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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

『ワンピース』から考える正しさの源泉

学問

ルフィの「正しさ」はどこから来るのか

 以前のエントリでも参照したことがあるのだが、『ワンピース』という漫画は「正しさ」とは何かを考えるうえで、なかなか良い出発点になる。いまは海外にいるし手元にないので、記憶に頼って書くが、まあこんな感じだ。

 主人公ルフィは海賊だ。仲間をとても大切にする。その一方で自分の手の届かないところにある「正しさ」には全く無関心である。あくまで目の前にある状況だけを問題にする。「半径5メートルの正しさ」だ。

 他方で、この漫画には海軍という存在も登場する。世界政府に帰属し、その将官たちは「正義」という字の書かれたマントを背負う。世界秩序の維持という正義のために罪のない人たちを殺すことまでも厭わない将官まで抱えている。

 この二つの正しさのあり方の違いは、それがどこから来ているのかの違いだと言える。つまり、ルフィにとって正しさはあくまで自分のなかにある。自分にとって大切だから仲間を守るのであり、自分にとって腹立たしいから敵をぶん殴るのである。それに対して、海軍の将官たちの正義は世界秩序という外側の世界からやってくるのだ。

正しさの根拠を求めて

 正しさの根拠をどこに求めるかというこの問題は、現代的な思想にとっても重要な意味を持つ。宗教の影響力が衰退し、伝統的な価値規範が揺らぐなかで、何が正しく、何が間違っているのかを判断することは難しくなった。以前のエントリでも紹介したロールズの正義論にしろ、ロールズの仮想敵であった功利主義にしろ、ロールズを批判するコミュニタリアンにしろ、要するに正しさの根拠を求めて議論を積み重ねてきたのである。

 とはいえ、それらの思想は基本的に正しさの根拠を個々人の外側の基準に委ねようとする。ロールズの正義の二原理にせよ、功利主義の「最大多数の最大幸福」にしろ、コミュニタリアンが重視する共同体の価値にせよ、個々の主観的な判断を超えた正しさを追求している点には変わりがない。

 だが、個々人の外側にある基準に正しさの根拠を委ねようとする発想には、どうしても「嘘臭さ」がつきまとってしまう。いくら口を酸っぱくして大文字の正義を唱えたところで、「それって、『ぼくのかんがえたさいきょうのせいぎ』なんじゃないの?」とか「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」とかいう冷笑を呼び起こすだけになりがちだ。要するに、われわれの多くは、自分の外側からやってくる正義を素直に信じることができないのだ。だから、多くの人は、海軍的な正義よりも、ルフィの「半径5メートルの正しさ」に共感する。

外側から来る正しさの困難

 実際、個々の内側から来る正しさ以外のものを人に受け入れてもらうのは困難だ。たとえば、ボランティア活動に従事する人にしても、「世のため人のため」といった大文字の正しさによって自分の動機を説明しようとすると「偽善者」というレッテルを貼られがちだ。だからこそ、「自分の成長のため」や「楽しいから」といった自己の内側の正しさに起因する動機を語ることで、そのような批判を回避しようとするボランティアが登場することになる(仁平典宏(2011)『ボランティアの誕生と終焉』名古屋大学出版会)。

 ただし、このボランティアの例からも分かるように、内側から来る正しさに依拠したとしても、それは利己的に自分のことだけを考えるようになるということを意味するわけではない。ルフィの正しさが「半径5メートルの正しさ」であるように、それは「テメーさえ良ければあとはどうでもいい」と同義ではないのだ。たとえ内側から来るものであっても、人によっては世界中の人びとの幸せを願う人もいる。人が幸せであることが正義だからなのではない。「自分が同じような立場に置かれたら辛いだろうな」と思うがゆえに、飢餓や貧困、戦争に苦しむ人たちの幸せを祈るのである。

「リベラル・アイロニスト」とは?

 このように、正義と呼べるほどのはっきりとした根拠はないものの、他人の幸せを願いたいという発想を持つ人を、リチャード・ローティは「リベラル・アイロニスト」と呼んだ。自分が正しいと思うことはある。でもそれは正義だから正しいのではなく、たまたま自分がそう思うから正しいのだ。なので、こういうリベラル・アイロニストは「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」と言われても、「そうですけど、何か?」と返すしかない。

残酷さこそ私たちがなしうる最悪のことだと考える人びとが、リベラルである。…リベラル・アイロニストにとって、「なぜ残酷であってはならないのか」という問いに対する答えなどない。つまり、残酷さはぞっとするものだという信念を、循環論に陥らずに支持する理論などないのだ。
(出典)リチャード・ローティ、斎藤純一ほか訳(2000)『偶然性・アイロニー・連帯』(岩波書店)、p.5。

 けれども、このリベラル・アイロニストの立場には危うさもある。他人の幸せを願う根拠が自分のなかにしかない以上、どうしても選り好みが出てしまう可能性があるのだ。様々な苦しみを抱えている人びとであっても、その全員が共感を誘うような人物であるわけではない。実際、共感を集めやすい人物についてはいくつかの基準があると言われる。以下は犯罪被害における「理想的な被害者」像のリストだが、これは他の状況にも応用できるだろう。

(1)    被害者が脆弱であること
(2)    被害者が尊敬に値する行いをしていること
(3)    被害者が非難されるような場所にいなかったこと
(4)    加害者が大柄で邪悪であること
(5)    加害者とは知り合いでないこと
(6)    自らの苦境を広く知らせるだけの影響力を有すること
(出典)Nils Christie (1986) “The ideal victim”, in E. Fattah (ed.) From Crime Policy to Victim Policy, Macmillan, pp.19-21。

  たとえば、苦しんでいる人物が子どもや女性であったり(1)、献身的に家族の面倒をみていたりする場合(2)、苦しめている側が邪悪な存在とイメージされている場合(4)、共感を集めることは容易になる。また、NGOなどの強力なバックアップがあり、メディア露出が多くなれば(6)、共感を集める可能性は飛躍的に高くなる。逆に、苦しんでいる人物がいかにも強靭そうだったり、尊敬に値する行いを何もしていなそうに見えた場合には、共感を集めづらくなる。

 実際、生活保護について考えるさい、低賃金労働に従事しながらも懸命に子育てをするシングルマザーの受給者を念頭に置くのか、それとも一日中パチンコに興じる中年男性の受給者をイメージするかで制度を支持したくなるか否かは大きく変わるだろう。いずれにせよ、イメージに基づくものでしかない以上、共感する/しないの選別の基準はどうしても恣意的になってしまう。『ワンピース』の世界で言えば、ルフィに気に入られない限り、救済はやってこないということになりかねない。

 この点、外側から来る正義に依拠する正しさであれば、このような選り好みが生じる可能性は減る。「人権」のような個人の外部にある普遍的な基準に依拠するなら、相手がどんなにイヤな奴であっても選り好みするわけにはいかない。しかし、すでに述べたように外側からやってくる正しさにわれわれの多くは説得力を感じられなくなっている。

共同体の可能性

 そこで、内側からくる正しさと外側にある正義とをつなぐ回路が必要になる。そのための回路となりうるものの一つが「共同体」だろう。「お前を気に入ったから助けてやる」と「同じ人間だから助ける」との間をつなぐために「同じ日本人だから助ける」「同郷のよしみで助ける」という論理が持ち出されるわけだ。

 実際、『ワンピース』の世界においても、アラバスタ王国やドラム王国で発露される愛国心はきわめて肯定的に描かれている。ルフィの「半径5メートルの正しさ」と世界政府の海軍が掲げる「正義」との対立を止揚するものこそがそれらの王国の「愛国心」と言えるかもしれない。リベラル・アイロニストを標榜するローティもまた、集団を形成することで生み出される「われわれ」意識の重要性を論じている。

 ただし、ここで注意が必要になるのは、共同体という言葉が出てきたからといって、コミュニタリアンのように正しさの源泉を共同体に求めるわけではないということだ。そうではなくて、自分の内側から来る正しさがあまりに恣意的になるのを抑制しつつ、連帯を生み出すための源泉として共同体を位置づけようとする発想だと言える(1)。

 さらに言えば、共同体の範囲を人種や民族、国籍などの基準で限定することが常に必要だというわけでもない。たとえば、同じ領土内で生活し、納税のような義務を果たしていれば共同体の一員として認めてよいという発想もありうる。あるいは、その国の憲法に対する忠誠心を持っていれば十分だという考え方もある。

 もちろん、集団である以上、集団のウチとソトを分ける境界線は必ず引かねばならない。それでも、境界線が生じさせる暴力を認識しつつ、どこでそれを引くことが適切なのかを再考する余地は持っておく必要はある。

 ルフィが率いる小さな海賊団ですら、出身も違えば種族も違うメンバーで構成されている。そして、その人数もだんだんと増えてきたではないか。

脚注

(1) エンターテイメントの多くも、共同体の価値や伝統を無批判に受容する人物として愛国者として描くわけではない。むしろ、共同体の価値からすれば「はみ出し者」ではあるものの、共同体に寄与しようとする人物のほうが好ましく描かれることが多いように思う。