擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

業績/責任のありか その1

 今から20年近く前の話。その日、僕は成人式に出席するため、地元に戻っていた。成人式自体は可もなく不可もなく終わり、中学時代の知人と会場の外に出た。

 会場の外には再会を懐かしむ声の渦。僕も旧交を温めていたが、なかには楽しくない再会もある。昔からソリの合わなかった奴が僕に向かって言う。「いいよな、東京の大学に行けるやつは」

 その言葉に僕は腹を立てた。僕はたしかに東京の私学には進学していたものの、そこに至るまでにはストレスフルな浪人生活があり、自宅で愛用していた半纏の袖が擦り切れるまで勉強したのだ。

 しかし、今にして思えば、彼の言葉には真実があった。高校時代にほとんど勉強しなかったツケを予備校生活で払うことができ、東京の私学に進学させてもらえる環境が僕には確かにあったからだ。はっきり言えば、今、僕が研究者として何とかやっていけているのも、生まれついた境遇に拠るところが極めて大きい。

 ただ、大学進学直後の僕がそれを認めることは難しかったはずだ。来る日も来る日も予備校と図書館を往復し、不毛な暗記作業に精を出す生活を経たあとで、「お前の今の境遇はすべて環境のおかげだ」などと言われると、さすがに反発したくなる。

 ここで無理やり一般化を試みると、人は自分の業績について「環境のおかげ」を認めることを嫌うことが多い。逆に、他人の業績については「環境のおかげ」を持ち出すことを好む。ここで紹介したいのが、アファーマティブ・アクションに反対する黒人階層に関する話だ。

 アファーマティブ・アクションとは、要するに歴史的・社会的な要因によって不利な立場に置かれてきた人たちのために、アメリカで導入された制度のことだ。典型的には大学入試などで、マイノリティの成績に下駄をはかせ、優先的に入学させることで社会的不平等の是正を図る。

 実際、このアファーマティブ・アクションのおかげで少なからぬ黒人層に中産階級への道が開かれることになった。この点に関して、少し古いがジグムント・バウマンの著作から引用しておこう。

 

「黒人家庭の三分の一が、今では全米の平均(現在3万5千ドル)かそれ以上の年収を得ているが、ほんの四半世紀前、その割合は4分の1以下であった。黒人家庭の5分の1以上が、アメリカの豊かさの指標である5万ドル以上の収入を得ている。多数の黒人弁護士、医師、企業経営者が生まれており、政治的な影響力を行使したり、自ら発言したりしている。こうしたことはすべて、アファーマティヴ・アクションなしに起こりえただろうか?最近、ニューヨーク大学ロースクールが行った調査によると、ロースクールの学生となり、アメリカでもっとも有利な職業につく機会をえた3435名の黒人のうち、自分の試験結果の力だけで入学を果たしたのは687名にすぎなかった。」(出典)ジグムント・バウマン、伊藤茂訳(1998=2008)『新しい貧困』青土社、pp.115-116)

 

 ところが、そうした人びとの間からアファーマティブ・アクションに反対する声が上がるようになる。それは、アファーマティブ・アクションが存続する限り、彼らの経済的成功は自身の努力の成果ではなく、「政策(環境)のおかげ」ということになってしまうからだ。

 もちろん、制度的な支援はあったにせよ、彼らの階層移動が彼ら自身の努力によるものであったことは否定できない。だが、周囲の目は違う。先にも述べたように、人は他人の業績については「環境のおかげ」にしたがる。いくら努力しても「あいつのいまの地位はアファーマティブ・アクションのおかげだ」などと言われ続けたら、「そんな制度はもうやめてくれ」と言いたくもなるだろう。

 実際、こういう例はアファーマティブ・アクションに限った話ではない。たとえば、アジア系の移民には勤勉に働く文化があると言われる。実際、学校などでもアジア系移民の子弟が優秀な成績を収めることは少なくないようだ。

 しかし、こうした文化的要因を過剰に言い募ると、アジア系移民自身の努力を卑しめることになる、と盛山和夫さんは指摘する(盛山和夫(2006)『リベラリズムとは何か』勁草書房、p.171)。

 つまり、「アジア系移民には勤勉な文化がある」と言われてしまうと、いくら頑張ったところで「環境のおかげ」にされてしまう。アジア系だろうが何だろうが努力はそれなりに辛いわけで、いくら社会学的に正しかろうと「努力できるのも環境のおかげだ」などと言われると、さすがに嫌な気持ちがするはずだ。

 結論を言えば、いくら環境に恵まれていようとも、それをすべて「環境のおかげ」と言い切ってしまうことには問題がある。実際、恵まれていても努力できない人は掃いて捨てるほどいる。他方、すべてを「本人のおかげ」にしてしまうと、環境的要因を無視し、結果として様々な不平等を温存することになってしまう。

 なので、「環境のおかげ」と「本人のおかげ」とのバランスをとりながら業績を評価していかざるをえない。ところが、このバランスをとることはとても難しい。

 それはなぜか?というのが次回のテーマなのだった。