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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「愛国者」と「売国奴」

「愛国者」とは誰のことか?

 ネットでその筋の人の書き込みを見ていると「愛国」とか「売国奴」とかいう言葉によく出くわす。「愛国」はまだしも「売国奴」は嫌な言葉だなあと思う。

 そもそも、誰が愛国者で誰が売国奴かというのは、ほとんどの場合、自分の政治的意見に合致する人=愛国者で、それに激しく対立する人=売国奴、でしかない。たとえば、ぼくの政治的立場を売国的だと考える人もいるだろうけど、ぼくやぼくの子どもたちがこれからも生きていくであろう日本社会にはもっといい社会になって欲しいと思うし、そこで暮らす人たちが幸せであればいいと心から願う。

 問題は、何が「いい社会」で、何が「幸せ」と考えるかが人によって違うということだ。そうした考え方の違いは、要するに思想もしくはイデオロギーの違いだ。もちろん、そうした違いが存在すること自体は決して悪いことではなく、意見の対立は当然にあっていい。そこに「愛国」とか「売国」とかいうくくりを持ってくると、むしろ話がややこしくなるだけだ。この点に関して、ハンナ・アレントは次のように言う。

真実の愛国者と偽の愛国者を区別することは不可能である…。動機の追及、つまり、各人はその奥深い動機を公に示さなければならないという追求は、実際には不可能なことを要求しているのだから、すべての活動者は偽善者に変わる。動機の開示がはじまる瞬間に、偽善がすべての人間関係に毒を注入しはじめる。
(出典)ハンナ・アレント、志水速雄訳(1995)『革命について』ちくま学芸文庫、p.145。

 本当に国を心から愛して行動しているか。心のなかの動機は誰も見通すことができない(もしかしたら本人にさえも)。他人の動機を疑おうと思えば、いくらでも疑うことができる。とりわけ、上で述べたような政治的意見の違いを愛国心の有無に還元してしまうような発想が幅を利かせているかぎり、あらゆる人物は偽善者または似非愛国者と見なされる可能性を有していることになる。その筋の人たちが「真の愛国」とか「エセ保守」とかいう言葉を頻繁に使うのはそのためだ。でもそれは、結局のところ「お前は偽善者だ」「お前こそ偽善者だ」という不毛な対立でしかない。したがって、政治的な対立において「心」の問題は持ち込むべきではない、というのがアレントの主張だ。

 ぼくもこの点について、アレントの意見には大いに賛同するわけだが、ここでそんなことを言ったところで、「愛国者」と「売国奴」という区别が使われなくなるわけではない。それはなぜかを考えると、一つには集団的なカテゴリーの特性があるんだろうと思う。

「われわれ」と「彼ら」

 国家間の対立が典型的なんだけど、対立が発生するばあい、人は「われわれ」(自分たちの側)が一致団結することを望む一方で、「彼ら」(対立している側)を一枚岩的な存在と見なす傾向にある。もちろん、実際には「われわれ」の内部にも「彼ら」の内部にも対立はある。

 「彼ら」の内部の対立をなぜ見たがらないかと言うと、「彼ら」が一枚岩であってくれたほうが心おきなく憎めるからだ。「彼ら」の内部にも意見の相違があって、「われわれ」に好意的な意見もあって…などとややこしいことを考え始めると、安心して憎めない。敵はとことん悪いやつであったほうが、やっぱり話は盛り上がる。

 「われわれ」内部の対立については、団結を求める「愛国者」の立場からするとやはり気持ちが悪い。一致団結して国難に臨むべきときになぜ自分たちの意見に賛同しないのか、という憤りが生じやすくなる。そこで、自分たちと対立する意見の持ち主を「われわれ」から切り離す試みが行なわれる。そこで使われるのが「売国奴」や「非国民」といった言葉だ。

 以上をまとめると、「愛国者」の世界観は次のような図にできるだろう。

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 繰り返しになるが、世の中はそんな単純には出来ていない。しかし、こういう世界観は根強いし、いろいろとやっかいな問題を引き起こす。

「宥和派」の困難

 たとえば、それぞれの国の内部に対外的強硬派と宥和派が存在するとしよう。戦争を望むのでなければ、どちらの国にとっても相手国の内部で宥和派が力を得ることがメリットになる。

 だが、強硬派と宥和派が対立したばあい、たいていは強硬派が「愛国者」を標榜することになり、宥和派には「売国奴」のレッテルが貼られやすくなる。宥和派は対立国と結託しているように見えるからだ(1)。

 ここで難しいのは、宥和派の立場だ。上でも述べたように、自国の立場からすれば対立国の内部で宥和派の影響力が増すことが好ましい。ところが、直接的に対立国の宥和派を応援したりした日には、対立国の強硬派が彼らを攻撃するための格好の口実を与えてしまう。上で示した世界観のもと「敵国から応援を受けるような宥和派は売国奴である」という印象操作がより容易になるからだ。

 見方を変えれば、それぞれの国の強硬派同士は、もっとも激しく対立しているように見えながら、実際にはお互いを支えあっている存在だと言うこともできる。対立国の強硬姿勢は、こちら側の強硬姿勢を正当化するためのもっとも有用な資源だからだ。戦争後、強硬派が対立国の旧敵を褒め称えたりすることがあるのも、実はそういう事情があるからかもしれない。以上を図にすると以下のような感じになる。

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 それでは、こういう状況から抜け出すためにはどうすれば良いのだろうか。残念ながら、ぼくには良いアイデアがない。できることといえば、そういう状況が出現するまでに対立がエスカレートしないよう祈ることと、売国奴とか非国民とかそういった言葉の使用を控えることぐらいである。

脚注

(1)ちなみに、こういう文脈でしょっちゅう持ち出されるのが、第二次世界大戦前のイギリスの首相のネヴィル・チェンバレンによる対ナチス宥和政策の失敗だ。しかし、宥和政策の時点でのイギリスにドイツと戦うだけの準備が整っていたかどうかは意見が分かれるし、チェンバレン政権下でも再軍備は進められていた。そもそも、対ドイツ外交ということで言えば、宥和政策よりもずっと前の第一次世界大戦の戦後処理や世界恐慌への対応が批判されるべきだろう。