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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「反韓」と「嫌韓」、そして「日本が好き」

「反韓」と「嫌韓」はどこが違うのか

 反韓感情について調べているうちに、「反韓」と「嫌韓」は違うのだという説明を見つけた。この二つの違いなど考えたこともなかったので、なかなかに新鮮な発見だ。

反韓(はんかん、英: Anti-South Korean)とは、政治的理由から大韓民国に対し批判的な立場を取ることを指す。感情的な理由から大韓民国及び韓民族を嫌悪する嫌韓とは立場が異なるとされる。
(出典)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AB%8C%E9%9F%93

 そして、さらに興味深いのは、自分たちは「反韓ではなく嫌韓なんだ!」と主張している方々が少なからず存在しているということである。(もっとも、個人によって嫌韓と反韓の定義付けが大きく異なっていることも多い)

 実際、検索件数の推移を見ると、どうやらネット上では反韓よりも嫌韓という言葉のほうが好まれているようである。2005年から2006年にかけて「嫌韓」が急増しているのは、おそらく『マンガ 嫌韓流』が出版された影響だろう。

f:id:brighthelmer:20130710081325j:plain

 いずれにせよ、反韓よりも嫌韓が好まれている理由の一つは、それを見た韓国の人たちをより深く傷つけることができるという期待があるように思う。何か明確な理由があって反発を受けるよりも、「キモい」といった本人たちにはどうしようもない理由で嫌われるほうが、人格はより深く傷つく。

 そして、もう一つ理由を挙げるとすれば、反韓が政治的理由という自分たちの「外側から来る正しさ」として感じられるのに対し、嫌韓が自分たちの「内側から来る正しさ」として感じられることに起因しているのではないだろうか。

「内側から来る正しさ」としての嫌韓

 領土紛争であれ歴史認識であれ、政治的理由に基づく反発は自分たちから遠く隔たった出来事に起因している。なので、それらを主たる理由として韓国に反発するといっても、それほどピンとは来ない。以前のエントリで述べたように、われわれの多くはそういった「外側から来る正しさ」に説得力を感じることができないのだ。

 それに対して、嫌韓とは自分の内側から沸き上がってくる嫌悪感である。ネット内で反響しあうことで嫌韓が増幅されていることは否定できないものの、基本的には「私が嫌いと思うから嫌い」なのである。(もっとも彼らに言わせれば、世界中の人たちが韓国人を嫌っているということだそうだが…)

 もちろん、韓国を嫌うための理由づけとして政治的理由も持ち出されるから、現象面では反韓と嫌韓にそれほどの違いは生じない。ただし、嫌韓の場合には、文化や習俗といった必ずしも政治的とは言い難い理由づけがより頻繁になされることになるだろう。

 しかし、考えてみれば、感情をあからさまに表明するというのは通常は人格的に未成熟な証拠とされるはずだ。人前でいきなり怒り出したり、泣き出したりする人を見れば、多くの人は「子どもっぽい」と思うだろう。にもかかわらず、自分たちが感情的であることを誇らしく語るというのは、なかなかに興味深い現象ではある。

「韓国が嫌い」で「日本が好き」

 実は、個人的な感情を優先させる態度は、嫌韓とはコインの裏表の関係にあるナショナリズム的な主張にも見ることができる。というのも、たとえばツイッターで日の丸アイコンを使用している人たちのプロフィールには「日本が好き」という言葉が用いられていることが少なくない。

 「好き」というのは「嫌い」と同じく個人的な感情表現だ。何らかの明確な理由があるからではなく、素朴な心情として日本が好きだと言いたいのだろう。先の表現を使えば「外側から来る正しさ」ではなく「内側から来る正しさ」という個人的な感情によって日本が好きなのである。

 しかし、これは通常の意味でのナショナリズムとはかなり違ったニュアンスを帯びているように思われる。ナショナリズムとは一種の共同体精神だ。たとえば、ベネディクト・アンダーソンはネーション(国民)を支える心情には「水平的な深い同志愛」があると述べている(アンダーソン 1991=1997: 26)。それに対して、「日本が好き」から、そういった共同体的なニュアンスを感じ取ることは難しい。むしろ、あくまで個人的な感情の表明と見える。

 もっとも、ナショナリズムと個人主義は必ずしも相反するものではない。というのも、国民国家が形成される過程では、様々な中間集団(村落共同体、職業ギルド、宗教団体など)が弱体化、解体させられ、ネーションと個々人とを直接的に結びつけることにエネルギーが注がれたからだ(もっとも、日本では国家に中間集団が取り込まれることで、ムラ社会が温存されたという指摘もある)。

 ただし、ネーションと個々人が直接に結びつくと言っても、かつてその力点はあくまでネーションの側にあった。つまり、個々人が「村のため」とか「地域のため」というよりも「お国のため」に行動することが期待されていたわけだ。それに対し、「日本が好き」という表現から見えてくるのは、その力点が個々人の嗜好に置かれたナショナリズムだ。

 そうした人たちが「日本が好き」なのは、それが責務や運命だからなのではない。むしろ、個人としての自尊心を高めるためのアクセサリーとして有効だからこそ「日本が好き」なのである。最新の電子ガジェットやブランド品のバッグなどと同じく、それを纏っていると気持ち良くなるがゆえに「日本が好き」なのではないだろうか。

自尊心のアクセサリーとしての「日本」

 そして、アクセサリーとしての「日本」の価値を高めるために手っ取り早いのが、それよりも価値が劣るものと比較することである。自分自身が何らかの形で日本に貢献し、日本の価値を高めるよりも(個人でそれをすることはとても難しい)、他国を罵り、軽蔑しさえすれば日本の価値は相対的に上がったように見える。だからこそ、政治的理由ではなく感情的理由によって韓国を罵倒し、軽蔑する嫌韓が現れる。(もちろん、同じような理由で、日本人を罵り軽蔑する人たちが韓国や中国に存在するだろうことも否定しない)

 ただし、「日本」がアクセサリーだということは、それがダサくなったり、自分の自尊心にとって役に立たなくなったときには、あっさりと捨ててしまうということにもなりかねない。あるいは、以前に述べたように、いま現在において実際に日本列島に生きている日本人というよりも、観念のなかで美化された「日本」だけを好むということにもなりがちだ。

 ここから帰結するのは、通常のナショナリズムでは非常に重要な位置を占めるはずの「義務」や「献身」といった観念が著しく希薄なナショナリズムだ。たとえば、さいきん見たはてなのアノニマスダイアリーに「保守」を自認していると思しき人の次のような書き込みがあった。

アナクロ右翼のおじいさんが「われわれ大和民族の義務として」等と言いながら、何かよその国や社会や民族やと隔絶した義務を強いてきたら、あんたら左翼はそれこそ顔真っ赤にして狂喜しながらおじいさんを叩くだろう。(俺だってもちろんおじいさんに従う気はない)
(出典)http://anond.hatelabo.jp/20130708004838

 このような主張が、「心からの自己犠牲的な愛を呼び起こす」(アンダーソン 1991=1997:232)とされるナショナリズムとは著しい対照をなしていることは明らかだ。

 しかも、兵役については「高度化が進んだ現代の戦争では徴兵制は無意味」ということが自明の前提とされており、究極の自己犠牲のためのルートはあらかじめ通らなくても良いことになっている。そうした立場に求められる自己犠牲といえば、せいぜいが自衛隊員を応援することぐらいである。

 したがって、こういったナショナリズムは、たとえば祖国が何らかの理由でひどく荒廃したり、困窮した人びとが数多く出現したときに、ともに痛みを分かち合い、祖国を再建しようという態度には繋がりにくいのではないだろうか。いわゆる、「ネット右翼」の人たちが生活保護受給者を激しくバッシングする背景にも、後者が自尊心のアクセサリーとしての「日本」を汚しているように見えるからなのかもしれない。

 以上はぼくのようなへなちょこリベラルが心配する筋合いの話ではないのかもしれない。しかし、このような「私のためのナショナリズム」について正統派の保守の方々はどのように考えるのだろう?ネット上で保守的な意見が圧倒的だと言っても、喜んでよいことばかりでもないように思うのだが。それとも、所詮は大衆のナショナリズムなんて身勝手なものなのだと割り切っているのだろうか?

引用

ベネディクト・アンダーソン白石隆・白石さや訳(1991=1997)『増補 想像の共同体』NTT出版