擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

尾崎豊と疎外論の復権?(2)

 さて、前回のエントリの続きである。

前回のおさらい

 前回は、疎外論の影響を受けた管理社会論と尾崎豊の歌との共通点について書いた。

 現代社会の仕組みは人間が作り上げたものなのに、あたかも自然なもの、所与のものであるかのような錯覚のもと、人びとは本当に人間らしい生活から疎外されている。そればかりか、疎外されているという事実自体からも疎外されてしまい、自由だと思い込まされているというのが管理社会論(あるいは尾崎豊)の主張だ。

 しかし、こういった主張は、そのいずれもが「お前らの自由は偽物だ」とか「仕組まれた自由だ」などと上から目線で言い放つがゆえに、反発を買いやすい構造を持っているという話をした。

 実際、現在では疎外論の人気はさっぱりである。尾崎豊の歌への風当たりも厳しい。しかし、疎外論と共通する部分を持ちながら、それとは全く異なる出発点から展開されている議論があることに気づいた…という話をしたところで前回は終わった。

ある問題が「政治問題」になるためには

 その議論とは、脱政治化論である。脱政治化とは、政治的な争点であったものが、政治以前の事柄になっていく過程のことを言う。といっても分かりにくいと思うので、遠回りではあるが政治的であるとはどういうことかについて書いておこう。

 そもそも、ある事柄が政治的な問題だという場合、一つの大きな前提がなくてはならない。その事柄が政治の力でなんとかなる問題だということだ。たとえば、地球が太陽の周りを1周するのに365日もかけるべきかという問題については、政治的な問題にはなりようもない。政治の力で地球の公転速度を変えることはできないからだ。

 しかし、幸いなことに政治の力でなんとかなる(と思われる)問題というのはたくさん存在する。そこで、これまでは「仕方がない」「どうしようもない」と思われていたような問題を政治の力によって解決しようとする。これが政治化である。

 コリン・ヘイは、この政治化の流れをもう少し細分化し、政治化Ⅰ、政治化Ⅱ、政治化Ⅲという三段階に分類した(下図)。まず政治化Ⅰとは、それまではあまりも当たり前で仕方がないことだと思われていたことが、日常的な会話のなかで問題として話し合われるようになる過程だ。たとえば、あらゆる家事を一人でこなしていた妻が夫に対して「もう少し家事をやってよね」と言い出し、それがもとで夫婦の話し合いが行なわれるようなことが政治化Ⅰと言えるだろう。

f:id:brighthelmer:20150120233839j:plain

 それに対して、政治化Ⅱとは、それまでは私的領域のなかで話し合われていたことが、マスメディアや社会運動によって多くの人びとの関心を集める問題になるという過程を指す。最近の例でいえば、安藤美姫さんの出産が挙げられるだろう。本来なら、子どもを生むか生まないかというのは極めて私的な選択であって、無関係な第三者があーだこーだ言う問題ではない。ところが、どこかの週刊誌がお節介にも「出産を支持するか否か」みたいなアンケートをやろうとしたわけだ。これが政治化Ⅱである。

 最後に政治化Ⅲというのは、それまで公的領域で話し合われていたものの、議会での討論や選挙の争点になっていなかった問題が、ついに討論の議題や争点として浮上する過程だ。近頃の例で言えば、アベノミクス的な金融政策が挙げられるだろう。

 拡張的な金融政策の必要性については長い間、ネット界隈や一部のメディアにおいて語られていた。いわゆる「リフレ派」と呼ばれる人たちだ。しかし、リフレ派の主張は長らく冷遇され、金融政策は「日銀の独立性」のもとで政治問題とはならなかった。ところが、第二次安倍内閣の成立により金融政策は突如として中心的な政治問題として浮上し、今度の参院選の争点にすらなっている。これが政治化Ⅲである。

脱政治化はなぜ起きるか?

 というわけで、次にようやく脱政治化の話であるが、これは今述べてきた政治化とは逆の過程を示す。つまり、議会で討議されたり、選挙の争点だったりしたものが、中心的な政治問題ではなくなり(脱政治化Ⅰ)、やがてマスメディアや社会運動で取り上げられることもなくなり(脱政治化Ⅱ)、個人的な話題にすらもならなくなり、当たり前の、仕方のない事象として沈殿していく(脱政治化Ⅲ)という流れだ。

 では、なぜこういった脱政治化は生じるのだろう?

 一つには、それが専門家や民間企業のみが扱うべき事項として位置づけられてしまうことがある。現代日本の例で言えば、原発関係の政策というのは膨大な国税も投入されているし、日本社会全体にとって重要な意味を持つ。しかし、それが仮に民間企業や独立行政法人の技術的な問題として片付けられてしまうと、政治的な論争を展開しづらくなってしまう。先に挙げたアベノミクスにしても、金融政策がふたたび日銀の専有事項となり、「トーシロは口を出すな!」みたいな話にならないとも限らない。

 そしてもう一つが、それが政治の手には負えない問題だと認識されるようになることがある。ヘイ自身が強調している例を紹介すると「グローバル化」がそれにあたる。昨今では、グローバル化の進展によって国家の手に負えない問題が多数出てきたとされる。しかし、世界各国がグローバル化にどのように対応しているのかを見ると、国ごとにかなりのバラつきがあることがわかる。つまり、仮にグローバル化の進行を認めるにせよ、実際にはそれぞれに国の政府にかなりの裁量の余地が残されていることになる。

 にもかかわらず、「グローバル化は国家の裁量を超えた問題であり、政策的に対応することは不可能で、個人のレベルで適応するしかない」などと主張し、たとえばノマドワーカーを賞賛したりするのは、そのこと自体がグローバル化を脱政治化しようとするイデオロギー的主張なのだと言える。民主主義的にグローバル化に介入することは不可能なのだから、大人しくグローバル化に最適化した政策(規制緩和法人税引き下げ、累進課税の緩和、etc.)を実施するしかない。人びとがそうしたグローバル化の主張を真に受け、それが不可避の流れなのだと考えるようになるほど、実際にそうした動きに逆らうことは難しくなるとヘイは警告する。

グローバル化が一国の政策形成の自律性と民主的討議に大きな影響を与えている経路が存在する。それが、グローバル化についての「観念(アイデア)」である。つまり、政策立案者がグローバル化の時代にあって自身の自律性が制約されているのだと考えるのであれば、競争力に資するものとされる政策だけが選択され、政治的自由度を自らの手で放棄することになるのである。結果として生じる民主的討議の能力喪失、そして続く脱政治化は深刻なものとなる。
(出典)『政治はなぜ嫌われるのか』、pp.202-203。

脱政治化論と疎外論

 さて、長々と脱政治化の話をしてきたのだが、疎外論との共通点はご理解いただけただろうか。どちらの議論も「一見すると人間の手では変えられそうもない社会の仕組みは、実は変えることができるのだ」ということを示そうとしている。言い換えれば、いずれも「いまの社会のあり方は変えられないので、個々人が適応していくしかない」という処世術へのアンチテーゼとして存在しうる(1)。

 ただし、脱政治化論は疎外論とは違い、人びとが人間らしい生き方から疎外されているとか、「お前らの自由は偽物だ」とか言ったりはしない。もちろん、人びとの意識の変革を促しているという点では上から目線の部分はどうしても残る。それでも「世の中には政治の力でどうにか出来る問題はまだある」と述べるだけなら、上から目線度はずっと下がるはずだ。

 というわけで、疎外論をそのまま復権させることは難しいものの、それと共通した発想の研究はいまでも行うに値するかもしれない(2)。

 ただ、尾崎豊の復権というのは、さっき風呂場でシャワーを浴びながら彼の歌を熱唱してきたのだが、いかんせん良いアイデアが思いつかない。サビの部分の高音が出ないので、キーを下げてみるのだが、気がつくと元にキーに戻ってしまい、やっぱりサビが歌えないという…

 まあ、『卒業』とか『15の夜』以外にも彼にはいい歌があるよってことで。

参考文献

コリン・ヘイ(2007=2012)『政治はなぜ嫌われるのか』岩波書店

脚注

(1) その意味で、アニメ『攻殻機動隊』で主人公の草薙素子がテロリストに向かって放つ「世の中に不満があるなら自分を変えろ!!。それが嫌なら、耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ」という言葉は、脱政治化を促す言葉であり、あまり褒められたものではないとも言える。草薙は「世の中に不満があるなら投票に行け!!」と言うべきだったのではあるまいか。まあ、説教臭いので主人公の台詞としては採用されないだろうなとは思うが。

(2) 疎外論はダメだが、物象化論にはまだ使い道は残っているという話になるかもしれない。このあたり、ぜんぜん勉強してないから、はっきりとは言えないけど。