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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

自己決定という自己欺瞞

学生の人生までは背負えない

 仕事柄、ぼくは学生と面談することが結構ある。学生の進路についても話を聞くことが多い。そして、少なからぬ学生が将来の悩みを抱えていることを知る。親の希望と自分の希望のズレ。実現可能性が低い自分の夢と食べていかねばならないという現実。それらのギャップをどう埋めるのかは難しい問題だ。

 しかし、ぼくは学生に向かって「こう生きろ」と言えるような立場にない。せいぜい言えるのは「最終的には自分で決めなさい」ということぐらいだ。もちろん、これはぼくの責任回避だ。学生一人ひとりの人生にまで責任を負うことはできない。だから、「自分の人生は自分で背負え」と言って突き放しているわけだ。

 とはいえ、それだけでもない。「他人に言われたから」という理由で将来を決めると、自分の人生のツケを他人に負わせながら生きていくことになりかねない。たとえそれが自己欺瞞や虚構であったとしても「いまの自分の人生は自分で決めた」と言い切れなければ、覚悟を持って生きることは難しくなってしまう。

 以上は個人レベルでの生き方の話だが、集団にとっても「自分たちのことは自分たちで決めた」という感覚は重要な役割を果たしている。とりわけ現代では。ここで話は飛んでしまうのだが、少し歴史の話をしよう。

揺れ動く「正しさ」

 以前のエントリでも述べたように、人は「正しさ」を求める生き物だ。何が正しくて、何が間違っているのかという価値基準を必要とする。かつては、その基準は神様や支配者だった。宗教や支配者が正しいことと間違っていることを決めてきたわけだ。

 しかし、世俗化が進むと、宗教の力は弱まってくる。さらに、民主化の進行は、正しさの基準を自分たちの外部に求めることを難しくする。つまり、何が正して、何が正しくないのかを自分たち自身で決めなくてはならなくなったのだ。必然的に、その正しさは相対的なものでしかなくなり、常に揺れ動くようになる。

「デモクラシーの社会においては、いかなる個人も集団も、かつて君主がしめていた地位を独占することはできない。…いかなる個人や集団が『権力の場』を占有することも拒絶する社会、超越的な秩序の根拠が不在であり、それゆえにたえざる異議申し立てが可能な社会、それが近代民主主義革命の結果生まれる社会である」
(出典)宇野重規(2011)「再帰性とデモクラシー」宇野重規田村哲樹・山崎望『デモクラシーの擁護』ナカニシヤ出版、pp.242-243)

 民主主義のこのような不安定さは、「正しさ」の根拠をもう一つ要請した。それがナショナリズムである。つまり、「われわれの決定がなぜ正しいのか」という問いに対して、「そりゃあんた、国民が決めたからでしょ」という回答がなされたわけだ。言い換えれば、「自分たちで決めた」と言うさいの「自分たち」の範囲を決める原理としてネーション(国民)が持ちだされた。この意味で、民主主義とナショナリズムは深く結びついている。(ただし、ナショナリズムが存在するからといって民主主義的な国家であるとは限らない)

民主主義の困難

 しかし、実際にはたとえ民主主義社会であっても、というか民主主義社会であるからこそ、意見の対立は発生しやすい。なにせ「自分たち」には何百何千万、時には何億もの人間が含まれるわけなのだから、「自分たちのことを自分たちで決める」というのは容易ではない。自分がこうあるべきだと思うことと、実際に民主主義に基づいて決定されることとの間にはしばしば大きなギャップが生じる。先にも述べたように、何が「正しい」のかを民主主義的に決めることは容易ではないのだ。

 そして、それによって生じるイライラを、外部や内部の「敵」に投影することで解消しようとする衝動が生じる。つまり、「自分たちのことを自分たちで決められない」のは、内部に意見や利害の対立があるからなのではなくて、そうした「敵」が自分たちの邪魔をしているからなのだという発想が生まれてしまうのだ。こうなると、ナショナリズムは自己決定のための論理というよりも、敵を排斥するための論理になってしまう。

 しかも、グローバル化の進行が盛んに言われる現代においては、「自分たちのことを自分たちでは決められない」ことへの不満がさらに高まりやすくなっている。なにせ主権国家としては世界最強であるはずのアメリカにおいてすら、自己決定権を国際機関に奪われているという不満が渦巻いているのである。

 そして、こうした状況下では、しばしば「敵」の影響力が過剰に評価されることになる。ネット右翼の人がたまに「日本のマスゴミは在日に支配されている」などという妄想を展開するのもその典型例だ。歴史を遡れば、ナチスドイツにおいてはユダヤ人による世界支配をでっち上げるために、「ユダヤ人はいかに世界に重大な影響を及ぼしてきたのか」というあたかもユダヤ人を賛美するかのようなリストまで作成されたのだという。

 それでは、このような「敵」に対する欲求をいかにすれば緩和することができるのだろうか。一つの回答としては「自分たちのことを自分たちで決めることは不可能である」と諦めることだろう。集団的な自己決定は諦めて、ただ自分だけのサバイバルを考えるといのは一つの処世術ではある。

 しかし、それでは民主主義の根本原理を否定することになる。大人しく諦めることができる人はいい。だが、個人的な領域での自己決定が難しい人が、集団的な自己決定に希望を託すことを一概に否定することはできない。したがって必要なのは、個人の水準での話と同じく、たとえそれが自己欺瞞ではあっても、「自分たちのことは自分たちで決めることができる」という感覚を持つことである。

主体性の幻想

 実際、自分たちの主体性に関するそのような幻想こそが異なる文化の受容を容易にするという指摘もある。

「自らの中心部分を守っているという感覚あるいは錯覚を維持しながら同時に自分自身を変化させることが可能ならば、異文化に対する拒否反応は弱くなる」
(出典)小坂井敏晶(2002)『民族という虚構』東京大学出版会、p.174。

 これを敷衍すると、「自分たちのことは自分たちで決めることができる」という感覚が充実しているほど、エスニック・マイノリティや彼、彼女らが有している文化を受容することは容易だということになる。逆に、そのような感覚が乏しければ乏しいほど、彼、彼女らを排斥することで集団的な自己決定の回復がなされるはずだという偽りの願望が生まれやすくなる。

 戦後の日本では「戦争に負けて占領された」という記憶が、「自分たちのことは自分たちで決めることができる」という感覚を乏しくしている一つの要因になっているのかもしれない。実際のところ、日本の国力を考えれば、世界の多くの国々と比較して自己決定しうる領域はかなり大きいはずだが、重要なのはあくまで感覚であり実態ではない。アメリカが日本の主権に大きな影響力を及ぼしていることは否定し難いが、国際情勢から言って同国の傘の下から逃れることは難しい。それに起因する潜在的な不満を在日の人たちや近隣諸国に投影しているという可能性もありうるだろう。

 だとすれば、「自分たちのことは自分たちで決めることができる」という感覚を回復させるための手段の一つとして、憲法を変えてみるというのはありかもしれない(1)。たとえそのことが、アメリカの影響力をさらに強化することになったとしても。

 でも、いまの自民党の改憲案はやっぱり嫌だ。

脚注
(1)もちろん、実際に憲法を変えたからといって排外主義運動が収まるという保証はない。歴史上、完全なる国家主権なるものが実現した試しはないし、不満を持つ契機はいくらでもある。