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擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

躾と虐待

 いまからもう25年以上前の話。

 当時、大阪の中学生だったぼくはその日、学校の一泊移住に参加した。どこかのキャンプ場に学年全体で一泊する催しだ。

 ぼくのクラスの男子生徒は二つのグループに分かれ、それぞれ別のテントで寝ることになっていた。なにせ当時の中学校である。管理は厳しい。消灯後はテントから一切出てはいけないことになっていた。生徒たちが勝手に出歩かないよう、テントの周囲で教師たちがずっと見張りをしていた。

 ところが、消灯直前にトイレに行ったにもかかわらず、ぼくは消灯後すぐにまたトイレに行きたくなってしまった。そこで、テントの入り口から顔だけ出し、見回りの教員に「あの、トイレに行きたいんですけど」と尋ねた。

 「消灯前に行けへんかったんか」

 「行きました。けど、また行きたいんです」

 「お前は家で1時間に1回、トイレに行くんか!」

 そう言うと教員はぼくの頭を叩き、トイレに行くことを許可した。コーヒーなどを飲むとトイレがやたらと近くなるぼくは、いまでもこの教員の対応は理不尽だと思う。30分に1回行くこともありますが何か?みたいな。

 とはいえ、それはその夜の惨劇の序曲ですらなかった。

 急いでトイレを済ませ、テントに戻る。テントのなかではクラスメイトと下らない話で盛り上がる。そのテントには比較的、地味な生徒たちが集まっており、ぼくとしてはそれなりに心地良い。

 しかし、地味な生徒ばかりが集まっていることには理由があった。じつは、同じクラスのもう一つ別のテントとメンバーを入れ替えていたのだ。決められていた割り当てではなく、気の合う者同士、ヤンチャ系の生徒と地味系の生徒、お互いに棲み分けをしていた。

 ところが、どういう理由かは覚えていないか、真夜中になってその棲み分けが教員に発覚した。ぼくのクラスの男子は全員、テントから引っ張りだされ、一列に整列させられる。ぼくは、先ほど頭を叩かれた教員からキックをかまされ、整列を促された。

 首謀者は誰かという尋問が鉄拳を伴いながら始まる。ぼくの頭にはもう恐怖しかない。そのうち、教員たちが生徒のテントに入り、ゴソゴソやり始める。やがて、持ってきてはいけない整髪料の類が発見され、制裁はさらに加熱する。

 ぼくのクラスの担任は女性だったので暴力には加担しなかった。しかし、体罰要員である体育教員を中心としてクラスのメンバーをボコボコにしていく。ぼくはそれほどは殴られなかったが、クラスの中心メンバーたちがひどい鼻血を出しているのが目に入った。

 たしかに、管理する側からすればテントのメンバーが入れ替わっていることは問題だろう。だが、だからと言って生徒の顔が腫れ上がり、鼻血を出すまで殴打することが果たして妥当な処分なのかはやはり疑問に思う。

 その後もぼくの中学で体罰は続いた。しかし、生徒たちもただ殴られているだけではない。卒業を間近に控えたある日、一部の生徒たちが腹いせに教員の車のボンネットをひどく傷つけるという事件が発生した。

 その生徒たちは「生活指導室」という部屋に連れ込まれた。一度入ったらただでは出て来られないという恐るべき噂のある部屋だ(幸いにして、ぼくは一度も入らずに済んだ)。生活指導室ではひどい暴力が行われ、やがて生徒の一人がたしか肋骨だかの骨を折った。

 この事件は新聞沙汰になった。朝礼では「記者に話を聞かれても、何も答えないように」という緘口令が敷かれた。暴行を行ったとされる教員はぼくらが卒業するまでは普通に学校にいた。その後、どうなったのかは知らない。

 これは、今からもう四半世紀も前の話なので、いまの学校の状況を考えるうえでは全く参考にならないだろう。ただ、この手の話を読むと、あのときの暴力は果たして「深い愛に根ざした体罰」だったのかと考えてしまう。

 そもそも、体罰を肯定する人たちには「躾としての体罰」と「虐待としての体罰」との間に明確な境界が引けると考えている節がある。しかし、親になってみて改めて思うことは、「躾」と「虐待」とのボーダーラインはそんなに綺麗には引けないんじゃないか、ということだ。

 ぼくも子どもに手を上げてしまうことはある。もちろん、手加減はするし、本気で殴ったりはしない。ただ、時々、自分のなかにかなり破壊的な衝動があることに気づく。それは、たんに子どもがやらかしたことへの怒りだけではなく、その他もろもろのイライラが積み重なって生まれる衝動だ。自分に余裕があるうちはそうした衝動をコントロールすることもできるが、もっと極限的な状況においても常にそうだと言い切れる人は嘘つきか、自分自身を騙していると思う。

 虐待の挙句に子どもを殺してしまった親は、たいてい「躾のつもりだった」と供述する。普通に考えれば「そんなわけあるか!」と言いたくなるような「躾」の中身だったりするわけで、第三者には言い逃れにしか聞こえない。しかし、それは案外、当人たちからすれば正直な気持ちなのかもしれない。

 主観的には躾のつもりで、自分は躾と虐待の違いなど分かっていると信じている人が、第三者から見れば途方もない虐待に手を染める。そういう可能性がかなりあるんじゃないだろうか。昨今、相次いで発覚している高校での体罰にしても、当の教員たちはあくまで教育の一環としてそれをしているに違いない。深夜のキャンプ場で、生徒たちの顔が腫れ上がり、鼻血が出るまで殴り続けた教員たちも。

 だとすれば、虐待を防ぐためには、躾と虐待のあいだの境界の曖昧さを認識するよりほかはないのではないか。躾と虐待の区別など自分には自明であると語る人は、その自信を捨てたたほうがよい。自己の不完全さに対する認識なくしては、自らの破壊衝動を押し留めることなどできはしない。

 だから、そうした区別を自明のものとする体罰肯定論は、やがて人を殺すとぼくは思う。