読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

黒歴史、中二病、ブラック企業

 多くの人にはあまり語りたくない恥ずかしい過去がある。ネット用語では「黒歴史」と言ったりする(もともとは『∀ガンダム』に由来する言葉だ)。ぼく自身、黒歴史はかなりあって、以前に書いたエントリの話なんて、まさしくぼくの黒歴史中の黒歴史だ(1)。

何が黒歴史を生み出すのか

 こういう恥ずかしい過去のエピソードを振り返ってみると、そのほとんどが10代半ばから20代前半に集中していることに気づく。ぼくが高校生のころには、電車に乗っていると恥ずかしいエピソードが不意に脳裏に蘇り、思い出し赤面なるものをよくしていた。思い出し赤面をするか否かはともかく、多くの人はぼくと同じような時期に黒歴史を抱えているのではないだろうか。それではなぜ、この時期に黒歴史が集中することになるのだろうか?

 そもそも、この手の恥ずかしいエピソードというものは、「自分にあると信じている能力水準」と「実際の自分の能力水準」とのズレから生じることが多い。

f:id:brighthelmer:20130723203155j:plain

 一例を挙げる。かつて『美味しんぼ』なるマンガが流行ったことがあった。そのマンガを愛読していた一人の中学生がいた。『美味しんぼ』では味覚の鋭さが重要な指標になっていて、主人公はもちろんのこと、後に彼と結婚することになるヒロインもまた鋭い味覚を有している。それらの話を繰り返し読んだその中学生は、まるで自分にも鋭い味覚があるかのような錯覚を覚え始める。そしてあろうことか、何かを食べるたびに「これは科学調味料がきつすぎる」「この醤油は本醸造ではない」とか言い始めるのだ。ううむ、これを書きながら本当に赤面してきた。もうやめてあげて~。そして、その中学生は成人したのち、自分にはそんな繊細な味覚など備わっていないことを奥さんから何度も何度も指摘されることになるのである。

 ともあれ、そういう実際には自分にできないことを出来ると思い込んでしまうところに黒歴史は発生しやすい。楽器演奏など向いていないのにバンドを始めてみたり、創作能力など無いのに演劇の脚本を書いてみたりすると、後から振り返ったときに「あああああああぁぁぁぁああああぁぁ」という恥ずかしさに囚われてしまうのだ。

物語が生み出す中二病

 そして、黒歴史が10代半ばから20代前半に集中して発生しやすくなるのはまさにそこに理由がある。人格が自立し始めるこの時期は、自分の可能性を模索する時期でもある。自分に何が向いていて、何が向いていないのかがまだよくわからないので、とりあえずいろいろなものに手を出してみる。当然、失敗も多くなる。

 しかも、この時期は物語に非常に感化されやすい時期でもある。『美味しんぼ』を読んで食通を気取ったり、『動物のお医者さん』を読んで北大の獣医学部を受験しようかと思ったり、物語を通して自分の可能性を夢見てしまうのだ。人によっては、邪王心眼だかの魔力が備わっているなどと思い込んでしまうこともあるかもしれない。物語のおかげで「自分にあると信じている能力水準」と「実際の自分の能力水準」とのギャップは極大化する。いわゆる中二病というやつである。

f:id:brighthelmer:20130723203608j:plain

 とはいえ、その時期を過ぎたからといって「自分にあると信じている能力水準」と「実際の自分の能力水準」のズレが収まるとは限らない。しかし、成長するに従い、多くの人はそのズレを隠すことを覚えるようになる。「謙虚になる」というのとは少し違う。たとえ、自分の能力を過大に評価していたとしてもそれを人前で出さないようになっていくのだ。

 さらに、自分自身で考える自分の能力よりも低い能力しかないということを他人にアピールしようとする態度も出てくる。これは、恥をかくことを回避するためにはうってつけの手法である。実際にその低い水準しか達成できなくても当初の言葉通りということになるし、それよりも高い水準を達成できれば「良くやった」という話になる(2)。多少失敗したところで恥はかかずにすむのだ。

f:id:brighthelmer:20130723203251j:plain

他人に中二病を押し付ける人

 その一方で、大人になっても「自分にあると信じている能力水準」を高く見積もり、それを公言し続ける人もいる。いわゆる有言実行タイプで、あえて高い目標を設定することで、自分を成長させようとする人だ。こういうやり方は自分自身のなかで完結している分には害はない。目標達成の努力をする必要があるのはその人だけだし、失敗して恥をかくのもその人だけである。

 ところが、それを他人にまで無理に押し付けようとすると、きわめて大きな歪みが生じる。実現するためには身も心も削らなくてはならないような目標を「夢」という言葉で語り、それを他人に押しつける。ついていける人は良いが、ついていけない人にとっては地獄である。

 しかも、それが「善意」に基づいている分だけ質が悪いとも言える。成長するためには夢を語らないと、というわけだ。こういう人は、他人に中二病であり続けることを強制している、と言えるかもしれない。

 むろん、こう言ったからといって、高い目標を掲げることや夢を語ることを否定しているのではない。特に教育という場においては、個々の生徒や学生にある程度までは高い目標を掲げさせるということは必要かもしれない。ただ、過剰に高い目標は生徒や学生を追い詰めるだけになる。場合によっては、目標を切り下げさせることも必要になるだろう。

 実際、大学院の修士課程や博士課程では、院生の壮大な構想を実現可能なラインにまで引き下げるということがしばしば教員にとっての重要な責務になる。加熱のみならず冷却もまた教育の重要な一部だ。

 話を戻すと、大人になってからも「自分にあると信じている能力水準」を高く見積もり、「実際の自分の能力水準」との間にズレを抱えていること自体はまったく構わない。むしろ、自己の成長にとって不可欠だと言えるかもしれない。しかし、それを他人まで押し付けようとするとき、その人はブラック企業経営者になるのだ。

脚注

(1) もっとも、そういう黒歴史をいつまでも覚えているのは本人だけであって、周囲の人はあっさりと忘れていたりもするのだが。

(2)こういうやり方に馴染んでしまうと、確かに人の成長は阻害されかねない。常に低い水準での目標達成が当たり前のものになりかねないからだ。そのため、企業の人事評価でも上司と相談したうえで目標が設定されたりする。あまりに低いところに目標が設定され、低きに流れていくことを防ぐためだ。