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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

お父さんが語る売春

社会

 広末涼子主演の映画に『バブルへGO!』(2007年)という作品がある。広末が演じる主人公がバブル時代の日本にタイムスリップし、そこで日本経済をめぐる大きな陰謀に巻き込まれる…というストーリーである。

 タイムスリップした先の時代で、広末は若き日の父親(阿部寛)と遭遇する。当初、広末が未来から来た自分の娘だと知らない阿部は、彼女を口説こうとする。ところが、広末が自分の娘だと知った瞬間、阿部は彼女に純潔を説くのである。

 このような阿部の態度は、はっきり言って偽善的である(だからこそ笑いを誘う)。要するに「世間一般の女性は自分自身が遊べるように性的にオープンであったほうが良い。ただし自分の娘は除く」ということなのだから。

 しかし、ここまであからさまではなくとも、こうしたダブルスタンダードは様々なところに見出されるし、消滅させることはたぶん無理だ。

 さて、ここでようやく本題に入る。テーマは売春である。ネット上では内田樹さんのこのエントリが注目を集めている。かなり長い文章ではあるが、ポイントはやはり以下の結論部分だろう。

「売春婦は保護すべきだ」という主張と、「売春はよくない」という考えをどうやって整合させるのかといきり立つ人がいるかも知れない。だが、繰り返し言うように、現実が整合的でない以上、それについて語る理説が整合的である必要はない。
「すでに」売春を業としている人々に対してはその人権の保護を、「これから」売春を業としようとしている人に対しては「やめときなさい」と忠告すること、 それがこれまで市井の賢者たちがこの問題に対して取ってきた「どっちつかず」の態度であり、私は改めてこの「常識」に与するのである。

 ぼくはこの結論に深く共感する。というのも、ぼくはこれを「買春するつもりはなく、売春に従事する人を差別するつもりもないけど、自分の娘が売春すると言ったら全力で止めるお父さん」の文章として読んだからだ。そこで以下では、そのような観点から売春をめぐる倫理について語ってみたい。

 子育て中の親に対して「将来、もしあなたの子どもが売春をしたいと言った場合、あなたは賛成しますか、反対しますか?」という質問をしてみたとしよう。実際にやってみたわけではないので推測でしかないが、おそらくは圧倒的多数の回答者が「反対する」と回答するだろう。

 反対する理由は何か。売春業がはらむ様々なリスク(病気、暴行、収奪)等々の理由もあるだろうが、基本的にはやはり生理的嫌悪感が大きいだろう。自分の子どもが将来、売春業に従事するというのは、相当に気の滅入る未来像だ。そういう「感覚」を消滅させるには、強制収容所にでも放り込んで徹底した思想改造でもしない限り、たぶん無理だ。

 しかし、だからと言って「売春は卑しい職業である→売春に従事している人間は卑しい人間である→したがって差別してよい」という論法を採用することには抵抗を覚える。慰安婦をめぐる昨今の議論でも、こうした論法はしばしば顔を見せている。

 現実に売春業が存在し、それを一気になくすことは現実的に見て難しい以上、実際に売春に従事している人たちの権利を保障することは非常に重要な課題だとぼくも思う。内田さんの文章は、こういうジレンマに正面から挑んだものであり、評価に値するだろう。

 だが、この内田さんの主張に対して、id:font-daさんはこのエントリで次のように述べている。

「つまり、何もしないのである。これまでどおり、金を出してセックスワーカーからサービスを受けるが、セックスワーカーへの差別を放置し続けるのが「市井の賢者」の態度らしい。要するに、マジョリティはおいしいとこだけいただきます、という宣言である。当たり前だが「それでは困る」から、みんな議論しているのだ。最初から、「このままでいい」というなら、何も言わないのと同じことである。なら、黙っていればいいのに、と私は思う。」

 id:font-daさんのこの解釈は悪意が過ぎると思う。そもそも、内田さんの文章は『岩波応用倫理学講義』(金井淑子編、岩波書店、2003年)のために書かれたものであり、売春の制度がいかにあるべきかを論じたものではない。むしろ、売春をどう考えるべきかという立ち位置についての文章なのだから、制度論に踏み込まないのは当たり前である。

 その点は措くとしても、やはりid:font-daさんは、内田さんが向き合おうとしたジレンマなど存在しないかのごとくに論陣を張っている。しかし、このジレンマについてきちんと考えないままに「性の自己決定」を称揚したところで、このエントリの冒頭で紹介した類の「世間一般の女性は性の自己決定に基いて売春すべきである、ヒャッハー!!ただし、自分の娘は除く」という偽善を量産するのが関の山である。あるいは「性の自己決定なんだから、何が起きようか自己責任だろ」という自己責任論を呼び起こしかねない。このあたり、リバタリアン的な匂いがするのも気になる。

 さらに言えば、「何もしない」というのも悪意ある解釈だろう。実際のところ、内田さんが売春業を営んでいる人たちの人権擁護のためにロビー活動をしているなどということはたぶんない(と思う)。しかし、世の中には「まったく何もしない」ことと「活発に政治・言論活動をする」こと二分法しかないというのも、やはり極端すぎる話だろう。

 たとえば、父親として子どもに売春について語る場面について考えてみよう。「売春なんてのは卑しい職業なんだから、そういう卑しい人間になってはダメだ」「売春をしているような人間は好きでやっているんだから、何が起きても別に問題ではない」と語るのか。それとも「君には売春はしてほしくないが、売春をしている人を見下したり、差別したりしてはいけない」「売春の背景には往々にして貧困や虐待が存在しており、全員が好んでそれをしているわけではない」と語るのか。内田さんの文章は、たとえ売春を全面的に肯定する立場には立たずとも、売春に従事する人たちへの抑圧を批判するための足場にすることができる。

 子育てのそうしたミクロな実践などには何の価値もないのかもしれない。しかし、そうした私的領域での実践を公的な領域と切り離すことはできないということは、id:font-daさんが依拠するフェミニズムの重要な発見だったはずである。