読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

「ネット右翼が増えたのはリベラル左翼のせい」という主張について

 ものすごく長いので先に結論。「ネット右翼が増えたのはリベラル左翼のせい」という主張を受け入れるのなら、「リベラル左翼」は西村眞悟氏を支持すべきである。

以下、本題。

 「ネット右翼が増えたのはリベラル左翼のせい」という主張をさいきんよく見かける。これをネット右翼自身が主張していたら「俺らがグレたのはよー、先公がわりーんだよ」みたいな責任転嫁丸出しの甘えた言説になるので、おそらくはネット右翼ではない人たちがこういう主張をしているのだろう。自身の政治的立場を説明するのに他人のせいにするというのは格好悪すぎる。

 それはさておき、この主張を額面通りに受け入れた場合、いかなる理由付けになるのだろうか。ぼくのようなへなちょこリベラルにも反省する部分があるかもしれないので、とりあえずいくつかの可能性を考えてみる。


(1)学校教育への反発

 この手の話でよく出てくるのが、学校で「リベラル左翼」思想を押しつけられたので、それに対する反発が生じた、というものだ。そこでやり玉の上がるのが日教組である。

 しかし、誰が言っていたのかを失念してしまったが、日教組の組織率がかなり下がっている段階において、誰が日教組に加入していて誰がそうでないかを生徒がきちんと把握し、そのうえで日教組の思想の押しつけに嫌気がさしたと想定するのも無理がありすぎるのではなかろうか。むしろ、学校教育に対する様々な不満(これは誰にでもあるはずだ)を「左翼リベラル」という虚像にぶつけている部分が大きいのではないかと思う。

 ただ、たしかに教育現場においては「左翼リベラル」思想が強い影響力を持っていた(いる)ことは否定し難いように思う。個人的な体験談で恐縮だが、ぼくの小学生のときの担任の先生はあからさまに親ソ派だったし、中学では学校ぐるみで部落解放運動にコミットしていた。高校の現代社会の先生は授業中に皇族を人格的に中傷していたが、あれはいかがなものかと今でも思う。

 しかし、学校で「左翼リベラル」に嫌気がさしたからといって、ネット上で在日の人たちにヘイトスピーチをぶつけるようになるというのは、かなりの飛躍がある。江戸の敵を長崎で討つというか、高校で数学が嫌いになったために大学に入ってから数学専攻の学生をいじめるみたいな展開である。そんなに不満なら、新大久保ではなく母校にデモをかけるべきではなかろうか。迷惑この上ない話なので本気にされると困るが。


(2)PCへの批判

 「左翼リベラル」のせいでネット右翼が出現した理由として、時に挙げられるのがいわゆるPC(ポリティカル・コレクトネス)に基づく差別語規制への反発というものである。ある言葉を禁止されたら、もっとそれを言いたくなる心理だろうか。ぼくの4歳の息子がしょっちゅう「チ○コ」などと口走るのでそれを注意すると、嬉しがってかえって何度も繰り返したりする。それと同じというわけだ。…さすがに、この主張は、いわゆる「ネット右翼」の皆さんにも失礼なのではなかろうか。

 

(3)ダブルスタンダードへの批判

 「左翼リベラル」への批判として良く見るのが「ダブルスタンダード」だというものである。エスニック・マイノリティへの差別を批判するくせに、中韓反日デモは批判しない。中国政府によるチベットウイグルでの人権侵害には口をつぐんでいる、等々である。そのようなダブルスタンダードが「リベラル左翼」への反発を生み、ネット右翼の求心力を増していると言えるのかもしれない。


 たしかに、そうしたダブルスタンダードが存在することは否定できないように思う。アジア諸国間の友好を重視するがゆえに、他国の内政に口を突っ込みたくないという心情があるのかもしれない(中国共産党に対するシンパシーというのは今ではさすがにないと思う)。スペインで選挙によって成立した左派政権をフランコ将軍が軍事クーデターでひっくり返そうとするのを止めるため、海を渡って内戦に加わったイギリス人左翼、ジョージ・オーウェル先生を見習えという話になるのかもしれない(しかし、そのスペイン内戦でオーウェル先生は左派政権を支援するソ連に嫌気がさしてしまうのだが)。人権に国境はなく、それが侵害されているのであれば、いかなる国であれ批判すべきだ。うん、正論だ。

 実際、「人権に国境はない」という発想を本気で進めるなら、世界中で発生している人権侵害にも目を向ける必要がある。シリアでもソマリアでも深刻な人権侵害は発生している。イギリスにいると、そういうグローバルな人権擁護活動を見る機会が多い。中国の人権状況にも批判的な声がしばしば上がる。それを偽善と見ることもできるが「しない善よりする偽善」という言葉もある。

 とはいえ、日本の「左翼リベラル」によるグローバルな人権擁護の取り組みが不十分だからと言って、ネット右翼が在日の人たちにヘイトスピーチをぶつけるというのも奇妙な話である。ダブルスタンダート批判を受け入れるとすれば、日本の「左翼リベラル」がなすべきは、中国や韓国の反日デモで生じる日本人への差別を批判し、中国やその他の国々での人権状況の改善を訴えるとともに、日本でのエスニック・マイノリティへの差別を批判することであるはずである。日本の「左翼リベラル」がそういう方向に向かったとして、日本国内でのヘイトスピーチが終息するとはとても思えないのだが。

(4)対外的融和の追求への批判
 (3)とも関連するのだが、「左翼リベラル」は中韓との融和を追求するのがケシカランという見方もあるだろう。それら「反日国家」とは断交、せいぜい政冷経熱あたりが妥当なのであって、積極的に仲良くする必要はない。にもかかわらず、「左翼リベラル」は国際親善のようなお花畑思想を生きており、だから現行憲法のような現実離れしたものを支持しているのだ云々、みたいな。

 もっと言えば、マルクスの「労働者に祖国なし」という言葉に示されるように、共産主義はインターナショナルを標榜しており、ナショナリズム的なものと左翼思想は相容れないのだという見方もありうる。

 しかし、「労働者に祖国なし」という言葉は、労働者はブルジョワ(お金持ち)に祖国を奪われている状況なのであって、労働者は祖国を奪い返すべきなのだという解釈がなされることも多い。

 実際、戦後しばらくの間、「民族」という言葉を盛んに用いていたのはむしろ左翼側だったというのはしばしば指摘されるところである。60年安保当時の写真では「日本人なら安保に反対しろ」といった標語を見ることができるし、国会から排除された社会党議員団が岸内閣を「民族の敵、国を売る犬ども」と罵る歌を歌っていたこともよく知られている。

 したがって、左翼思想とナショナリズムはけっして結合しえないわけではない。むしろ、ナショナリズムの強みは、他の思想と違って一貫した教義がないので、他の様々な思想と結合できる点にある。したがって、こうした指摘を受け入れるならば、「リベラル左翼」は対外的には強硬な姿勢を取るナショナリズム路線、国内的には格差の是正や貧困の抑制に取り組めという話になるのだろう。従軍慰安婦問題への取り組みなど論外であり、永住外国人には帰国を促し、核武装まで視野に入れた憲法改正を支持しろという話になるのかもしれない。言い換えれば、「日本人にとってだけの平等」を追求すればよいということである。

 だが、対外的には強硬な姿勢を示しつつ、国内的には平等を追求するというこのような立場は、どうにも不安を誘う。戦前の大政翼賛会的なものを感じざるをえない。対外的な緊張関係を強調しつつ、国内で平等を推進するという思想は、容易に自由の抑圧へと向かう。国内での一致団結を保つために、相互監視が強化され、スタンダードから外れた行為は容赦のない批判の対象となるからだ。戦前において最も憎悪されたのは共産主義者ではなく自由主義者だったというのはよく言われる話である。そうなると、「左翼」には良いかもしれないが「リベラル」にはつらい話になってくる。


(5)受け皿としての役割不足

 (4)とも関連して、「ネット右翼が増えたのはリベラル左翼のせい」という主張の背後にあるのは、「リベラル左翼」が左翼として本来の役割を果たしてこなかったという嘆きがあるのかもしれない。

 経済格差の進行や非正規雇用の問題、ワーキングプアブラック企業の跋扈など、本来であれば左翼が批判すべき問題は山のようにある。実際、「ネット右翼」と呼ばれる層でも、これらの問題で企業を批判する人は多く、富の再分配を重視するという左翼本来の定義からすれば彼らも実は左翼なのだと言いうる。

 ところが、「リベラル左翼」は左翼本来のそうした方向性を放棄し、歴史認識論争のような(彼らからすれば)どうでも良い論点に入り込んでいってしまった*1。加えて、本来は労働者の権利を擁護すべき労組にしても正社員の既得権益を守るだけの存在になってしまっており、もっとも苦しんでいる人たちの味方たり得ていない。したがって、「リベラル左翼」が左翼としての役割をきちんと果たしていれば、いまの社会に不満を持つネット右翼の受け皿として機能しえたはずだ、という話になりうる。

 もちろん、2000年代に入り、格差や貧困が再びクローズアップされるなかで、「リベラル左翼」は再びそれらの問題に目を向けるようになっている。しかし、『朝日新聞』や『毎日新聞』といった「リベラル」と称されるメディアは、経済面については相変わらず「小さな政府路線」を支持していると思しき面が多々ある。なので、こういう観点からすれば、「リベラル左翼は本来の左翼に戻って格差や貧困の問題をもっと真面目に追求しろ」という話になるのかもしれない。

(6)まとめ
 というわけで、いろいろ考えた結果として、「ネット右翼の出現はリベラル左翼のせい」という主張を突き詰めると、「リベラル左翼」には対外的には強硬路線・排外主義路線を支持しつつ、格差や貧困の問題に真剣に取り組むということが求められているという結論へと至る。
 こうした政治的立場はかつての民社党を彷彿とさせる。社会党から袂を分かって成立した民社党は、福祉国家建設を訴える一方で、反共産主義のもとで有事法制の整備を目指していた(改憲にまでは踏み込まなかったが)。
 そして、民社党出身の現役議員といえば、言わずと知れた西村眞悟氏、松原仁氏、渡辺周氏らである。しかし、彼らを支持しろというのは「リベラル左翼」にはかなり難しいのではなかろうか。ハードル高すぎじゃないですか、それ?

 

 ところで、これまで延々と書いてきて今さらの話ではあるのだが、「リベラル左翼」っていったい誰のことなんだろう?


*1「リベラル左翼」が経済的な問題から離れていったのは、もちろん時代的な背景がある。言うまでもなく、貧困の撲滅や経済格差の是正は長きにわたって左翼にとっての重要な政治的課題だった。ところが、高度経済成長を経て「一億総中流」の時代がやってくると、実際には貧困問題は存続していたとはいえ、それらの目標は世間的な求心力を持ち得なくなっていく。そこで「リベラル左翼」の一部は管理社会批判へと流れ、他の人たちは差別問題へと目を向けていく。女性差別や民族差別などが主要なテーマとして浮上する。さらに、国民国家批判がさかんに展開され、ナショナリズムを批判する声も強まる。言わば、「再分配」から「承認」へと関心が移行していったのだ。

もっとも、そうした動きは日本に限った話ではなく、アメリカでもリチャード・ローティは承認の問題を重視する左翼を「文化左翼」として批判し、再分配を重視する必要性を訴えている。