらと活字を追う生活を20年近く続けてきてしまった。本を読むのが遅いぶん、せめて読んだ分ぐらいは記憶に残したいと思い、サブノートは今でも作り続けている。ただし、読んだ本すべてのサブノートを作るのは時間的に難しく、既読でサブノート作成待ちの本がどんどんと増えていっている。新書類については、サブノート作成はすでに諦めた。ついでに言うと、最近では記憶力が低下してきたせいか、サブノートを作ってもなかなか本の内容が記憶に残らなくなってきたような感がある。

 こんな体たらくなので、いまだに単著の1冊も出版できていないわけだが、しかしこの期に及んで本の読み方を変えるのも嫌だし、読書中に思考が脱線する癖はそもそも改められそうもない。

 だが、年に50冊、あるいは40冊しか読めない研究者にしかできない仕事も、もしかするとあるんじゃないか。いまはそんなふうに思って仕事をしている。