擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

政治家と有権者とメディアの不幸な関係

政治家は自分ことしか考えてない?

 批評家の東浩紀氏が今度の選挙で「積極的棄権」を呼びかけたということが話題を呼んでいる。

 この呼びかけに対しては多くの批判がなされており、いまさらぼくが言うべきことは特にない。特にないのだが、東氏の問題意識に共感する部分がないわけでもない。解散総選挙が報じられるようになったあたりで、うんざりする気持ちがなかったかと言えば嘘になるからだ。

 東氏の呼びかけの一部を引用しておこう。

今回の選挙にはまったく「大義」がありません。解散権の乱用であることは明白です。しかもそれだけではありません。本来大義なき選挙を批判するはずの野党も、選挙対策に奔走し、政策論争を無視した数あわせの新党形成に邁進しています。結果として、リベラルは消滅しました。
(出典)2017年秋の総選挙は民主主義を破壊している。「積極的棄権」の声を集め、民主主義を問い直したい。

ぼくなりにもう一つ付け加えるなら、安倍首相の言葉の軽さがある。

 たとえば、ここでも指摘されているように、9月13日付『日本経済新聞』(朝刊)の記事では、前日のインタビューにおいて衆議院解散について尋ねられた安倍首相は「まったく考えていない」と強調したとされる。ところが、そのわずか数日後には解散という報道が始まった。

 9月18日付『日経』(朝刊)は「28日召集の臨時国会での衆院解散に傾いたのは政権維持を優先する判断からだ。離党者が相次ぐなど野党、民進党の停滞は明白で今が好機に映った」と報じている。

 つまるところ、安倍首相は意図的に『日経』(とその読者)にウソをついたか、それとも「今なら選挙に勝てそう」という打算によって前言を簡単に翻したのか、である。いずれにせよ、28日の臨時国会では所信演説もなく、冒頭解散という異例の事態を迎えることになった。

 それと並行していたのが、東氏も指摘する民進党内のゴタゴタだ。選挙に勝てそうという理由だけで、20年の歴史と組織とをあっさりと捨て、できたばかりの政党へと移動する。この動きを見て「政治家というのは、選挙で勝つことしか考えてない」という印象をもった人は少なくなかったのではないだろうか。

 もちろん、政治家にたいするそうした悪印象は、今に始まったことではない。たとえば、中央調査社の信頼度アンケートによれば、国会議員にたいする信頼度は一貫して低い(参考)。

2015年9月の調査でも、若干の改善は見られたとはいえ、自衛隊医療機関、銀行などの選択肢のなかで国会議員は最下位である。しかしそれでも、今回のゴタゴタは、政治家にたいする不信感に拍車をかけた可能性があるように思う。

 「政治家は選挙に受かることしか考えてない」、もっと言えば「公益よりも自分の利益しか考えてない」という発想は、政治的シニシズムとも呼ばれる。当選することを最優先課題とし、国会での審議をないがしろにしたり、前言を簡単に翻したり、政策よりも世論の「風」を期待して所属政党をコロコロ変えるという態度が目立つなら、どうしても人びとのあいだに政治的シニシズムは広がっていく。

有権者の側の問題?

 もっとも、政治的シニシズムの原因を政治家だけに求めるというのは、政治家にとって酷な話ではあるだろう。政治家が解散時期を調整したり、現実味の乏しい政策をぶち上げるというのも、世論というのはその程度で動いてしまうという諦観があるからだろうし、実際にその発想はかなり正しいのではないかと思う。

 国会で政策について真面目に討議をしたり、政策論争を通じて政党組織を鍛え上げようとしても、多くの人はそんな「瑣末」な事柄に関心を向けたりはしない。

イケメンだったり美女だったり元タレントだったりといった政治とはまったく関係のない属性が、投票結果に大きな影響を及ぼす。あるいは、政治家としての力量にはおよそ関係しないはずの不倫等のスキャンダルが致命傷にもなる。

 さらに、政治にもできないことがたくさんあるにもかかわらず、人びとは過剰な期待をそこに寄せてしまうという問題も指摘される。期待がある以上は何かをやっているポーズを示さねばならないが、どこまで行ってもそれはポーズでしかない。だが、そのポーズをとることが人びとの支持を集めるうえでは重要だったりするのだ。

 このような状況が続くなら、政治家が真面目に政策を語ろうとする意欲はどうしても下がるし、真摯な人はそもそも政治家になれなくなってしまう。実現不能なことが最初から分かっている公約を掲げたり、それを簡単に破棄して人びとの間に政治不信を高めることに何ら良心の呵責を持たない政治家ばかりが増殖していくことにもなりかねない。政策よりもプロパガンダ(政治宣伝)が得意な政治家ばかりになっていきかねないのだ。

 こう考えるなら、現在の政治状況の元凶は、つまるところ有権者自身にある。人びとは自分たちのレベルを越える政治家を持つことができないというのはよく言われるところである。日本の政治のレベルが低いというのであれば、それは日本の有権者の政治的意識のレベルの低さに原因がある、ということになる。

 …のだが、見方を変えるなら、政治家が悪いわけでも、有権者が悪いわけでもない、という可能性もある。では何が悪いのかと言えば、政治家と有権者とをつなぐ経路にこそ問題があるのかもしれない。つまるところ、メディアこそが元凶だという可能性だ。

メディアがばらまく政治的シニシズム

 政治的シニシズムにかんする研究では、政治家の政策ではなく、選挙戦略に焦点を当てる選挙報道は、人びとの政治的シニシズムを強めるという指摘がある。

 忙しい有権者にとって、政治にかんする情報を自ら収集、分析するという作業はけっして容易ではない。昔に比べれば、ネットのおかげで国会の議事録なども簡単に読めるようにはなっているが、実際にそれをやる人は決して多くないだろう。マスメディアであれ、ネットメディアであれ、どこかの誰かが収集し、編集したニュースこそが、人びとが政治を眺める窓になっているという状況は今も昔もそれほど変わっていない。

 問題は、そのような収集、編集の過程において、不可避的に取捨選択が行われるということだ。重大な政治対立を報じるにあたって、その日の首相の朝ごはんが何だったのかを伝えたところでノイズにしかならない。あくまでトピックに関係ある事柄を選んで読者や視聴者に伝えねばならない。そして、そうした情報の取捨選択によって、政治がどのように人びとの目に映るのかは大きく変わる。

 たとえば国会審議ひとつとっても、何十分にも及ぶ質問や回答をメディアはすべて紹介したりはしない。そのなかで重要と思われる部分だけをピックアップする。そのさい、メディアが注目しやすいのは、与野党がまともにぶつかるシーンであり、与党のスキャンダルを攻め立てているシーンである。

 メディアがそうしたシーンしか報道しないのであれば、野党の質問もどうしてもそこに力点を置かざるをえなくなる。国会での質問こそ、野党が人びとに存在感を示す重要な場になるからだ。

 選挙報道について言えば、各党の政策を地道に比較するよりも、それぞれの選挙戦術とその効果を競馬的に報じたほうがやはり盛り上がる。誰それが誰それの応援演説に駆けつけた、どこどこの選挙区では誰それが一歩リードした等々、一種のお祭り騒ぎとして紹介したほうが関心を引きつけやすいのだ。

 だが、このような政治報道のあり方は、結局のところ「野党は反対ばかり」「与党は責任逃ればかり」「政治家は選挙に勝つことしか考えない」という印象をどうしても強めてしまう。たとえば、今年の通常国会で内閣が提出した法案のうち、民進党が79%の法案に賛成し(共産党でも33%の法案に賛成)、反対した14本の法案のうち8本には対案を出していたりといったことはさほど注目されない。

 この観点からすると、現在の政治を劣化させている元凶は、メディアの政治報道だとも考えられる。人びとが政治を眺めるための窓が歪んでいるからこそ、政治家が権謀術数だけに精を出しているかのように見えてしまう、というわけだ。

 しかし、このように書けば、メディアの中の人からはお叱りを受けるのではないかとも思う。そんな立派なことを言っても、真面目に政策関連のニュースを報道したところで、読者や視聴者がついてこないというのは確かに事実ではあるだろう。しかも、難しいニュースをできるだけ「わかりやすく」かつ「面白く」伝えようとする試みをがんばってやっているという反論もありうる。

 実際、メディアと読者や視聴者との関係を考えるとき、メディアの中身だけに注目するというのでは一面的と言わざるをえない。読者や視聴者がいて初めて成立するビジネスである以上、「人びとが欲するもの」を無視して記事や番組をつくることはできないからだ。だとすれば、つまるところ悪いのはやっぱり有権者…ということになるのだろうか?

悪循環からどうやって抜け出すのか?

 以上のように、政治家、有権者、メディアという観点から、いまの政治が抱える問題について考えてきた。それでは、結局、なにが「元凶」なのだろう?目先の利益に走る政治家が悪いのか、有権者の水準が低すぎるのか、あるいは政局やスキャンダルばかりを伝えるメディアに問題があるのか。

 ぼく個人としては、おそらくこの問題に「元凶」はないと考えている。政治家、有権者、メディアがそれぞれに影響を与え、結果的に政治をグダグダにしているのではないだろうか。

 だとすれば、実に月並みな結論でしかないのだが、この悪循環から抜け出すためには、それぞれがなすべきことなすしかない。政治家は実現可能な政策についてしっかりと考え、わかりやすくアピールする。有権者は政策を伝える報道もちゃんと追いかけ、どこに一票を投じるべきかを真剣に考える。メディアは政治家の戦略やスキャンダルだけではなく政策についても頑張って伝える。優等生的な答えになって申し訳ないが、これ以外の代替案をぼくはちょっと思いつかない。

 ただ、民進党のゴタゴタの結果として、真面目に政策を語ろうとする動き、それに注目しようとする動きが出てきたことには少し救いを感じる。今回の選挙でどこが勝つ、勝たないに関係なく、そうした動きが少しずつ広がって、日本の民主主義が成熟していくのではないか…という大きな期待をすると、うまくいかなかったときに辛いので、ほんのちょっとだけ期待することにしたい。

 (ツンデレ風に)ほんのちょっとだけ、だからね!

ファンの心理、アンチの心理

 これを読んでいる方に想像してもらいたい。

 みなさんが大好きな誰か、できれば努力家が良いのだけれども、その誰かが学業や仕事で成功したという話を耳にしたとしよう。その時、どんな感想を抱くだろうか?
 
 「ああ、アイツ、頑張ってたもんな」「努力の成果だな」

 そんな感想を持つのではないだろうか。

 それでは逆に、みなさんの大嫌いな誰がが、学業や仕事で成功したと聞いたならどうだろう?

 「運が良かっただけじゃね?」「周りからサポートがあったからじゃない?」

 などと思ったりはしないだろうか。もちろん、その人がどんな人かにもよるとは思うのだが。

 次に、みなさんが大好きな誰かが失敗したという話を聞いたとしよう。すると、今度はこんな感想を持つかもしれない。

 「今回はちょっとハードルが高すぎたよね」「めぐり合わせが悪すぎた」

 最後に、みなさんが大嫌いな誰かが大失敗したという話であればどうだろう?

 「自業自得だね」「アイツの普段の言動からすれば当然でしょ」

 もうおわかりかと思うが、誰かが成功、または失敗したと聞いたとき、その人に対してどんな感情を抱いているかによって、原因をどこに求めるのかは変りやすい。その人に好意を抱いていれば、成功は本人に原因が、失敗は外部に原因があるということになる。これをここでは「ファンの心理」で呼ぶことにしたい。

 逆に、その人を嫌っていれば、成功は外部に原因が、失敗は本人に原因があるというように考えられやすくなる。これをここでは「アンチの心理」と呼ぼう。まとまると、以下のようになる。

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 言うまでもないが、これはあくまで「傾向」の話でしかない。実際には、どのような成功/失敗なのか、その人物がどんな人なのかによって、評価は大きく変わる。

 ただし、たとえばメディアを介してしか接する機会がないような人物に関しては、直接に知っている人物に比べて、ファンの心理、アンチの心理の影響は大きくなるのではないだろうか。間接的で不確かな情報しかないために、もともとその人に対してどのような感情をもっているかが原因の解釈により大きな影響を及ぼすと考えられるからだ。

政権をどう評価するか

 先日、若者のあいだで安倍政権にたいする支持率が高いという調査結果が報道された。

 職業柄、大学生と接する機会が多い立場からすると、さもありなんという感はある。多くの大学生にとって最大の懸案は就職活動であるが、この数年で状況は目を見張るほどに改善された。数年前であれば何十社もの選考を受けて全滅といった話は決して珍しくなかった。あくまで教員の目から見ての話だが、能力も高く、きちんとしている学生であっても内定がなかなか取れないことが多かった。

 ところが現在では、これも教員の目から見ての話だが、ちょっと心配になるような学生であっても、複数の内定を持っていたりする。もちろん、これはぼくに人を見る目がないだけの話だけかもしれないが、実際に、大卒の就職状況の改善はさまざまなデータによって示されている。

 問題は、これをどう評価するかである。おそらくは現政権に好意的な人の多くは、政権の成果として、つまり安倍首相の金融政策がもたらした円安や株価上昇の恩恵として評価しているのではないかと思う。若年層の多くも、そのように考えるからこそ、現政権を評価しているのだろう。

 他方、現政権に批判的な人の多くは、そのようには考えない。そもそも民主党政権下での求職難はリーマンショックに原因があり、同政権の終わりごろにはすでに景気は回復基調にあった。安倍政権はたまたまその波の乗っただけだという説明や、団塊世代の大量退職に伴う人手不足が求人増をもたらしているという説明が聞かれる。

 このどちらが正解なのかを論じるのは、ぼくの手に余る話である。ただ、先に述べた「ファンの心理」「アンチの心理」の説明図式にわりとすんなり当てはまるのが興味深いところである。

 もう一つ事例を挙げておこう。2014年4月の消費税率の引き上げである。この引き上げについては、安倍首相を支持する人たちのあいだでも評判が悪かった。日本経済はいまだ増税する状況にないというのだ。

 そこで頻繁に用いられたのが、「そもそも増税を決めたのは民主党政権である」「財務省の圧力だ」等々の説明である。つまり、増税の責任は安倍首相にはない、というのだ。実際には、2013年10月の記者会見で安倍首相自身が「消費税率を法律で定められたとおり、現行の5%から8%に3%引き上げる決断をいたしました。社会保障を安定させ、厳しい財政を再建するために、財源の確保は待ったなしです」と語っているにもかかわらず、である。ファンの心理からすれば、本人が何を言おうと、悪しき決断の原因は外部になくてはならないのだ。

 言うまでもなく、アンチの心理からすると、消費税率の引き上げが日本経済に悪しき影響をもたらしたとすれば、その原因はあくまで安倍首相本人に求められねばならない。

自らの心理的傾向との付き合い方

 繰り返しになるが、以上はあくまで心理的な傾向の話でしかない。政治や経済についての説明の多くは、このように単純な好き嫌いの次元ではなく、様々な情報の分析に基づいて行われている(と思いたい)。

 ただ、そこまでの情報や知識を持たないぼくのような人間は、どうしてもファンの心理、またはアンチの心理で政治や経済を判断してしまいがちになる。だが、その判断はあくまで自分の内面の根ざすものである以上、必ずしも現実的に見て妥当なものとは限らない。

 もちろん、人間である以上、こういった心理の働きと無縁でいることはできない。それでも、「自分が何を信じたがっているのか」を知っておくことは決して悪いことではないだろう。

【追記】アップしてから気づいたのだが、このエントリの大学生の就職活動の下りに、まさにファンの心理、アンチの心理が反映されているのかもしれない。この手の話はすぐに自分自身に跳ね返ってくるのです。

弱者男性問題について考える

 ここ数年来、ネットでよく目にするのが「キモくてカネのないおっさん」にまつわる問題である*1

 ぼくなりに解釈すれば、「女性であること」や「外国籍であること」にまつわる問題はマスメディアやネットでもさかんに論じられる一方、外見や所得、性的パートナーの面で困難を抱える男性の問題は無視されてきたという意識に起因しているのではないかと思う。

 この問題についてはすでに様々な人が意見を述べていて、たとえば男性だという点ですでに社会的には強者なのだから、「男性であること」に起因する問題など存在しないという立場もありうる。

 ただ、ぼくはそういう立場はとらない。以下のエントリでは、性的パートナーの問題は措いて*2、とりあえず「社会問題」の提起という観点から、弱者男性の問題について考えてみたい。

「社会問題」の提起における弱者男性問題

 このブログで何度も指摘してきた通り、社会問題や事件などにおいて、世間の同情を集めやすいタイプの人と、そうでないタイプの人が存在する。前回のエントリでも紹介した通り、「理想的な被害者」、つまり同情を集めやすい人の条件は以下のものが挙げられている。

(1)被害者が脆弱であること
(2)被害者が尊敬に値する行いをしていること
(3)被害者が非難されるような場所にいなかったこと
(4)加害者が大柄で邪悪であること
(5)被害者が加害者とは知り合いでないこと
(6)被害者が自らの苦境を広く知らせる力をもつこと

 上の条件(1)を重視するならば、男性は基本的に「理想的な被害者」とは見なされづらいということになるかもしれない。

 同じような被害に遭っていたとしても、若くて見た目の麗しい女性が被害者であった場合と、体格のがっしりした中年男性が被害者であった場合、前者のほうが同情を集めやすいことは想像に難くない。後者の場合であれば世間的には無視されるようなケースであっても、前者の場合には広く注目を集め、重大な社会問題として広く周知されるという可能性すら考えられる。

 ただし、だからといって女性がつねに「理想的な被害者」と見なされるということには決してならない。それどころか、世間的な「あるべき女性像」から逸脱していると見なされた場合には、被害者であっても熾烈なバッシングが加えられることすらありうる。この点においては「あるべき女性像」からの逸脱は、「あるべき男性像」からの逸脱よりも遥かに重いペナルティを課せられるのが現状ではないだろうか。

社会問題の提起から「同情」を切り離せるか

 話を戻せば、ここでの根本的な問題は、「社会問題の提起が、特定個人への同情の喚起を通じて行われている」ことに起因しているように思う。犯罪被害であれ、貧困問題であれ、メディアは通常、特定の個人を取り上げることで、人びとの関心を集めようとする。

 その理由としては、統計データなどを使って抽象的なかたちで社会問題を提起したとしても、人びとがなかなか関心を持ってくれないということがある。「群衆を目にしても、わたしは決して助けようとしません。それが一人であれば、わたしは助けようとします」というマザー・テレサの言葉に示されるように、特定個人の苦しみを目にしたときに人間の援助行動は喚起される傾向にあるのだ。

 そして、より広く同情を喚起しようと考えるなら、その「特定個人」として多くの同情を集めやすいタイプの人が選ばれるのもやむをえないのかもしれない。だが、そのことが同情を集めづらいタイプの人(たとえば「キモくてカネのないおっさん」)を疎外してしまうのであれば、やはり問題ではないかと思う。

 となると、ここでの解決策は、「社会問題の提起および解決が『特定個人への同情』に依存しない形で行なわれるようになる」ではないかと思う。特定の個人が抱える問題としてではなく、社会的に広く共有されている問題として最初から認識されるようにするということである。

 ただ、これが結構な難問なのであるが…

参考文献

児玉聡(2012)『功利主義入門』ちくま新書
クリスティーエ、ニルス(2004)齋藤哲訳「理想的な被害者」(『東北学院大学論集 法律学』63号、pp.274-256)。
Meyers, M. (1996) News Coverage of Violence against Women, Sage.

*1:この言葉は非常にステレオタイプ的であって、できれば使いたくないのだが、ネットでの言論状況と対応させるために使用することにしたい

*2:これが非常な難問ではあるのだが、いまはちょっと手に負えない

性犯罪をあえて語らないこと

 性犯罪というのは語ることが難しいテーマだとつくづく思う。

 さまざまな価値観がぶつかるがゆえに、どのように論じようとも批判を招き寄せてしまう。加えて、そこに政治的な問題がリンクすれば、なおさらである。

 ということで、このエントリで取り上げたいのは、キー局の元記者であり、現在はジャーナリストとして活動している人物に対する告発の件である。最初に、この人物が実際に性犯罪に及んだかどうかはここでは問わない。検察審査会の判断が待たれる事案であり、現時点でこの男性を批判することは避けたい。

被害を告発した女性へのバッシング

 むしろ、ここで注目したいのは、被害を告発した女性に対するバッシングの件だ。この女性が名乗り出たことにより、ネットでは彼女の素性を探ろうとする試みのほか、様々な誹謗中傷が行われることになった。「よくもまあここまで下劣なことを思いつくな」という中傷もあり、むしろそれは書いた側の品性を反映していると言うべきだろう。

 ともあれ、バッシングがヒートアップした原因は、当事者の意思とは無関係に、この告発が政権批判と結びつけられうる側面を有していたからだろう。しかし、このバッシングでは、一般的な刑事事件でも生じる被害者非難もまた見られた。たとえば、当該女性が記者会見をしたさいに「胸元が開いた服」を来ていたことに対して激しい非難が寄せられた。これは性犯罪の被害者に対してしばしば向けられる「男を誘うような恰好をしていたから襲われたのだ」という非難の一種である。

 確かに、犯罪被害に遭わないために自己防衛の必要性を論じることは「一般論」としては間違っていない。治安の悪い地域では夜に歩かないようにする、貴重品は持ち歩かない等々の自己防衛はやはりしておいたほうがよい。

 けれども、犯罪被害に遭遇した人に対して、そうした「一般論」をぶつけることにさしたる意味はない。「一般論」を被害者にぶつけてその自己責任を問うことには、非難を行う側の心理を満足させるぐらいの効用しかない。

 つまりは、「ちゃんと気をつけていれば犯罪被害になど遭うはずがない」「被害に遭ったというのは、被害者の側に何らかの落ち度があったのだ」という因果応報的な世界観に安住していたいという心理が、人を被害者非難へと駆り立てるのだ。

「理想的な被害者」像からの逸脱

 もちろん、つねに被害者に対するバッシングが生じるわけではない。このブログでも何度か触れたことがあるが、「理想的な被害者」の条件を満たす被害者に対しては共感が集まりやすくなる。他方、「理想的な被害者」像から外れれば外れるほど、被害者に対するバッシングは生じやすくなる。

 ニルス・クリスティーエが提示する「理想的な被害者」の条件は以下の通りである。

(1)被害者が脆弱であること
(2)被害者が尊敬に値する行いをしていること
(3)被害者が非難されるような場所にいなかったこと
(4)加害者が大柄で邪悪であること
(5)被害者が加害者とは知り合いでないこと
(6)被害者が自らの苦境を広く知らせる力をもつこと

 ここで重要なのは、「理想的な被害者」の条件に「加害者」に関する項目が入っていることだ。つまり、被害者が共感を集めるか否かは、被害者自身のふるまいや属性のみならず、加害者がどのような人物であるかによっても左右される。たとえば、加害者が非常な人気者であった場合、被害者を非難する人が出てくる可能性はやはり上がる。

 加えて、被害者が女性である場合、女性的だと見なされやすい役割に従事していることが「理想的な被害者」の要件に加わるとも言われる。逆に言えば、慣習的な女性像に合致しない女性に対しては、被害者非難が行われやすいということになる。したがって、高学歴であったり、従来は男性のものと見なされがちだった仕事に就いている女性は、バッシングを受けやすくなる。

 今回のケースをこうした観点から見た場合、いかなる政治的立場に立つかによって、告発をした女性が「理想的な被害者」と見なされるか否かは影響を受けると考えられる。ある立場からすれば、記者会見を行なったことは(2)と見なされうるだろうし、別の立場からすればむしろ非難されるべき振る舞いということになるだろう。

 また、加害者とされる男性をどのように評価するかによっても、判断は分かれることになるだろう。加害者のこれまでの言動を批判的に見るならば(4)の条件が適用されやすくなるし、好意的に評価するなら適用されにくくなる。

 もっとも、「理想的な被害者」として世間から受け入れられたとしても、その人物には「被害者」としてふるまうことが求められ続けるのであって、それはそれで問題を引き起こす。いったんは承認されたとしても、世間が求める「被害者」像から逸脱した瞬間に激しいバッシングの対象となることもありうるからだ。「かわいそうな被害者」像に合致し続けることに対する暗黙の要求もまた、被害者をしばしば苦しめることになる。

あえて語らないことの必要性

 繰り返しにはなるが、今回のケースに関して、当事者でもジャーナリストでもない一般人にできることといえば、検察審査会の判断を待つことしかないのだろうと思う。憶測で加害者とされる男性を犯人扱いすることも、被害を告発した女性をバッシングすることも間違っている。

 もちろん、さまざまな情報が出てくるなかで、ぼく個人としても思うところはいろいろとある。あるのだが、自らの政治的な立場によって原則を放棄することはやはり好ましくないし、あえて語らないことも必要なのではないかと思うのだ。

参考文献

クリスティーエ、ニルス(2004)齋藤哲訳「理想的な被害者」(『東北学院大学論集 法律学』63号、pp.274-256)。
Meyers, M. (1996) News Coverage of Violence against Women, Sage.

イエスの方舟事件から見る「出会い系バー」報道

読売新聞の「出会い系バー」報道

 加計学園獣医学部設置認可をめぐる疑惑に関連して、前川喜平・前文部科学事務次官の言動がメディアの注目を集めている。

 ここでは獣医学部の件は措いて、同氏の「出会い系バー」をめぐる報道について述べておきたい。もちろん、ぼくが「出会い系バー」に詳しいとか、そういう話ではない。

 事は、5月22日に『読売新聞』が前川氏の「出会い系バー」通いを報道したことに端を発する。

 複数の店の関係者によると、前川前次官は、文部科学審議官だった約2年前からこの店に通っていた。平日の午後9時頃にスーツ姿で来店することが多く、店では偽名を使っていたという。同席した女性と交渉し、連れ立って店外に出たこともあった。店に出入りする女性の一人は「しょっちゅう来ていた時期もあった。値段の交渉をしていた女の子もいるし、私も誘われたことがある」と証言した。

 昨年6月に次官に就いた後も来店していたといい、店の関係者は「2〜3年前から週に1回は店に来る常連だったが、昨年末頃から急に来なくなった」と話している。
 読売新聞は前川前次官に取材を申し込んだが、取材には応じなかった。

 「出会い系バー」や「出会い系喫茶」は売春の温床とも指摘されるが、女性と店の間の雇用関係が不明確なため、摘発は難しいとされる。売春の客になる行為は売春防止法で禁じられているが、罰則はない。


(出典)『読売新聞』2017年5月22日(朝刊)

 『読売新聞』でこの「ニュース」が報じられたのは、加計学園に関する文科省の内部文書を本物だと前川氏が認めたということが報じられるよりも前の時点においてである。

 つまり、一般の読者からすれば、「出会い系バー」報道時における前川氏というのは、文科省の役人が大学に天下りをしたことの責任をとって数ヶ月前に次官を退いた人物でしかない。

 世間的に注目度が高いとは言いづらいこうした人物についての、明確な買春の証拠が提示されているわけでもない報道には、やはり違和感が残る。まあ、何かしらの「事情」があったんだろうなあと推測することは、それほど不合理ではないだろう。

イエスの方舟」事件をめぐる報道

 …すでに話が長くなってきたが、今回の主要なテーマは『読売新聞』の報道というよりも、前川前次官はなぜ「出会い系バー」に通っていたのか、というものである。もちろん、ぼくは同氏と面識があるわけでなし、正確な情報があるわけでもない。メディア報道から得られた間接的な知識しかないことは最初に明記しておく。

 まず、前川氏が「出会い系バー」に通っていた理由として貧困問題の調査を挙げたときには、正直、「ほんまかいな」と思ったことは告白しなくてはならない。と同時に、「これで世間を納得させるのは難しいのではないか」とも感じた。こういう出来事に関して、多くの人は「貧困調査」などよりも「女性とセックスがしたい」という動機解釈に説得力を感じるからだ。

 そこで思い出したのが、イエスの方舟事件である。「イエスの方舟」とは、千石剛賢氏という人物が主宰していた小さな宗教団体であり、多くの女性信者が加わっていた(男性信者もいた)。彼らは1978年4~5月ごろに集団で失踪しているが、『婦人公論』1980年1月号に失踪した女性の母親の手記が掲載され、他のマスメディアの報道が続いたことから、世間的な注目を集めるようになっていく。

 これらの報道では、「イエスの方舟」は「ペテン集団」「邪教」「セックス・ハーレム」とされ、主催者の千石氏については「カネと女に目がない男」「精力絶倫男」というレッテルが貼られた*1。つまるところ、「イエスの方舟」というのは、千石氏が己の性欲を満足させるためにでっち上げたインチキ宗教グループにすぎないとされたのだ。

 ところが、その後、千石氏と信者たちが姿を表して行った証言により、事件の構図は大きく変わっていく。

 新たな構図によれば、信者たちはそれぞれ家族とのトラブルを抱えており、「イエスの方舟」は言わば駆け込み寺的な存在であった。千石氏は信者たちの良き理解者であり、失踪やその後の逃避行も千石氏ではなく、信者の女性たちの主導で行なわれていた。そして、夫婦間を除けば、千石氏や信者たちの間での性的関係はなかったとされる。

 つまり、信者たちにとって千石氏というのは気のいい「おっちゃん」であって、「イエスの方舟」にまつわる数々の「スキャンダル」は世間が作り上げた一種の妄想だったのである。

 ともあれ、こうしたスキャンダルの最中にあっても、『サンデー毎日』のように冷静な報道を行うメディアも存在はしていた。だが、世間はそれを信じなかった。中年男性が何人もの若い女性となぜ共同生活を送っているのかという問いが投げかけられたとき、多くの人びとは「信仰に基づく人助け」という動機解釈よりも、「セックス・ハーレムの形成」という動機解釈に説得力を感じ、それを好んだということだ。

前川前次官の「動機」

 前川前次官の「出会い系バー」通いの話に戻ろう。なかなか信じがたい前川氏による動機の説明であるが、今週発売の『週刊文春』(6月8日号)には、同氏の説明を裏付けるような記事が掲載されている。

 この記事では、前川氏と何度も会っていたというA子さんが証言を行っており、「キャバ嬢になる」と言ったA子さんを同氏が厳しく叱ったことや、高級ブランド店への就職を熱心に応援していたことなどを語っている。A子さんのご両親も前川氏の存在を知っており、結婚式に呼ぶことを勧めるほどだったのだという。

前川氏への信頼がうかがえるA子さん。だが、本当に二人の間に肉体関係はなかったのか。
「ありえないですよ。私、おじさんに興味ないんで。口説かれたこともないし、手を繋いだことすらない。私が紹介した友達とも絶対にないです。いつも一人で前川さん帰っていってましたから。」


(出典)『週刊文春』2017年6月8日号、p.27。

 この記事を読むと、最初は信じづらかった前川氏自身の語る出会い系バー通いの動機が、かなりの説得力を持つように思えてくる。A子さんと前川氏のことを「まえだっち」と呼んでいたそうだが、彼女にとって前川氏は気のいい「おっちゃん」であったのかもしれない。

 もちろん、これは個人の証言に基づく記事にすぎず、別のメディアからがっかりするような前川氏の姿が伝えられる可能性もある。人の心は目に見えない以上、貧困調査とは異なる動機が同氏のなかにうごめいていた可能性を完全には否定できない。また、出会い系バーに通うことが貧困調査の方法として果たして妥当だったのかという点についても議論の余地はあるだろう。

 さらに言えば、文科省による大学への天下り人事については、一大学人としてやはり厳しく批判せねばならない。前川氏の人格に関係なく、やはりそれは「あるべき行政の姿」を歪めたと言わざるをえない。

 そのうえでなお、もし千石剛賢氏と同様、前川氏が気のいい「おっちゃん」であり、しかもそうした人物が文部科学行政のトップにいたとのだとすれば、加計学園をめぐる問題とは無関係に、少し素敵な話ではないかと思える。

*1:*玉木明(1996)『ニュース報道の言語論』洋泉社、p.133。

悲劇がもたらす命

 そろそろDVDも発売になるということで、さすがに『君の名は。』のネタバレをしても許されるだろう。ということで、以下では物語の核心に迫るネタバレがあります。

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 『君の名は。』では、隕石の落下によって巨大な悲劇が発生する。で、なんやかんやあって、主人公とヒロインがもう一度その時間をやり直すことで悲劇の発生を食い止めるのだ。ううむ、二行で説明できてしまった。我ながら恐るべき要約力。

 それはさておき、この映画を見て考えたことがある。

 隕石の落下によっていったんは多くの人命が損なわれている。おそらくは隕石落下直後には、多くのボランティアが被災地を訪問し、生活支援を行ったことだろう。

 そのなかに若い男女がいたとしよう。二人はすぐに恋に落ち、やがて子どもが生まれた。幸せいっぱいの新しい家族の誕生である。

 ところが、そこに現われたのが、われらが主人公とヒロインである。二人の大活躍により、悲劇は回避された。悲劇が起きていたならば出会ったはずのボランティア二人は、お互いの存在すらも知らないままで生活を続ける。当然、二人のあいだに生まれたはずの子どもは最初からいないことになる。

 悲劇の発生を前提とした子ども。その消滅は果たして喜ぶべきことなのか…

 …というのは、単なるぼくの妄想である。

 ところが、たまたまウィンストン・チャーチル第二次世界大戦』(第4巻)を読んでいて、この妄想を思い出した。以下、少し長くなるが、同書から引用してみたい。米国での原爆実験が成功したという知らせをチャーチルが聞いたときの記述である。

このときまで、われわれは激烈な空襲と大部隊の進攻とによって日本本土を攻撃するという考えを固めていた。まっとうな戦闘においてのみならず、あらゆる穴や防空壕においても、サムライの捨身精神で死ぬまで戦う日本軍の無謀な抵抗のことを、われわれは考えていた。私の心には沖縄の情景が浮かんでいた。そこでは数千名の日本人が、指揮官達がハラキリの儀式を荘重に行なった後、降伏を選ばずに一列になって手榴弾で自爆する光景であった。日本軍の抵抗を一人ずつ押え、その国土を一歩ずつ征服するには、百万のアメリカ兵の命とその半数のイギリス兵の生命を犠牲にする必要があるかもしれなかった。(中略)

いまやこの悪魔のような情景はすっかり消えてしまった。それに代わって、一、二回の激烈な衝撃のうちに全戦争が終結する光景が浮かんだ。それは実際、快く輝かしいものに思われた。私が瞬間に思い浮かべたのは、私が常にその勇気に感嘆してきた日本人が、このほとんど超自然的な兵器の出現のなかに彼らの名誉を救う口実を見いだし、最後の一人まで戦って戦死するという義務から免れるだろうということだった。


(出典)ウィンストン・チャーチル、佐藤亮一訳(1984)『第二次世界大戦 4』河出書房新社、pp.432-433。

 もちろん、この引用をもって「原爆投下は正しかった」と言いたいわけではない。このチャーチルの記述に、連合国の首脳の一人として原爆投下を正当化したいという願望が反映されていることは疑いえないだろう。

 ただ、それとは別に、やはり考えてしまうことはある。もし仮に原爆が投下されず、日本政府が本土決戦を選択したら何が起きていたか。

 当時、まだ幼かったぼくの母は九州にいた。米国と英国が計画していた作戦によれば、まずは九州南部に軍を上陸させる予定だったようだ。戦闘が始まれば母もそれに巻き込まれていたかもしれない。

 また当時、ぼくの祖父は徴兵に取られて名古屋にいたと聞いている。本土決戦ともなれば、祖父が戦死した可能性は相当に高い。ぼくの父はもう生まれていたが、祖父が戦死していれば、その後の人生は大きく変化したことだろう。おそらく母と出会う機会もなかったはずだ。

 しかし、トルーマン大統領は原爆実験成功の報を聞き、本土上陸作戦の中止を決定する。そして、広島と長崎に原爆が投下され、ソ連が参戦したこともあり、日本政府はポツダム宣言を受託した。

 言うまでもなく、人生には偶然が満ちており、さまざまな要素が影響を及ぼしあいながらその行く先を決めていく。それらの要素のなかで、原爆投下や本土決戦の中止だけを重視するのは恣意的と言えるかもしれない。けれども、やはりこの二つの歴史的出来事があったからこそ、ぼくは存在できていると言うことにそれほど間違いはないはずだ。ぼくの命は、間接的にではあれ、大いなる悲劇によってもたらされた。

 繰り返しにはなるが、だから「原爆投下は正しかった」と言いたいわけではないし、そんなことを言うつもりは決してない。また、このエントリになにか明確な結論があるわけでもない。

 ただ、自分の命が巨大な悲劇のうえに成り立っているということを改めて認識したというだけの話である。

偽物の愛国心?

ジョンソンによる警句の背景

 先日のエントリについて、サミュエル・ジョンソンに関する説明が足りないのではないか、という指摘を受けた。そこで補足を…と思ったのだが、残念ながらぼくは18世紀の英国について専門的に研究しているわけではない。

 そこで手抜きではあるが、ローハン・マックウィリアム『19世紀イギリスの民衆と政治文化』(昭和堂、2004年)という著作から、ジョンソンに関する記述を引用してみたい。

18世紀および19世紀の大半を通じて、愛国主義は急進主義の基礎となるイデオロギーと、エリートたちを攻撃することができる反対派の言葉を構成していた。エリートが利己的で国を愛する気持ちを持たないものとみなされる一方、急進主義者は国の繁栄を気づかう高貴な精神の持ち主であると主張することができた。(中略)
トーリ党の支持者であったジョンソン博士が「愛国主義は不埒なやつらの最後の隠れ家だ」と不満を述べたとき、彼はまぎれもなく急進主義者を攻撃していた。18世紀の急進的な愛国主義は反カトリック帝国主義、外国人への敵意などさまざまな形をとった。逆に、エリートたちは愛国主義が市民の権利にかかわるさまざまな主張に汚染されていたために、その言葉を用いることにためらいがあった。
(出典)ローハン・マックウィリアム、松塚俊三訳(1998=2004)『19世紀イギリスの民衆と政治文化』昭和堂、pp.150-151。

 少し補足をしておくと、ここで言う急進主義とは、つまるところ「民衆の政治参加」を求める立場である。急進主義者に言わせれば、当時の英国の政治を牛耳っていた王族や貴族たちエリートは自分たちの利益ばかりを追求し、国全体のことなど考えていない。自分たちこそが「真の愛国者」だというのである。

 それに対して、ジョンソンは急進主義的な「愛国者」こそ、国に対する本当の愛を持たず、自己利益を追求していると批判しているのだ。引用文に示されるように、ジョンソンが肩入れしている側は「愛国主義愛国心(patriotism)」という言葉を使いづらいという状況はあったにせよ、対立する党派がそれぞれに「われこそが真の愛国者」であり、「彼らは偽の愛国者」だと主張していたのである。

 実際、ジョンソンは「不埒なやつらの…」という警句を発する前年の1774年、「愛国者」という演説を行い、そのなかで「真の愛国者」と「偽の愛国者」という区別を試みている。その一部を紹介しておこう。

真の愛国者は気前のよい約束をしない。彼は議会の会期を短縮したり、法を無効にしたり、われわれの祖先から受け継がれてきた代表制を変化させようとはしない。彼は未来が自分の思うままにはならないことや、変化がいつかなるときも好ましいものとは限らないことを知っているのだ。(中略)
権利が奪われているものとして自らの国を見たがる人物は、愛国者たりえない。したがって、アメリカに対する権利侵害などという馬鹿げた主張を正当化する者は愛国者ではないのだ。彼らはわれわれ自身の植民地に対する自然かつ合法的な権威を国民から奪おうと試みている。それら植民地は英国の保護のもとで安定し、英国の憲章によって統治され、そして英国の武力によって防衛されてきたのだ。
(出典)http://www.samueljohnson.com/thepatriot.html

 要するに、既存の身分制秩序を守り、植民地(アメリカ)からの権利要求など相手にしない人物こそが、ジョンソンの言うところの「真の愛国者」なのであり、それと意見を異にする者はいくら愛国心などと口にしていたとしても「偽の愛国者」でしかない、ということになるだろう。

 現代から見ると、ジョンソンのこうした区別はずいぶんと恣意的に見えるのではないだろうか。自分と意見が同じくする人物は「真の愛国者」であるが、異なる人物は「偽の愛国者」でしかない、というのはちょっと都合が良すぎるように思える。

ナショナリズムの変化

 ここで少し大きな話をすると、19世紀後半にナショナリズムの性質が変わったというのは、ナショナリズム研究ではしばしば指摘されるところだ。19世紀前半までナショナリズムは、まさに上述のような急進的立場をとることが多かったと言われる。

 初期のナショナリズムは平等主義的な性格を帯びることが多く、王族も貴族も平民もみな「同じ国民」なのだという前提のもと、民衆の政治参加を求める声と結びつきやすかった。他方、伝統的な身分制度に従って統治を行うエリートたちにとって、みなが「同じ国民」という発想は好ましいものではないから、ナショナリズムに対しては懐疑的にならざるをえない。

 ところが、19世紀後半になると、ナショナリズムは国家統治のためのイデオロギーとして活用されるようになる。ヒュー・シートン=ワトソンやベネディクト・アンダーソンが言うところの「公定ナショナリズム」が出現し、愛国主義とはすなわち国家の統治に服することであるという発想が強くなっていく。そのあたりから保守主義愛国主義とは強く結びつくようになる。

 もっとも、それ以後も愛国主義がつねに保守主義とだけ結びついてきたわけではない。既存の国家体制に批判的な人びとが愛国主義を標榜することは決して珍しくなかった。日本においても戦後のある時期まで革新勢力愛国主義とが強く結びついていたことは、磯田光一『戦後史の空間』(新潮社、1993年)や小熊英二『民主と愛国』(新曜社、2002年)に詳しい。

「真の愛国」が言論を抑圧するとき

 いずれにしても明らかなのは、何をもって「愛国」とし、誰をもって「愛国者」とするのかは、その人がよってたつ政治的立場によって強く規定されるということだ。平等を重視する人と競争がもたらす活力を重視する人、国際協調を重視する人と軍事力による覇権を重視する人、それぞれに「何が国にとって良いこと」なのかについて考えが異なるのは当たり前のことだ。

 ところが、「われこそは愛国者」と考える人は、政治的立場や認識の違いをしばしば愛国心の有無や、真の愛国/偽の愛国といった図式へと置き換えてしまう。そしてそれは、時に言論の自由すらも脅かすことになる。

 英国の作家ジョージ・オーウェルが書いた有名な小説に『動物農場』がある。この小説のあとがきとして「新聞の自由」という小論が付されている。この小論によると、第二次世界大戦時の英国では、ご多分に漏れず言論の自由には制約が課せられるようになっていた。そこでは、「民主主義は全体主義的手法によってのみ防衛されうる」という主張が展開されるようになったという。

 その主張に従うなら、民主主義を守るためにはいかなる手段を用いてでも敵を殲滅しなくてはならない。それでは、その敵とはいったい誰のことか?そこには、民主主義をあからさまに、意識的に攻撃する人物のみならず、誤った思想を広めることで民主主義を「客観的に」危機にさらす人物も含まれるのだという。

 つまり、本人にはそんなつもりは全くなかったとしても、「客観的に」誤った思想を抱いているのであれば、その人物の言論は危険であり、抑圧されてしかるべきというのだ。オーウェルに言わせれば、そうした発想は思考の独立性を破壊することにほかならない。

 「真の愛国/偽の愛国」という文脈で言えば、いくら本人としては国のために発言していたとしても、異なる政治的立場からすればそれは偽の愛国でしかなくなる。それが国家にとって有害であるならば、抑制されるべき言論ということにもなりかねない。ヘイトスピーチのようにマイノリティの権利を直接に侵害する言論でもない限り、「客観的に見て、お前の主張は国益に反する」といった類の威嚇は、言論の自由にとって大きな脅威になるだろう。

 話をまとめるなら、少なくとも政治的な議論においては、語り手の「愛国心の有無」を問うたり、「真の愛国/偽の愛国」といった対立軸を持ち出したところで、生産的な結果が得られることはまずない。むしろ必要なのは、そういう「心」の問題は措いて、それぞれの立場や意見の違いをクールに話し合うことではないだろうか。