業績/責任のありか その2
前回は「社会のおかげ」と「本人のおかげ」のバランスをとることが難しいという話をした。でも、それは何故なんだろう?それを語るために、唐突に話を変えてみる。
世の中には様々な問題がある。政治家や官僚はなぜそんな問題が起きるのか、どうやったらそれを解決できるのかに日々取り組んでいる。そのためには様々な知識が必要で、一般の人たちがそうした知識を得ることは難しい。
ところが、世の多くの人たちは、世の中の問題についてわりとはっきりした意見を持っていることが少なくない。詳細な知識がなくても、雇用、治安、教育、社会保障、景気、行財政改革、国際関係などについて、それなりの意見表明が可能だ。
古典的な説明では、それは「イデオロギー」あるいは「党派性」のおかげだ、とされてきた。つまり、詳細な知識がなくとも、イデオロギーや支持政党の方針に沿って政策の是非を判断できる、というわけだ。
それにたいして、シャントー・アイエンガーは、人びとは「責任の帰属」によって政策の是非を判断しているのではないかと言う。つまり、政策の細かい部分は分からないが、とりあえず「誰のせいか」を判断して、その政策について判断しているというのだ。(S. Iyengar (1991) Is Anyone Responsible?, The University of Chicago Press)
たとえば、失業問題。失業者への給付を厚くしようとする政策に対して、失業が「政府の景気対策の失敗」を原因と考える人は賛成する可能性が高くなる。逆に失業を「本人のせい」と考える人はそれに反対する可能性が高くなるだろう。
もう一つ、子どもの学力低下についても考えてみよう。(そもそも子どもの学力は本当に低下しているのか?という問題はあるわけだが、それは措く)
教員の人事評価を厳格にしようとする政策に対して、学力低下を「教員の質が低いせい」と考える人は賛成する傾向が強くなる。他方、「教員の労働環境の劣悪さ→教育行政の失敗」を原因と考える人は、反対する可能性が高くなるだろう。
前回の問題で言えば、自分自身の学力を「本人のおかげ」と考える人は、学力の平等な底上げを図るような政策には冷淡になる可能性が高い。逆に、「社会(環境)のおかげ」と考える人は、よほどのエゴイストでない限り、そうした政策には肯定的になりがちなはずだ。
こうした説明を受け入れるなら、「誰に責任(業績)を帰するのか」は高度に政治的な問題だということになる。
政治問題化してしまうと、「社会(政策)のせい」か「本人(当事者)のせい」かを冷静に判断する、なんてことは不可能になる。そこではプロパガンダが入り乱れて、責任のなすりつけあいが始まる。日本の教育問題をすべて日教組に押しつけてしまうような言説が典型的だろう。
要するに、どこに「責任(業績)を帰するのか」というのは、学問的に決定できるような話ではなく、政治的な闘争のなかで決定される問題なのだ。
さらに言えば、自分の「良い業績」に関しては、「環境のおかげ」ではなく「本人のおかげ」にしたいという欲望がある。他人の成し遂げた良い業績については「本人のおかげ」ではなく「環境のおかげ」にしたいという欲望がある。経済的に成功した在日コリアンを見て、「在日特権」とやらを持ち出すアホな言説がそれにあたる。
それとは対照的に、自分が引き起こした「悪い問題」については、その責任を「環境のせい」にしたいという欲望が存在する。他人の引き起こした「悪い問題」については「本人のせい」にしておきたいという欲望もまた存在する。たとえば、若者の劣悪な雇用状況に対して、すぐに自己責任を持ちだしてしまう人は少なくない。
ただ、後者について付け加えるなら、ある問題を「本人のせい」にすることができないと知りつつも、あえて「本人のせい」にしておこうという誘因もまた存在するのではないかと思う。
というのも、社会の側の問題にしてしまうと、政策的な対応が必要であることを認めねばならない。しかし、財政的な理由などによって根本的な対応を取ることができない。だからこそ、本人に責任はないことを知りつつ、あえて本人のせいにすることで、安上がりな政策を選択するという誘引が存在するのだ。
まあ、これを突き詰めすぎると陰謀論に陥るんだけれども。