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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

絶望から始まるマーケティング

 マーケティングというものは、一種の絶望から始まるのではないだろうか。

他人が何を面白がるのかがわからない

 何かを作る人間にとっての夢は、自分の作品や商品が万人に受け入れられることだろう。けれども、現実は甘くない。自分が「良い」とか「面白い」とか思ったものを、他の人が同じように評価してくれるとは限らないという現実がすぐに襲いかかってくる。

 ぼくが学問の世界に進んでから、かなりの年月が経った。そんなには多くないものの論文も書き、共著ではあれ何冊か本も出した。しかし、その反響は驚くほどに乏しい。引用されているのもほとんど見たことがないし、数少ない例外でも申し訳程度に触れられているだけだ。そうなると「自分が面白いと思ったことを他人も面白いと思うとは限らない」ということを認識せざるをえなくなる。もしかしたら、面白さをうまく伝えるための表現力や論理構成力の問題なのかもしれないが、その可能性はとりあえず措く。

 そうした思いはツイッターを始めてからさらに強まった。気合を入れて書いたツイートがまったくリツートされない。他方で、思いつきでぱっと書いたものが、大した数ではないものの、それなりにリツイートされて見知らぬところまで流れて行ったりもする。他人が何が面白がり、何が面白がらないのかを判断することは極めて困難だ。少なくともぼくには。

マス・マーケティングと口コミ

 このような哀しみに直面したとき、人は絶望のなかでマス・マーケティングに希望を見出したのではないだろうか。たしかに100人中99人までがそれをつまらないと思うかもしれない。しかし、たった1人でも面白いと思ってくれるのなら、100万人に周知すれば1万人が、1億人なら100万人もの人びとがそれを面白いと思う計算になる。ならば、100万人に届けるために1億人にその存在を知らしめればよい。

 だが、問題は残りの99%だ。自分がまったく評価しないものを押しつけられている感覚。これがいわゆる「ゴリ押し」に対する反発だろう。それを評価する1%にとっては「良いものを教えてくれてありがとう!」と思えるマス・マーケティングが、残り99%にとっては「なんつー下らんもんを見せるんだ、このデコ助が!!」という話になってしまう。

 そして、そういうゴリ押しに飽き飽きした人は思う。「マス・マーケティングでゴリ押しされるものではなく、みんなが本当に良いと思ったものが欲しい」、と。そこで注目されるのが口コミだ。上から押しつけられるものではなく、下からの声が反映された市場。ピープルズ・パワー。インターネットの登場はそうした口コミを可視化し、ブックマークやリツイート、シェアといったメカニズムは人びとに本当に好かれているものを周知する…はずだった。

 しかし、この口コミにしても、結局は「自分が面白いと思ったことを他人も面白いと思うとは限らない」という事実の前には限界を露呈してしまう。100人のうち1人しか面白いと思わないブログがあったとして、その1人がたまたまそのブログに出会う確率はきわめて低い。それでも、純粋な口コミに依存するかぎりは、その1人がやってくるのを辛抱強く待つしかない。インターネットでの情報発信はリーチが短く、そのたった1人に届けることがなかなかできない(1)。

なぜ人はステマに怒るのか

 そこで登場するのが、言うまでもなくステルス・マーケティング、いわゆる「ステマ」だ。ある商品や作品があたかも多数に支持されているかのごとくに情報を操作する。最近、話題になったこの人のやり方は、はてなブックマークを操作してまさしく人気を捏造しようとするものだ。複数のはてなアカウントを用意し、プッシュしたい商品がらみのサイトにブックマークを付けさせる。うまくホットエントリに入れば、そのサイトを訪れる人の数は飛躍的に増えるから、ステマ成功である。実際、この手のステマはかなり横行しているらしく、このサイトの話はなかなか面白かった。、

 さらに言えば、最初はまったく無名だったものが一躍大衆の支持を集めるようになるというシンデレラ・ストーリーには夢がある。『ハリー・ポッター』の初版はわずか500部だったと聞く。それが発売後に大きな話題を呼び、著者のJ.K.ローリングは世界でもっとも有名な作家の一人になった。しかし、実際にはそんな僥倖は滅多にない。今年の4月にローリングが偽名で発売した本は1500部しか売れず、それが彼女の本であることが判明したことでようやく30万部の増刷が決まった。ステマには、シンデレラ・ストーリーを人為的に演出しようとする願望が反映されているのかもしれない。

 それにしても、まったくの印象論なのだが、「ゴリ押し」に怒る人たちと、「ステマ」に怒る人たちとでは怒りのポイントが違うのではないだろうか。「ゴリ押し」に怒る人たちは、ゴリ押されている商品なり作品の質の低さに怒りの矛先を向ける。最近のゴリ押し批判としては、やはり剛○彩芽さんの名前を挙げないわけにはいかない。歌が下手だとか、演技がなってないとか、要するに彼女のパフォーマンスの質の低さが問題とされるわけだ。だいたい演技力以前に『ビブリア古書堂の事件手帳』の栞子さんを彼女に演じさせるというのは無理筋だろう。そもそも栞子さんというのはだなあ、いや、話がずれるので止めよう。

 それに対して、ステマに対する怒りは、それによってプッシュされる商品なり作品の質というよりも、ステマという行為そのものに向かいやすいのではあるまいか。インターネット上では「集合知」に対する愛着が未だ強く存在し、それをねじ曲げるものに対しては批判が生じやすい。まとめサイトが批判されるのも、それがアフィ狙いの金儲けの手段になっていたり、特定のイデオロギーに傾斜しているということだけではなく、ユーザーの声が恣意的に編集されているという事実そのものに反感が集まるという側面があるのではなかろうか(2)。

 しかし、もし仮に多くの人たちから高く評価されるものが、ステマによってプロデュースされたものだったとしたらどうだろう?集合知が操作されたことに対する憤りと、優れた作品なり商品なりに巡りあえた歓びとを天秤にかけ、人はどちらを取るのだろうか?

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(1)インターネット上の検索連動型広告行動ターゲティング広告は、マス・マーケティングの非効率性を避けることで「ゴリ押し批判」をかわすことができる一方で、商品なり作品を面白がってくれる可能性が高い層へと広告を届けるという点において画期的だった。ただし、これらの広告は、何らかの関連ワードで検索した人や、関連サイトにすでに行ったことがある人に向けたものにしかならない。そのため、商品と人とのまったくの未知の出会いをプロデュースすることができず、リーチの面での弱さを克服できていない。近頃、ビッグデータがもてはやされる要因の一つは、そうした未知の出会いを促したいということなのではなかろうか。

(2)つまり、バランス良く編集して、それでも全体としてのイデオロギーに偏りが見られるというのであれば、それほど批判の対象にはならない…のかもしれない。