擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

歴史を取り戻すためには

 「歴史学者から歴史を取り戻そう」という主張が話題になっている。以前から一部でそういう主張は行われてきたわけだが、またしても注目を集めているようだ。

 ぼくは歴史学をちゃんと学んだわけではない。だが、過去の事象をテーマにした論文を書くこともあり、おこがましいことは承知のうえで、思うところを少し書いておきたい。

いかにして研究を始めるのか

 研究者といわれる人の多くは大学院で研究の手法を学び、そこから専門家としてのキャリアを積んでいく。大学院入学者のかなりの部分は、壮大なテーマを掲げて入学してくる。それ自体は決して悪いことではないが(やりたいことがはっきりしない方が指導する側としては困る)、なにせ壮大すぎる。「このテーマで書こうとすれば、少なくとも10年はかかるんじゃない?」という話になる。だが通常、修士論文は2年で書き上げねばならない。

 研究を進めるうえでもう一つ重要なのは、「オリジナリティ」が必要だという点だ。博士課程まで進むのであれば、修士論文の段階ではそれほどオリジナリティにこだわる必要はないと個人的には思うのだが、それでも既存研究と比べてまったく目新しさがないというのはさすがに困る。

 そこで用いられるのが、研究のフォーカスを絞ることで、必要となる作業量を減らしつつ、オリジナリティを出すという方法だ(ぼくの師匠はよく「一点突破全面展開」と言っていた)。最初から壮大なプランをぶち上げて、いきなり大作を書こうとするのではなく、まずは既存研究の壁が比較的薄いところを探し、その部分を集中的に研究するというやり方である。

 こういった方法を「重箱の隅をつつく」ような研究と揶揄する向きもあるが、細かいポイントに集中する研究を重ねていくことで、やがては点が線になり、緻密でありながらもスケールの大きな研究へと発展していく…(といいな、と思う)。

 ともあれ、研究において重要なのは、既存研究の壁をどうやって打ち破るかということだ。分野によっては蓄積された研究を読むだけで年単位の時間がかかるほどに既存研究の壁が分厚い領域もある。しかし、研究者を目指すのであれば、この部分をおろそかにはできない。オリジナリティを出すには「これまでに何が明らかにされたのか」を知っておくことが必要不可欠だからだ(そうでなければ、いわゆる「車輪の再発明」になってしまう)。

「既存研究からの自由」がもたらす逆説

 とはいえ、学問的な方法に馴染みの薄い人からみると、いちばんイライラするのがこの部分ではないかと思う。自分が論じたいテーマはあるのに、まずはそれについて書かれた多数の論文や著作を読まねばならないというのは非常にまどろっこしい。そこから、それらを読まずに済ますための方法に対するニーズが生まれる。

 そこで出てくるのが、「既存研究は読むに値しない」という発想だ。それによれば、既存の「研究」ははじめから歪んでいる。「自称研究者」は頭がものすごく悪いか、邪悪なイデオロギーに毒されている。だとすれば、既存研究など読まないほうがいい。むしろ、才能があり、学問などというものに汚されていない自分のほうが「真実」へと容易に到達できる。既存研究を無視するのだから、オリジナリティについても気にしなくていい。

 しかし、自分では読んでもいない研究を「読まなくてもいい」と判断するためには、そう言ってくれる別の誰かの言葉を鵜呑みにする必要がある。すなわち、この発想は既存研究を読むという作業からは解き放ってくれる代わりに、別の誰かへの服従をもたらすのだ。「歴史学者から歴史を取り戻そう」という発想は、権威への反逆であるように見せかけながら、実際には別の「権威」へと歴史を譲り渡してしまうことに帰結してしまう。

歴史を取り戻すためには

 もちろん、既存研究に触れたくないより重要な理由として、「読みたいことを書いてくれない/読みたくないことが書いてある」ということがあるだろう。厳密な文章を書こうとすれば、まどろっこしくなったり、奥歯に物が挟まったような言い方になりがちだし、スパッと割り切るような断定も難しくなる。歴史の影の部分にまで光を当ててしまうかもしれない。対して、そういった予防線を張る必要性がないのであれば、「歴史の真実」を簡単に、大胆に、時に感動的に語ることができる。

 とはいえ、このように二項対立的に論じてしまうと、誤解をもたらすかもしれない。あたかも研究者が書いたものが面白くなく、それを否定する書き手が書いたものは面白いという図式を描いてしまいかねないからだ。

 たしかに研究者の書いたものには、小説的な盛り上がりは乏しいかもしれない。けれども、めちゃくちゃに面白いものを書く研究者はたくさんいるし、自分がもともと持っていたイメージに別の角度から光を当ててくれるような文章に出くわしたときには感動しさえする。ただ悲しいかな、そういった地道な面白さは、センセーショナルなマーケティング手法を前にすると、どうしても霞んでしまいがちだ。

 しかし、せっかく歴史に興味があるのに、誰かの言葉に乗せられて「学者の書いたものなど読むに値しない」と考えるのであれば、それはあまりにもったいない。読めば得られるはずの知識が奪われているのと同じだからだ。だから、いま必要なのは、そのような知識の簒奪と戦うことなのではないだろうか。

 それがたぶん、本当の意味で、歴史を取り戻すことなのではないかと思う。

表現の差別性を告発すること

 いまも昔も、ネットでのコミュニケーションでは諍いが絶えない。昨日はあちらで、今日はこちらで、といった感じで、いろいろなところで火の手が上がる。

 それらの「論争」を眺めていると、対立している双方が強い被害者意識を持っていることが少なくない。とりわけそれが「差別批判 vs 表現の自由の擁護」という構図を取ると、その傾向はより一層強まる。

 一方には、差別によって苦しんでいたり、その苦しみを引き受けることでメディア表現のあり方を問題視する人たちが存在する。他方には、そうした差別批判によって自分たちが享受してきた表現の自由が脅かされていると感じる人たちがいる。「相手によって自分たちの権利が脅かされている」と感じる人びと同士が対立する構図が生まれてしまっているように思える。

 そのような構図のもとでは、「潰すか、潰されるか」という発想にしかならず、意見の違いを認め合ったり、歩み寄りが生じたりすることはまずない。これは大変にしんどい状況だ。

 こうした「差別批判 vs 表現の自由の擁護」という対立が生じやすい理由の一つは、ぱっと見、差別だとは分かりづらい表現が差別として批判されることにあると考えられる。言い換えるなら、表現とすら呼べない、誰がどう見ても差別だという暴力的発話に関しては、そういった論争は生じづらい(もちろん、「○○人を殺せ」という発話まで表現の自由として擁護する人も世の中にはいるので、ゼロになるわけではない)。

 しかし、世の中には明確な差別意識に基づかなくても、偏見や差別に寄与してしまう表現はたしかに存在する。ここでは例として、マーティン・ギレンズ『アメリカ人はなぜ福祉が嫌いか』(シカゴ大学出版)という著作を取り上げたい。1999年の著作なので、今とはかなり状況が変わっている可能性もあるが、参考にはなるだろう。

 この著作のなかでギレンズは、米国人の多数が福祉国家の原理には賛成しているにもかかわらず、なぜ福祉の削減に賛成するのかを明らかにしようとする。そこで彼が提起するのが、米国人は「福祉を受け取っているのはほとんどが黒人だ」と考えているからではないか、という仮説だ。

 ギレンズがこの著作を出版した当時、貧困状態にある全ての米国人のなかで黒人が占める割合は27%だった。にもかかわらず、意識調査において「この国の全ての貧しい人びとのなかで、黒人が占める割合はどれぐらいだと思いますか」という問いに対する回答の中央値は50%だったというのだ。

 さらに、黒人は勤勉だと考える人のなかで福祉削減に賛成するのが35%であるのに対し、黒人が怠惰だと考える人でそれに賛成するのは63%に達する。要するに、福祉全般には賛成でも、「怠け者の黒人」には福祉を渡したくないと考えるがゆえに、福祉削減が支持されるというのだ。

 それではなぜ、「貧しい人=黒人」という現実からは乖離したイメージが生まれてしまったのだろうか?ギレンズは歴史を遡り、そうしたイメージが生まれたのが1960年代以降だとしたうえで、マスメディアが大きな役割を果たしたと主張する。

 ギレンズは貧困に関する雑誌記事やテレビ番組を検証し、1960年代後半以降に黒人が登場する割合が急上昇したことや、分析対象の雑誌で取り上げられた貧困者の57%が黒人であり、テレビニュースになるとその割合がさらに高くなること、貧困者に好意的な報道では白人が取り上げられる傾向が強いのに対して、否定的な報道では黒人がより多く取り上げられる傾向にあることなどを明らかにしていく。

 加えて、実際に雑誌制作に携わっている人びとにインタビュー調査を行い、彼ら、彼女らの多くも貧困者に占める黒人の割合を過剰に見積もっているのみならず、ほぼ無自覚的に偏見を再生産していることを明らかにしている(自分たちが作っている雑誌に登場する貧困層の6割が黒人だという指摘を受けて驚愕したのだという)。

 ギレンズの著作はこれ以外にも目が覚めるような指摘をたくさん行っているが、ここでその内容を長々と紹介したのはそれが「完全に正しい」からではない。そうではなく、メディア表現における差別やそれが生み出す問題を論じるために、ここまでの手間暇をかけて調査を行い、分析を行っているからだ。

 メディア表現が差別性をはらむ可能性はたしかに否定できない。その一方で、多くのメディア表現はクリエイターが心血を注いで作り上げるものであり、それゆえにファンはそれを愛好する。なんだかはっきりしない理由で「それは差別だ」として切り捨てられているように見えると腹立たしく思えるのも理解できる。(実際には部分的に批判されているのに、全否定されていると解釈されるケースも非常に多いと思われる)

 だからこそ、研究者なのであれば、ある表現の差別性を告発するにあたってはその歴史的起源を論じたり、数量的なデータ分析によって、根拠ある形でそれを提示するべきではないだろうか。実際、多くの研究者はそうしているのであり、論文検索サイトJ-STAGEでたとえば「ジェンダー 表象」で検索すれば、そうした論文を数多く見つけることができる。

 もちろん、研究には時間がかかる。いま話題のトピックについて研究を始めたとしても、成果が形になるのは早くて数ヶ月、遅ければ数年先になる。そのころにはとっくにそんなトピックは忘れ去られてしまい、何のためにそれをやったのか分からなくなるという可能性すらある。

 ただそれでも、明らかに差別的な内容であればまだしも、意見の分かれる表現に関してその差別性を指摘するのであれば、それぐらいの準備が必要になるのではないだろうか。

 それがないまま、あるコンテンツを指して「差別だ」と言い切ることは、結局のところ研究の党派性ばかりを際立たせることになり、その説得力を失わせてしまうことをぼくは危惧する。

 なんか壮大なブーメランになりそうなエントリではあるのだけれども。

オリンピックとナショナリズム

「羽生選手すごい」と「日本人すごい」

 オリンピックでたびたび話題になるのが、ナショナリズムの問題だ。国家の代表同士が競い合うのだから、応援をしているだけでも他国にたいするライバル意識は高まる。「国民」としての意識も持ちやすくなる。

 先日、ジャーナリストの江川紹子さんによる以下のツイートが話題になった。

 現時点で6000以上の「いいね」がつく一方、ぶら下がっているリプライを見ると批判的なコメントがすこぶる多い。

 まず言っておくと、ぼくのなかには江川さんのツイートに共感する部分がある。

 「羽生選手すごい、宇野選手すごい」から「日本人すごい」への飛躍からは、自分の手柄でもないことを横取りするような、そんな感じもするからだ。こういった個人主義的な倫理観は、それはそれで尊重されるべきと考える。

 実際、「アイツは俺が育てた」的な、何もしてないのに他人の手柄を自分のものにして威張る態度というのは傍で見ていて気持ちよいものではない。もし仮に「日本人すごい」から他国をバカにしたり、外国籍の人を差別するような態度をとる人がいたら、「お前がいったい何を成し遂げたというのだ」と、ぼくも言いたくなる。

 とはいえ、「自国の選手が勝てば誇りに思う」という心情を否定したところで、良いことがあるとも思えない。

 栄誉を成し遂げた同胞から「自分も頑張ろう」という前向きなエネルギーがもらえるならとても良いことだし、「同じ日本人なんだから、困ったときはお互いさま」という方向へと流れていくなら肯定されてしかるべきだろう。こうした発想から、次のようなツイートをした。

 政治思想的に言えば、「同じ国民なのだから、助け合おう」というのは、いわゆるリベラル・ナショナリズム論の発想だ。

 活躍している同胞をみて良い気分になるという「メリット」だけを享受するのではなく、必ずしも自分の責任とは言えない同胞の苦境や罪にも関心を向ける、という考え方である。共同体への帰属にあたって「美味しいとこ取り」はやめておこう、という発想だとも言える。

 もちろん全員がこういう発想をする必要はないし、不可能だろうとも思う。しかし、ナショナリズムを全否定できないのであれば、ポジティブな方向を目指したほうが良い、というのがぼくの判断だ。

オリンピックの「夢」

 他方、ナショナリズム的な観点からだけでオリンピックを眺めるのは、ちょっともったいないという感もある。

 ここは想像で書くけれども、フィギュアスケートを例にとるなら、本当に熱心なファンは、日本人選手さえ勝てばあとはどうでも良いという態度にはならないのではないだろうか。

 日本人選手を応援しながらも、他国の選手の素晴らしい演技に感動したりはしないのだろうか。ナショナリズムの観点からだけで自分の好きなスポーツを眺める人たちに、少し苛立ちを感じたりはしないのだろうか。サッカーを例にとっても、国際大会では日本代表を応援しつつも、普段は海外のクラブチームを熱心に応援しているファンもいるだろう。

 スポーツが生み出す絆は時に国境線を超えるのであり、そこに多くの人は感動する。平昌オリンピックのスピードスケート女子500メートルで、金メダルを取った小平奈緒選手が、銀メダルに終わった韓国の李相花選手と抱き合ったシーンに多くの視聴者が感動したのも、そういう心情の表れと言っていいだろう。


 1964年に開催された東京オリンピックの閉会式。開会式と同様、閉会式でも選手団は国ごとに整列して入場してくるものと思われていた。ところが、選手たちは国籍に関係なく、ばらばらに入場してきた。国籍を越えて、手を取り合ったり、肩を叩きあったりしていた。日本選手団の旗手だった選手は、日の丸を持ったまま、ニュージーランドの選手に肩車された。

 この様子を中継していたテレビでは、アナウンサーが次のように語ったという。

オリンピック始まって以来、この東京大会のような閉会式がかってあったでしょうか。あの秩序正しく華麗であった閉会式も素晴らしかった。だが、今夜、ここに繰り広げられた、国境を忘れ、人種を忘れ、渾然一体となってただ同じ人間として笑い、親しみ、別れを惜しむ人々の群れ、素晴らしい、ただ素晴らしいとしか言いようのない、涙が滲んでくるような瞬間であります。世界の平和とは、人類の平和とはこんなものであろうと旨が詰まるような瞬間であります。
(出典)塩田潮(1985)『東京は燃えたか』PHP研究所、pp.228-229。

 もちろん実際には、国家という枠組みも、民族や人種という境界も簡単には無くならないし、無くなったほうが良いということもおそらくない。

 国家と国家とはいがみ合い続けるし、場合によっては戦争も起きる。オリンピックはこれからも国威発揚の場であり続ける。そういう意味で、視聴者の多くにとって国境を超える絆は、ひとときの「夢」でしかない。

 けれども、ほんのわずかでもそういう「夢」を見せてくれるのもオリンピックの一つの側面だろうし、それはそれで悪くないように思える。

非凡なものを何も持ち合わせていないことの発見

 平昌オリンピックが開幕中である。政治的な問題がいろいろと取り沙汰されているが、なんだかんだ言って、それなりに競技の結果も話題になっているように思う。

 今だから言えることだが、ぼくは昔、オリンピックに出たいと思っていた。中学3年生のころの話である。種目は陸上競技。ぼくは陸上部を引退したばかりで、高校受験を控えていた。

 「オリンピックに出たい」というからにはさぞや優秀な選手だったのだろうと思われるかもしれないが、そんなことは全くなかった。地区大会すら突破できない成績しか残せていなかった。

 それでも、「自分のなかには秘められた才能が眠っていて、ちゃんとトレーニングすればそれが開花するのではないか」などと何の根拠もなく思っていた。そうして、自分が出場する予定のオリンピック男子100m決勝のアナウンスを妄想したりしていたのである。

 そういう妄想も手伝って、高校に進学すると、ぼくはまた陸上部に入った。練習はそれなりに厳しく、メニューをこなしている「ふり」をするので精一杯だった。辞めたいとは思ったけれど、先輩から強く説得されたこともあり、結局は最後まで続けた。

 高校では、ぼくなんかよりずっと強い選手が同じ部のなかにもゴロゴロいた。それは仕方がないとして、もっとショックだったのは、高校から陸上を始めた同期の連中にあっという間に追い抜かれたことだった。

 かなり早い段階からなんとなく分かっていたこととはいえ、「自分には才能がない」というのは、当時のぼくにはそれなりにしんどい発見ではあった。

 他方で、高校では音楽も始めた。当時は、バンドブーム全盛期である。友人がギターを始めたのに触発され、ぼくも冬休みの郵便局でのバイトで貯めたお金でギターとアンプを購入した。

 しかし、陸上競技以上に、ぼくは音楽に向いていなかった。音感もリズム感も悪いのだ。この顛末は以前に別のエントリで書いたことがあるけれども、真っ黒い歴史だけを残して、ぼくはギターをやめた。

 大学では勧誘されてたまたま入った合唱サークルに4年間いたが、ここでも音感とリズム感のなさに苦労するはめになった。大学ではピアノも習っていたものの、ピアノが上手な女性から「あなたが10年間ずっと練習して、私がその間ずっと練習しなかったとしても、私のほうがあなたよりも上手だ」と言われて妙に納得したのは良い思い出である。結局、「自分は音楽に向いてない」ということを改めて確認しながらサークルを引退した。

 高校時代に話を戻すと、このころぼくは宇宙飛行士になりたいと思っていた。当時愛読していたライトノベルのSFに触発されたのだ。小学生のころには将来の夢を聞かれて「国家公務員」と答えていたのに、ずいぶんと現実感を喪失したものである。

 宇宙飛行士を目指すのであれば、大学はやはり理系に進むべきだろう。そう思ってぼくは、夏休みに数学の補習を自発的に受けたりもしていた。しかし、ぼくはものすごく数学が苦手だった。特に高校に入ってからは、授業にほとんどついていけなくなっていた。中学のときには得意だった理科も、数学とのコラボ感を強めていくにつれ、成績は急下降していった。

 それでも、ぼくは理系に行きたかった。だがあるとき、友人から「お前、理系やったら大学行かれへんで」という非常にストレートな助言をもらった。薄々感づいていたものの、改めて言葉にされると「そうやな」と納得せざるをえなかった。かくしてぼくは素直に理系に進むことを諦め、文系の学部に行くことに決めた。

 こうやってふりかえると、中学、高校、大学と、ぼくは「自分は何に向いてないか」ということを延々と思い知らされてきたという感がある。

 中学、高校とぼくが愛読していた少年マンガには、平凡だった主人公が突然に非凡な才能を開花させて活躍するというものが多くあった。ところが現実には、ぼくのなかに非凡なものは何一つとして眠っていなかった。

 ただ、他人より多少はマシという程度のものが一つあった。本を読むことだ。高尚な読書などではない。ミステリーとか、ライトノベルとかいった類の軽い読書だ。それでも本を読むのは苦痛ではなく、そのせいか現代文の成績だけはそれほど悪くはなかった。良くもなかったのだが。

 しかし、本をよく読むというのは、中高生にアピールするような属性ではない。恰好良くもないし、女の子にもモテない。どちらかと言えば、隠しておきたいような属性である。加えて言えば、中高生のころからぼくなんかより遥かに高尚な本を読んでいた読書家はたくさんいたはずであり、決して人に誇れるような水準でもなかった。

 それでも長じてから、ぼくは本を読むことを生業の一つとする職業についた。「自分は何に向いてないか」という発見を延々とやった挙句、消去法的に残ったのは、人に誇れるような水準にあるわけでもない、きわめて地味な属性でしかなかった。

 今にして思えば、自分のなかに非凡なものは何もないということを確認する期間は、それなりに貴重だし、必要だったのではないかとも感じられる。非凡なものが何もなければ、平凡なものを組み合わせて戦うしかない。その覚悟を決めるのに必要だったのではないかと思えるからだ。

 研究者になった今も、ぼくよりもずっと若い人が素晴らしい業績を生み出していくのを見ることがある。彼ら、彼女らは非凡な才能をもち、努力を積み重ねているわけだが、ぼくにはそれがない。だからこそ、手の内にある多少はマシなものを組み合わせて、どうにか凌いでいくよりほかない。

 尼崎の陸上競技場で実施された陸上部内での選考会。それに落ちて地区大会に出ることすらかなわなくなった帰り道、コンクリートの壁を殴りつけていた当時のぼくにそんなことを言ったとところで、何の慰めにもならないだろうけれど。

『秒速5センチメートル』と『君の名は。』を隔てるもの(改訂)

以下のエントリは、『秒速5センチメートル』、『国境の南、太陽の西』。『君の名は』のネタバレを含みます。

君の名は。』エントリふたたび

 2016年の終わりに、「『秒速5センチメートル』と『君の名は。』を隔てるもの」というタイトルのエントリを書いた。

 『君の名は。』が地上波で放送されたことから、久々に読み直してみたのだが、勢いで書いたこともあって、ひどくわかりづらい内容だった。そこで当時の記憶を掘り起こしながら、書き直してみたのが以下の文章である。

秒速5センチメートル』と『国境の南、太陽の西

 『秒速5センチメートル』とは、『君の名は。』と同じく新海誠監督によるアニメ映画だ。子どもの頃の初恋をずっと忘れることができない男性の遍歴を描いた作品である。

 小学校時代、お互いに強く惹かれ合った主人公とその初恋相手は、親の仕事の都合で遠く引き離されてしまう。主人公は高校時代を種子島で過ごすことになり、初恋相手とも疎遠になっていく。だが、主人公はそれでも初恋相手を心のどこかで忘れることができない。そのため、どう見ても自分に想いを寄せている同級生も華麗にスルーしてしまう。さらに、成人して別の女性と付き合うようになってからも、その女性を本当の意味で愛することができない。

 そして、物語の終盤、大人になった主人公は、初恋相手と運命的な再会をする。だが、初恋相手にとって主人公との関係はもはや遠い昔の記憶でしかない。二人の関係は再構築されることなく、終劇となる。

 この『秒速…』と共通するモチーフの作品として時に挙げられるのが、村上春樹の小説『国境の南、太陽の西』だ。新海監督は村上春樹の小説から強い影響を受けているらしいので、ストーリー展開に共通点があっても不思議ではないだろう(なお、この小説にかんする以下の解釈は、鈴木智之『顔の剥奪』(青弓社、2016)に依拠するものである)。

 『国境の南…』の主人公は、ジャズバーを営み、成功した人物である。会社社長の娘である妻と、二人の子どもがいる。南青山に4LDKのマンションを、箱根に別荘をそれぞれ所有し、愛車はBMWである。現在において、これほど共感しづらい主人公を探すのはちょっと難しいのではないだろうか。

 しかし、この主人公には、自分の成功した人生はどこか「自分の手で選び取ったものではない」という感覚がある。たとえば、ジャズバーの成功は義父からの支援によるところが大きく、もし妻と出会っていなければ、自分はいまも普通の会社勤めをしているのではないかという思いを抱えている。自分の人生は偶然によって形づくられたものにすぎず、己の意思すらも思い通りにはならないという感覚があるのだ。

 だが、ふわふわとした人生を歩んでいる主人公にとっても、一つだけ確実だと言えるものがある。幼いころに出会った「島本さん」との関係である。主人公にとって島本さんとの関係は、運命と言ってよいものであった。その出会いは、主人公の人生にとって、依って立つことのできる確固たる何かを与えてくれるはずだったのだ。

 若き日の主人公は、その幼さゆえに島本さんとの関係を途切れさせてしまう。現在の主人公は、島本さんへの想いを引きずりながら、なんとなく成功してしまっているのである。このあたり、『秒速…』を思い出させる設定だと言えるだろう。

 ただし、『国境の南…』の主人公は、島本さんと再会したのち、体の関係まで結んでしまう。もっとも、その関係は一回きりで終わり、島本さんは姿を消してしまう。そして主人公は(都合の良いことに)妻子のもとへと帰るのである。ここで、先に挙げた『顔の剥奪』の一部を引用しておこう。

(『国境の南…』において:引用者)語られるラブストーリーは、「運命の恋(赤い糸)」とでも呼べるような定型を反復している。にもかかわらずそれが物語(フィクション)としての吸引力をもちうるのは、その背景に徹底的に偶発的な世界が置かれているからである。そこでは、感情も欲望も、善も悪も、すべてが条件次第で変容してしまう。その世界にあって、現実の「はかなさ」におびえる者たちにとっては、どのような境遇にあっても、どれだけ離ればなれになっても、変わらず求め合い続ける関係そのものがユートピアであり、したがって物語の機動力でもある。
(出典)鈴木智之(2016)『顔の剥奪 文学から<他者のあやうさ>を読む』青弓社、pp.93-94。

 つまり、『秒速…』や『国境の南…』は、どうがんばっても変わっていってしまう偶発的な世界のなかで、自分の初恋相手との関係のなかに「確実なもの」「変化しないもの」の存在を願う主人公の姿を描いた作品だと言うことができる。

 とはいえ、いずれの主人公にも、移りゆく世界のありように積極的に抵抗しようとする姿勢は見られない。『国境の南…』の主人公は、自らの家庭へと戻っていく。『秒速…』の主人公も、ラストシーンで初恋相手との関係をやり直せないことを悟り、わずかに微笑みを見せるだけである。それは言わば、偶発的で常に変化していく世界で生きていかざるをえないことを甘受する態度のあらわれと言ってよい。

君の名は。』における運命と人の意思

 『君の名は。』は大ヒットした作品であるし、さっき地上波で放送されたばかりなので、内容を知っている人も多いだろう。要するに、隕石の落下という悲劇的運命を、時間を遡って回避しようとする高校生たちの話である。悲劇的な運命を時間のやり直しによって回避しようとするモチーフは、いわゆる「ループもの」作品の典型だと言ってよい。

 『秒速…』や『国境の南…』を『君の名は。』と比較した場合、まず気づくのは、「運命」のありようが大きく異なっている点だ。先にも見たように『秒速…』や『国境の南…』における運命は、偶発的で移ろいやすい世界に確実なもの、変化しないものを与えてくれる存在にほかならない。それに対して、『君の名は。』の悲劇的運命は、絶対に回避しなくてはならない性質のものである。

 ただし、『君の名は。』では、そうした悲劇的運命の回避もまた、別の種類の運命によって促されている趣きがある。主人公である瀧と三葉との体が入れ替わり、それが悲劇の回避にとって決定的な意味をもつのも、悠久の時を越えて伝えられてきた運命なのである。言わば、隕石の落下という悲劇的運命と、それを回避しようとする運命とが競い合っている状態にある。そして、この二つの運命の勝敗を分かつのは、瀧と三葉の強い意思なのである。

 実際、「ループもの」の多くは、主人公たちの強い意思の力で、悲劇的運命が退けられるところに見せ場がある(典型的な例が、『Steins; Gate』や『Re: ゼロから始める異世界生活』である)。『君の名は。』でも、ヒロインの三葉が傷だらけになりながらも疾走するシーンに、悲劇的運命に抗おうとする強い意思を感じることができる。このあたり、『秒速…』や『国境の南…』の主人公に見られる諦観とはかなりの隔たりがある。

 そして、『君の名は。』のラストシーンでは、まさに好ましい運命と、人の強い意思との協同作業をみることができる。時間の壁によって切り離され、お互いの記憶を失ってしまった瀧と三葉は、ようやく巡り合う。偶発性とはかなさが支配する『秒速…』や『国境の南…』の世界であれば、もはや運命や人の意思が介在する余地はないはずだ。どちらか一方(あるいは両方)が空虚さを抱えたまま、二人は交差しない人生を歩んでいくことになる。

 だが、『君の名は。』において、二人の再会という好ましい運命は、瀧の強い意思から発せられた言葉の力を借りて、二人を再び結びつける。

 ここから浮かび上がるのは、『秒速…』や『国境の南…』ほどには偶発性や移ろいやすさの支配力は強くはないものの、上「ループもの」の作品ほどには人の意思も強固ではないという世界観である*1

 たしかに、瀧と三葉がお互いを想い合う気持ちは強い。だがそれでも、時間の壁を隔てることで、二人は結局のところお互いのことをほぼ完全に忘れてしまう。しかし、運命はなお二人を再び接近させ、そのことが「君の名は」という問いかけを瀧の口から投げかけさせる。言わば、移ろいやすさという世界の摂理を、運命と人の意思とが協働することで打ち破っているのだ。

運命からはじき出される者

 …と、ここで終わっておけば、単なる良い話?なのだが、物事には裏面がある。『国境の南…』には、主人公の元彼女であるイズミという人物が登場する。主人公は高校時代、イズミと付き合っていたのだが、本気で好きになることができないという感覚も抱えていた。島本さんのことが忘れられないのだ。結局、主人公はイズミの従姉と発作的に肉体関係を持ってしまい、イズミとの関係は破綻する。

 そして、物語の終盤、主人公はイズミと再会する。イズミは若き日の魅力を失った、表情のない女性になっていた。かつての主人公の行動に深く傷つき、今もそれを許していないイズミは、明らかに不幸になっていることが示唆される。言わば、島本さんという運命の女性をいつまでも引きずっていることで、主人公は意図することなく一人の女性の人生を決定的に損なってしまったのだ。

 同様の展開は『秒速…』においても繰り返される。主人公に想いを寄せながらも華麗にスルーされる女子校生、そして実際に交際していても主人公からの愛を感じ取ることのできない女性。彼女たちは『秒速…』におけるイズミである。

 運命による結びつきは、偶発性を許さないがゆえに運命から外れた人間を疎外する。たとえ女性の側に何らの落ち度がなくとも、運命の相手ではないという理由だけで、本当の意味では愛してもらえないのだ。以下は、『国境の南…』の主人公が、高校時代にイズミと初めてキスをした後の描写である。

女の子がキスをさせてくれるなんて、ほとんど信じられないことだった。嬉しくないわけがない。それでも、僕は手放しの幸福感というものを抱くことができなかった。僕は土台を失ってしまった塔に似ていた。高いところから遠くを見渡そうとすればするほど、僕の心は大きくぐらぐらと揺れ始めた。…もし仮に僕が抱いて口づけをした相手が島本さんだったなら、今ごろこんな風に迷ったりはしていないだろうなとふと思った。
(出典)村上春樹(1995)『国境の南、太陽の西講談社文庫、p.33。

 対して、『君の名は。』ではそうした運命から外れた存在は最初から描かれない。主人公たちがお互いの存在を忘れていた数年間、誰かと付き合っていたという事実は語られない。もしかすると、瀧のバイト先の先輩がそうなりえたのかもしれないが、そうはならなかったようだ。

 したがって、『君の名は。』においてイズミは存在しない。だからこそ、われわれは運命がもつ残酷さに直面することなく、爽やかな気持ちで終劇を迎えることができるのである。

*1:『国境の南…』や『秒速…』とは異なり、『君の名は。』の世界では、過ぎてしまった過去をやり直すことができる。ただし、『Steins; Gate』『Re: ゼロから始める異世界生活』のようなループものとは異なり、たった一度のチャンスしか与えられない。だからこそ、そのように折衷的な世界観を可能にしたとも考えられる。過ぎ去った過去がやり直せないのであれば、現実のはかなさを受け入れるよりほかないのに対し、何度もやり直せるのであれば人の意思を貫徹させようとする物語的要請がより強くなるからである

政治家と有権者とメディアの不幸な関係

政治家は自分ことしか考えてない?

 批評家の東浩紀氏が今度の選挙で「積極的棄権」を呼びかけたということが話題を呼んでいる。

 この呼びかけに対しては多くの批判がなされており、いまさらぼくが言うべきことは特にない。特にないのだが、東氏の問題意識に共感する部分がないわけでもない。解散総選挙が報じられるようになったあたりで、うんざりする気持ちがなかったかと言えば嘘になるからだ。

 東氏の呼びかけの一部を引用しておこう。

今回の選挙にはまったく「大義」がありません。解散権の乱用であることは明白です。しかもそれだけではありません。本来大義なき選挙を批判するはずの野党も、選挙対策に奔走し、政策論争を無視した数あわせの新党形成に邁進しています。結果として、リベラルは消滅しました。
(出典)2017年秋の総選挙は民主主義を破壊している。「積極的棄権」の声を集め、民主主義を問い直したい。

ぼくなりにもう一つ付け加えるなら、安倍首相の言葉の軽さがある。

 たとえば、ここでも指摘されているように、9月13日付『日本経済新聞』(朝刊)の記事では、前日のインタビューにおいて衆議院解散について尋ねられた安倍首相は「まったく考えていない」と強調したとされる。ところが、そのわずか数日後には解散という報道が始まった。

 9月18日付『日経』(朝刊)は「28日召集の臨時国会での衆院解散に傾いたのは政権維持を優先する判断からだ。離党者が相次ぐなど野党、民進党の停滞は明白で今が好機に映った」と報じている。

 つまるところ、安倍首相は意図的に『日経』(とその読者)にウソをついたか、それとも「今なら選挙に勝てそう」という打算によって前言を簡単に翻したのか、である。いずれにせよ、28日の臨時国会では所信演説もなく、冒頭解散という異例の事態を迎えることになった。

 それと並行していたのが、東氏も指摘する民進党内のゴタゴタだ。選挙に勝てそうという理由だけで、20年の歴史と組織とをあっさりと捨て、できたばかりの政党へと移動する。この動きを見て「政治家というのは、選挙で勝つことしか考えてない」という印象をもった人は少なくなかったのではないだろうか。

 もちろん、政治家にたいするそうした悪印象は、今に始まったことではない。たとえば、中央調査社の信頼度アンケートによれば、国会議員にたいする信頼度は一貫して低い(参考)。

2015年9月の調査でも、若干の改善は見られたとはいえ、自衛隊医療機関、銀行などの選択肢のなかで国会議員は最下位である。しかしそれでも、今回のゴタゴタは、政治家にたいする不信感に拍車をかけた可能性があるように思う。

 「政治家は選挙に受かることしか考えてない」、もっと言えば「公益よりも自分の利益しか考えてない」という発想は、政治的シニシズムとも呼ばれる。当選することを最優先課題とし、国会での審議をないがしろにしたり、前言を簡単に翻したり、政策よりも世論の「風」を期待して所属政党をコロコロ変えるという態度が目立つなら、どうしても人びとのあいだに政治的シニシズムは広がっていく。

有権者の側の問題?

 もっとも、政治的シニシズムの原因を政治家だけに求めるというのは、政治家にとって酷な話ではあるだろう。政治家が解散時期を調整したり、現実味の乏しい政策をぶち上げるというのも、世論というのはその程度で動いてしまうという諦観があるからだろうし、実際にその発想はかなり正しいのではないかと思う。

 国会で政策について真面目に討議をしたり、政策論争を通じて政党組織を鍛え上げようとしても、多くの人はそんな「瑣末」な事柄に関心を向けたりはしない。

イケメンだったり美女だったり元タレントだったりといった政治とはまったく関係のない属性が、投票結果に大きな影響を及ぼす。あるいは、政治家としての力量にはおよそ関係しないはずの不倫等のスキャンダルが致命傷にもなる。

 さらに、政治にもできないことがたくさんあるにもかかわらず、人びとは過剰な期待をそこに寄せてしまうという問題も指摘される。期待がある以上は何かをやっているポーズを示さねばならないが、どこまで行ってもそれはポーズでしかない。だが、そのポーズをとることが人びとの支持を集めるうえでは重要だったりするのだ。

 このような状況が続くなら、政治家が真面目に政策を語ろうとする意欲はどうしても下がるし、真摯な人はそもそも政治家になれなくなってしまう。実現不能なことが最初から分かっている公約を掲げたり、それを簡単に破棄して人びとの間に政治不信を高めることに何ら良心の呵責を持たない政治家ばかりが増殖していくことにもなりかねない。政策よりもプロパガンダ(政治宣伝)が得意な政治家ばかりになっていきかねないのだ。

 こう考えるなら、現在の政治状況の元凶は、つまるところ有権者自身にある。人びとは自分たちのレベルを越える政治家を持つことができないというのはよく言われるところである。日本の政治のレベルが低いというのであれば、それは日本の有権者の政治的意識のレベルの低さに原因がある、ということになる。

 …のだが、見方を変えるなら、政治家が悪いわけでも、有権者が悪いわけでもない、という可能性もある。では何が悪いのかと言えば、政治家と有権者とをつなぐ経路にこそ問題があるのかもしれない。つまるところ、メディアこそが元凶だという可能性だ。

メディアがばらまく政治的シニシズム

 政治的シニシズムにかんする研究では、政治家の政策ではなく、選挙戦略に焦点を当てる選挙報道は、人びとの政治的シニシズムを強めるという指摘がある。

 忙しい有権者にとって、政治にかんする情報を自ら収集、分析するという作業はけっして容易ではない。昔に比べれば、ネットのおかげで国会の議事録なども簡単に読めるようにはなっているが、実際にそれをやる人は決して多くないだろう。マスメディアであれ、ネットメディアであれ、どこかの誰かが収集し、編集したニュースこそが、人びとが政治を眺める窓になっているという状況は今も昔もそれほど変わっていない。

 問題は、そのような収集、編集の過程において、不可避的に取捨選択が行われるということだ。重大な政治対立を報じるにあたって、その日の首相の朝ごはんが何だったのかを伝えたところでノイズにしかならない。あくまでトピックに関係ある事柄を選んで読者や視聴者に伝えねばならない。そして、そうした情報の取捨選択によって、政治がどのように人びとの目に映るのかは大きく変わる。

 たとえば国会審議ひとつとっても、何十分にも及ぶ質問や回答をメディアはすべて紹介したりはしない。そのなかで重要と思われる部分だけをピックアップする。そのさい、メディアが注目しやすいのは、与野党がまともにぶつかるシーンであり、与党のスキャンダルを攻め立てているシーンである。

 メディアがそうしたシーンしか報道しないのであれば、野党の質問もどうしてもそこに力点を置かざるをえなくなる。国会での質問こそ、野党が人びとに存在感を示す重要な場になるからだ。

 選挙報道について言えば、各党の政策を地道に比較するよりも、それぞれの選挙戦術とその効果を競馬的に報じたほうがやはり盛り上がる。誰それが誰それの応援演説に駆けつけた、どこどこの選挙区では誰それが一歩リードした等々、一種のお祭り騒ぎとして紹介したほうが関心を引きつけやすいのだ。

 だが、このような政治報道のあり方は、結局のところ「野党は反対ばかり」「与党は責任逃ればかり」「政治家は選挙に勝つことしか考えない」という印象をどうしても強めてしまう。たとえば、今年の通常国会で内閣が提出した法案のうち、民進党が79%の法案に賛成し(共産党でも33%の法案に賛成)、反対した14本の法案のうち8本には対案を出していたりといったことはさほど注目されない。

 この観点からすると、現在の政治を劣化させている元凶は、メディアの政治報道だとも考えられる。人びとが政治を眺めるための窓が歪んでいるからこそ、政治家が権謀術数だけに精を出しているかのように見えてしまう、というわけだ。

 しかし、このように書けば、メディアの中の人からはお叱りを受けるのではないかとも思う。そんな立派なことを言っても、真面目に政策関連のニュースを報道したところで、読者や視聴者がついてこないというのは確かに事実ではあるだろう。しかも、難しいニュースをできるだけ「わかりやすく」かつ「面白く」伝えようとする試みをがんばってやっているという反論もありうる。

 実際、メディアと読者や視聴者との関係を考えるとき、メディアの中身だけに注目するというのでは一面的と言わざるをえない。読者や視聴者がいて初めて成立するビジネスである以上、「人びとが欲するもの」を無視して記事や番組をつくることはできないからだ。だとすれば、つまるところ悪いのはやっぱり有権者…ということになるのだろうか?

悪循環からどうやって抜け出すのか?

 以上のように、政治家、有権者、メディアという観点から、いまの政治が抱える問題について考えてきた。それでは、結局、なにが「元凶」なのだろう?目先の利益に走る政治家が悪いのか、有権者の水準が低すぎるのか、あるいは政局やスキャンダルばかりを伝えるメディアに問題があるのか。

 ぼく個人としては、おそらくこの問題に「元凶」はないと考えている。政治家、有権者、メディアがそれぞれに影響を与え、結果的に政治をグダグダにしているのではないだろうか。

 だとすれば、実に月並みな結論でしかないのだが、この悪循環から抜け出すためには、それぞれがなすべきことなすしかない。政治家は実現可能な政策についてしっかりと考え、わかりやすくアピールする。有権者は政策を伝える報道もちゃんと追いかけ、どこに一票を投じるべきかを真剣に考える。メディアは政治家の戦略やスキャンダルだけではなく政策についても頑張って伝える。優等生的な答えになって申し訳ないが、これ以外の代替案をぼくはちょっと思いつかない。

 ただ、民進党のゴタゴタの結果として、真面目に政策を語ろうとする動き、それに注目しようとする動きが出てきたことには少し救いを感じる。今回の選挙でどこが勝つ、勝たないに関係なく、そうした動きが少しずつ広がって、日本の民主主義が成熟していくのではないか…という大きな期待をすると、うまくいかなかったときに辛いので、ほんのちょっとだけ期待することにしたい。

 (ツンデレ風に)ほんのちょっとだけ、だからね!

ファンの心理、アンチの心理

 これを読んでいる方に想像してもらいたい。

 みなさんが大好きな誰か、できれば努力家が良いのだけれども、その誰かが学業や仕事で成功したという話を耳にしたとしよう。その時、どんな感想を抱くだろうか?
 
 「ああ、アイツ、頑張ってたもんな」「努力の成果だな」

 そんな感想を持つのではないだろうか。

 それでは逆に、みなさんの大嫌いな誰がが、学業や仕事で成功したと聞いたならどうだろう?

 「運が良かっただけじゃね?」「周りからサポートがあったからじゃない?」

 などと思ったりはしないだろうか。もちろん、その人がどんな人かにもよるとは思うのだが。

 次に、みなさんが大好きな誰かが失敗したという話を聞いたとしよう。すると、今度はこんな感想を持つかもしれない。

 「今回はちょっとハードルが高すぎたよね」「めぐり合わせが悪すぎた」

 最後に、みなさんが大嫌いな誰かが大失敗したという話であればどうだろう?

 「自業自得だね」「アイツの普段の言動からすれば当然でしょ」

 もうおわかりかと思うが、誰かが成功、または失敗したと聞いたとき、その人に対してどんな感情を抱いているかによって、原因をどこに求めるのかは変りやすい。その人に好意を抱いていれば、成功は本人に原因が、失敗は外部に原因があるということになる。これをここでは「ファンの心理」で呼ぶことにしたい。

 逆に、その人を嫌っていれば、成功は外部に原因が、失敗は本人に原因があるというように考えられやすくなる。これをここでは「アンチの心理」と呼ぼう。まとまると、以下のようになる。

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 言うまでもないが、これはあくまで「傾向」の話でしかない。実際には、どのような成功/失敗なのか、その人物がどんな人なのかによって、評価は大きく変わる。

 ただし、たとえばメディアを介してしか接する機会がないような人物に関しては、直接に知っている人物に比べて、ファンの心理、アンチの心理の影響は大きくなるのではないだろうか。間接的で不確かな情報しかないために、もともとその人に対してどのような感情をもっているかが原因の解釈により大きな影響を及ぼすと考えられるからだ。

政権をどう評価するか

 先日、若者のあいだで安倍政権にたいする支持率が高いという調査結果が報道された。

 職業柄、大学生と接する機会が多い立場からすると、さもありなんという感はある。多くの大学生にとって最大の懸案は就職活動であるが、この数年で状況は目を見張るほどに改善された。数年前であれば何十社もの選考を受けて全滅といった話は決して珍しくなかった。あくまで教員の目から見ての話だが、能力も高く、きちんとしている学生であっても内定がなかなか取れないことが多かった。

 ところが現在では、これも教員の目から見ての話だが、ちょっと心配になるような学生であっても、複数の内定を持っていたりする。もちろん、これはぼくに人を見る目がないだけの話だけかもしれないが、実際に、大卒の就職状況の改善はさまざまなデータによって示されている。

 問題は、これをどう評価するかである。おそらくは現政権に好意的な人の多くは、政権の成果として、つまり安倍首相の金融政策がもたらした円安や株価上昇の恩恵として評価しているのではないかと思う。若年層の多くも、そのように考えるからこそ、現政権を評価しているのだろう。

 他方、現政権に批判的な人の多くは、そのようには考えない。そもそも民主党政権下での求職難はリーマンショックに原因があり、同政権の終わりごろにはすでに景気は回復基調にあった。安倍政権はたまたまその波の乗っただけだという説明や、団塊世代の大量退職に伴う人手不足が求人増をもたらしているという説明が聞かれる。

 このどちらが正解なのかを論じるのは、ぼくの手に余る話である。ただ、先に述べた「ファンの心理」「アンチの心理」の説明図式にわりとすんなり当てはまるのが興味深いところである。

 もう一つ事例を挙げておこう。2014年4月の消費税率の引き上げである。この引き上げについては、安倍首相を支持する人たちのあいだでも評判が悪かった。日本経済はいまだ増税する状況にないというのだ。

 そこで頻繁に用いられたのが、「そもそも増税を決めたのは民主党政権である」「財務省の圧力だ」等々の説明である。つまり、増税の責任は安倍首相にはない、というのだ。実際には、2013年10月の記者会見で安倍首相自身が「消費税率を法律で定められたとおり、現行の5%から8%に3%引き上げる決断をいたしました。社会保障を安定させ、厳しい財政を再建するために、財源の確保は待ったなしです」と語っているにもかかわらず、である。ファンの心理からすれば、本人が何を言おうと、悪しき決断の原因は外部になくてはならないのだ。

 言うまでもなく、アンチの心理からすると、消費税率の引き上げが日本経済に悪しき影響をもたらしたとすれば、その原因はあくまで安倍首相本人に求められねばならない。

自らの心理的傾向との付き合い方

 繰り返しになるが、以上はあくまで心理的な傾向の話でしかない。政治や経済についての説明の多くは、このように単純な好き嫌いの次元ではなく、様々な情報の分析に基づいて行われている(と思いたい)。

 ただ、そこまでの情報や知識を持たないぼくのような人間は、どうしてもファンの心理、またはアンチの心理で政治や経済を判断してしまいがちになる。だが、その判断はあくまで自分の内面の根ざすものである以上、必ずしも現実的に見て妥当なものとは限らない。

 もちろん、人間である以上、こういった心理の働きと無縁でいることはできない。それでも、「自分が何を信じたがっているのか」を知っておくことは決して悪いことではないだろう。

【追記】アップしてから気づいたのだが、このエントリの大学生の就職活動の下りに、まさにファンの心理、アンチの心理が反映されているのかもしれない。この手の話はすぐに自分自身に跳ね返ってくるのです。