読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

ショートメールと比較優位

 昨日の『メトロ』(ロンドンの地下鉄の駅で無料配布されている新聞)で、ショートメールによる解雇通知に関する記事が載っていた。何の前触れもなく、ショートメール一本で職場にもう来なくていいと言われるという話らしい。

 雇用者側としては、解雇の通知はどうしてもこじれるし、手っ取り早く済ませたいというのが正直なところだろう。でも、ショートメールで一方的に解雇される側としてはたまったものではない。交渉どころか、そもそも人間扱いされていないという印象を受ける。裁判になったケースもあるのだという。

 ここで話は突然変わる。ドイツにフランクフルト学派というマルクス主義の流れを汲む研究グループがある。名だたる研究者を輩出しており、ナチス政権のときには弾圧され、アメリカに亡命したメンバーもいる。

 そのなかに、テオドール・アドルノという人がいた。この人の書く本は難しい。ぼくはアドルノとホルクハイマーの共著『啓蒙の弁証法』をつまみ食い的に読んだことがあるぐらいだが、この本を理解するためには西洋哲学に関する膨大な知識が必要であり、ぼくには到底無理だと痛感させられたものだ。

 実際、ドイツ人にとってもアドルノの書くものを理解するのは大変らしい。アドルノには『否定弁証法』という著作があるのだが(日本を代表する研究者グループでも翻訳には膨大な時間がかかったと聞く)、この本についてノルベルト・ボルツという人は「あまりに難解なので、苦労してそれを読み通した人は、その内容を真実だと信じざるほかなかった」というように語っている(と記憶している)。

 たしかに、きわめて難解な本を四苦八苦しながら読んだとして、その内容が完全に誤りだと知ったならば、失望は大きいだろう。苦労して学んだことは、それだけ正しくあってほしい。もちろん、批判することも学問の重要な一部だが、ただただ批判するためだけに何かを学ぶという作業はやはり虚しい。

 ここでまた話は変わる。ある経済学系のサイトで比較優位について読んでいたときのことだ。比較優位というのは経済学においてきわめて重要な概念なのだという。しかし、説明を読んでも、どうもピンとこない。経済学のなかでも特に誤解されやすいのが比較優位の考え方らしく、きちんと理解するためにはやはりそれなりの修行が必要なのだろう。

 ともあれ、この考え方によると、われわれは他の人と比較して相対的に優位に立てる職業に就いたほうが良いという話になるらしい。絶対的に優位なのではなく、相対的に優位だというのがポイントの一つのようだ。

 たとえば、AさんとBさんがいたとして、Aさんのほうがあらゆる能力に長けていたとしよう。しかし、それでもAさん一人ですべてをこなすよりは、能力的には劣っていたとしてもBさんと仕事を分担してやったほうが二人にとってメリットは大きい。Bさんがやっている仕事も、実はAさんのほうがうまくできたとしても、AさんはBさんが苦手とするようなことをやったほうがいい。このように、あらゆる面でAさんが優れていたとしても、BさんはAさんに対して比較優位を持つことができる。

 ただし、比較優位はころころ変わるので、その都度その都度、比較優位にある職業に変わっていくべきだという話にもなる。それが現実なのであって、その是非を論じても仕方がないともいう。

 もちろん、この考え方の是非について、ぼくにはとやかく言う資格はない。なのだが、この経済学系サイトを書いている人が「労働力の移転が容易ではない?こんなもの、すごく容易です」と書いていたのに、少し驚いてしまった。いやいやいやいや、そんなことないですから。ある日、「あなたの仕事は比較劣位なので、明日から来なくていいです」などという理由で突如として解雇されれば、多くの人は戸惑い、傷つくことだろう。

 繰り返すが、だから比較優位なんて間違っていると言いたいわけではない。ただ、経済学理論の想定通りに動かない人間がいたからといって、現実が間違えているわけではない。たとえ想定通りに動かざるをえないとしても、そこに様々な苦悩や葛藤が存在することもありえるだろう。経済学者にとっては知ったことではないのかもしれないが、そうした感情は政治や世論の動向を考えるうえでは決して無視できるものではない。

 それにしても、なぜ経済に精通しているはずの人が上のように乱暴なことを平気で書くのか。もしかすると、比較優位という難解な概念を理解するための労力があまりに大きかったので、それが一片の揺らぎもない真実だと思ってしまったのかもしれない。否定弁証法を真実だと考えたくなる読者と同じように。

 そう考えると、何かを苦労して学ぶことには、ある種のリスクがあるのかもしれない。否定弁証法であれ比較優位であれ、その労力が大きければ大きいほど、その考え方が前提としていることや、単純化している部分を「当然のこと」「たいしたことのない問題」として片付けてしまう。それを学んでいない人には見えているものが、かえって見えなくなってしまう。こう言ったからといって反知性主義に傾いているわけではない。必死に何かを学ぶことによって生じるリスクもまたありえるのでは、という話にすぎない。

 「労働力の移転など容易だ」と言い切る人の視界に、果たしてショートメール一本で解雇を言い渡される人の存在は入っているのだろうか。