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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「批判」と「私刑」のあいだ

コミュニケーション

 ブログを炎上させた岩手県議が自殺した。この件で、ネット上では大きな騒ぎになっている。

 実際には、果たしてブログの炎上が直接的な動機だったのかはもう誰にも分からない。ただ、少なくとも間接的な原因になった可能性は高いだろう。

 この件に関して、すでにネットではいろいろな議論が展開されている。たとえば、ネット炎上は私刑にすぎないというこうした意見がある。それに対しては、私刑と批判は違うという反論も提起されている。

 そこで、ここでは批判と私刑の違いについて少し述べてみたい。ぼくが考えるに、この両者を隔てるものは以下の2点だ。

(1)    数に頼んだ批判になっていないか

 たぶん内田樹さんの『街場のメディア論』だったと思うのだが(いまは手元にないので確認できない)、マスメディアの報道に関して「それは報道に値するか」という問いかけがあったと記憶している。ここで言う「報道に値するか」といのは、通常の意味でのニュース価値(出来事の新しさ、重大性、奇妙さ、発生場所の近さetc.)というより、他のメディアが報道しておらず、命をかけてでも報道するに値するかといった意味での価値だ。要するに、内田さんは現在のマスメディアがそういう報道を怠っていると言いたかったのだと記憶している。

 無論、これはマスメディアの話なのだが、ネット上での意見表明にも共通する部分があるように思う。たとえば、ひどい内容のブログがあったとする。当然、それを批判したいと思う。しかし、自分が発信しようとしていた内容の批判をすでにたくさんの人がしていたばあい、その批判をさらに繰り返す必要性は乏しい。

 にもかかわらず、多くの人はそれをしてしまう。とりわけツイッターの場合、自分がしようとしている批判を既にたくさんの人が行なっていたとしても、それが見えづらいという構造になっている。そのせいか、何かが起きると大量の@が飛んでくるという現象が起こりがちだ。しかし、たとえ真っ当な批判であっても、それが無数に繰り返されるならば、限りなく私刑へと近づいていく。

 確かに、批判の数が重要になる場面は存在する。たとえば、相手が組織や集団であった場合、たとえ同じような内容の批判であっても多くの人がそれを繰り返す価値はある。しかし、対象が個人であればサンドバック状態はやはり私刑と言わざるをえない。

 ただ、今回の場合、批判の対象は県議という政治家であり公人である。なので、通常の私人に対する批判とは異なる部分が大きく、県議への批判が一概には私刑だと言い切れない部分がある。とはいえ、個人的には、きちんと謝罪をしたのであればそれ以上に追い詰めるのは酷だと思う。

 話を戻すと、たとえばツイッターで相手にメッセージを飛ばす形で批判するのであれば、それをする前にリアルタイム検索で「@相手のアカウント名」を検索し、その人がすでにサンドバック状態になっていないかを確認してからしたほうが良いだろう。それだけで、意図せずして集団リンチに加わる可能性は減らせるはずである。

(2)カタルシスを求めて批判していないか

 前にツイッターに書いたのだが、ネット上での論争はたいてい非生産的な結果に終わる。頭に血の上った論争の当事者たちは「謝ったら死んじゃう病」に感染するので、結局は論点ずらし、レッテル貼り、一方的な勝利宣言などを展開するようになり、何も生み出さないままに論争は終わる。ただ、論争の見物人にはそれなりに得るものがあったりするので、そうした論争にも全く意味がないというわけでもない。

 このような論争において、相手を批判する目的はやはり「相手に誤りを認めさせる」「謝罪させる」ということだろう。その次元に留まっているかぎり、相手への批判にそれほどの害はない。

 しかし問題は、批判の目的が往々にして「相手に罰を与える」というものになり、そこからさらに「罰せられた相手を見てカタルシスを得たい」というものへと変化していくことだ。

 実際、炎上案件において某掲示板を見ていると「自殺に追い込め」という書き込みをしばしば目にする。相手のプライバシーを裸にし、所属先に抗議の電話をかけ、退職や退学に追い込む。どこかの企業に内定している学生の場合なら、内定を取り消させる。批判の相手を社会的に抹殺することで「大勝利」に酔いたいという気持ちがひしひしと伝わってくる。しかし、そういう動機での批判はもはや批判と呼ぶに値しない。それは私刑だ。

 ただ、ここでも難しいのは、その批判対象が明確な違法行為をしていた場合だ。今回のケースであれば、病院での支払いをスキップしたと県議自身が述べている。こうしたケースでは、関係機関に連絡をする必要があるのかもしれない。ただ、それでも処罰はあくまで関係機関に委ねるべきであり、自分たち自身で罰を与えようとすることは私刑に直結するということを忘れずにいたい。

 結局のところ、批判という行為からカタルシスを得られることはほとんどない。先に書いたように、批判した相手が誤りを認めたり、謝罪するケースは稀だ。批判によってカタルシスを求めようとすればするほど、私刑願望へと近づいていく。たとえ不満しか残らなくてもそれでもよいという人だけが誰かを批判すべきだとぼくは思う。

 とまあ、こんな過疎ブログに書いたところで意味はないのだが、それでも思うところを述べてみた。しかも、こんなのが綺麗事にすぎないというのもよく分かっている。

 それでも、ね。