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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

相対主義へのフリーライド

 2年ぐらい前、「男はこの4コマ漫画における女の子の心情に気づくことができないと失格らしい」という話題がネットで盛り上がったことがあった。

 このマンガについて、ぼくは「女の子は自分の女子力に自信がなくて日傘なぞさしてみたが、男の子は女子力云々など全然気にしていなかった。なので、女子力関係なしに自分を好きでいてくれる男の子に安心して4コマ目で手を繋いだ」と解釈したのだが、ネットでは様々な解釈が提示され、それなりに盛り上がっていたのではないかと思う。

 さて、この女の子の心情を読み取れない男は失格か否かはさておき(このマンガを書いた人自身はそういう意図はないと言っている)、同じものを見ているのに人によって様々な解釈が生じるというのは、多くの人が日常的に経験している経験だろう。

 そのような立場を突き詰めた考え方が、いわゆる「相対主義」だ。相対主義によれば「物事には様々な解釈が存在し、そのうちのどれか一つが絶対的に正しいということはない」ということになる*1。

 こうした相対主義の「弱点」としてよく指摘されるのが、相対主義相対主義そのものを相対化できないというものがある。つまり、「絶対的な正しさは存在しない」という相対主義の命題自体を「絶対的に正しい」としてしまっているではないか、という批判だ。もしかすると先の四コママンガにも「絶対的に正しい」解釈がある可能性は存在するが、それを否定しまってよいのだろうか…と言い換えてもいい。

 こうした批判を受け入れるならば、相対主義的な立場を維持するためには、どこかで相対主義を諦める必要があるということにもなる。つまり、相対主義者であるためには「物事には何でもあり」と言うのみならず、どこかで「ただし、…は除く」と言わねばならない瞬間があるのだ。

 それでは、どのような瞬間に「…は除く」と言わねばならないのだろうか。それは、言うまでもなく相対主義そのものを脅かすような主張が出てきたときである。「何でもあり」という状況を否定するような動きが出てきたとき、相対主義者にはそれに反対する道徳的義務が生じることになる。

 典型的な例としては、他者の生存や思想・表現の自由を脅かすような動きが相対主義に対しての脅威になる。そして、この場合には二重の意味で相対主義を諦める必要がある。

 一つは繰り返しになるが、他者への憎悪を扇動するような思想の妥当性自体を否定しなくてはならないということだ。「物事には何でもありだ。…ただし、『何でもあり』を否定する思想は除く」ということになる。

 もう一つは、状況解釈の相対主義だ。たとえば、目の前で「お前たちをぶち殺す」と言われたとしても、そのこと自体は生存や表現の自由を脅かすことにはならないと解釈することも可能ではある。実際に殺されたわけではないのだから、それでも自由に発言することはできるという解釈の「相対主義」だ。

 しかし、このような解釈に立つのであれば、強圧的な全体主義体制下においてすら表現や思想の自由は存在するという話にもなってしまう。全体主義の脅威は、単に反体制分子を強制収容所に放り込んだり、殺害したりという点のみにあるのではない。監視と密告の蔓延によって生まれる猜疑心と不安こそが、人びとの自由を脅かす。したがって、特定の集団に向かって殺害をほのめかすような運動は相対主義の敵であり、そこに状況解釈の多義性は認められない。

 というわけで、結論。

 相対主義者であり続けるためには、どこかで相対主義を諦めなくてはならないポイントがある。そのことを等閑視し、レイシズム運動とそれに反対する運動のいずれも「どっちもどっち」などと言い放つ「相対主義者」は、相対主義の根幹を守る努力を放棄しながら、多様性という相対主義の果実だけをフリーライドして享受しようとしているにすぎない、と思う。

 相対主義的にいい加減で曖昧であり続けるためには、けっこうガチに頑張らなくてはならない瞬間があるのだ。

 

*1 もちろん、こうした相対主義的な立場には強弱がある。たとえば自然科学的な領域ではある程度まで正しさの存在を認める一方で、社会的な領域ではより相対主義的な立場に立つといった立場がありうる。また、歴史認識についても様々な解釈がありうることを認めたうえで、様々な歴史的史料の存在を否定したり、実際に起きた事件を「なかったこと」にしようとする動きには反対だという立場もありうる。