擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

イエスの方舟事件から見る「出会い系バー」報道

読売新聞の「出会い系バー」報道

 加計学園獣医学部設置認可をめぐる疑惑に関連して、前川喜平・前文部科学事務次官の言動がメディアの注目を集めている。

 ここでは獣医学部の件は措いて、同氏の「出会い系バー」をめぐる報道について述べておきたい。もちろん、ぼくが「出会い系バー」に詳しいとか、そういう話ではない。

 事は、5月22日に『読売新聞』が前川氏の「出会い系バー」通いを報道したことに端を発する。

 複数の店の関係者によると、前川前次官は、文部科学審議官だった約2年前からこの店に通っていた。平日の午後9時頃にスーツ姿で来店することが多く、店では偽名を使っていたという。同席した女性と交渉し、連れ立って店外に出たこともあった。店に出入りする女性の一人は「しょっちゅう来ていた時期もあった。値段の交渉をしていた女の子もいるし、私も誘われたことがある」と証言した。

 昨年6月に次官に就いた後も来店していたといい、店の関係者は「2〜3年前から週に1回は店に来る常連だったが、昨年末頃から急に来なくなった」と話している。
 読売新聞は前川前次官に取材を申し込んだが、取材には応じなかった。

 「出会い系バー」や「出会い系喫茶」は売春の温床とも指摘されるが、女性と店の間の雇用関係が不明確なため、摘発は難しいとされる。売春の客になる行為は売春防止法で禁じられているが、罰則はない。


(出典)『読売新聞』2017年5月22日(朝刊)

 『読売新聞』でこの「ニュース」が報じられたのは、加計学園に関する文科省の内部文書を本物だと前川氏が認めたということが報じられるよりも前の時点においてである。

 つまり、一般の読者からすれば、「出会い系バー」報道時における前川氏というのは、文科省の役人が大学に天下りをしたことの責任をとって数ヶ月前に次官を退いた人物でしかない。

 世間的に注目度が高いとは言いづらいこうした人物についての、明確な買春の証拠が提示されているわけでもない報道には、やはり違和感が残る。まあ、何かしらの「事情」があったんだろうなあと推測することは、それほど不合理ではないだろう。

イエスの方舟」事件をめぐる報道

 …すでに話が長くなってきたが、今回の主要なテーマは『読売新聞』の報道というよりも、前川前次官はなぜ「出会い系バー」に通っていたのか、というものである。もちろん、ぼくは同氏と面識があるわけでなし、正確な情報があるわけでもない。メディア報道から得られた間接的な知識しかないことは最初に明記しておく。

 まず、前川氏が「出会い系バー」に通っていた理由として貧困問題の調査を挙げたときには、正直、「ほんまかいな」と思ったことは告白しなくてはならない。と同時に、「これで世間を納得させるのは難しいのではないか」とも感じた。こういう出来事に関して、多くの人は「貧困調査」などよりも「女性とセックスがしたい」という動機解釈に説得力を感じるからだ。

 そこで思い出したのが、イエスの方舟事件である。「イエスの方舟」とは、千石剛賢氏という人物が主宰していた小さな宗教団体であり、多くの女性信者が加わっていた(男性信者もいた)。彼らは1978年4~5月ごろに集団で失踪しているが、『婦人公論』1980年1月号に失踪した女性の母親の手記が掲載され、他のマスメディアの報道が続いたことから、世間的な注目を集めるようになっていく。

 これらの報道では、「イエスの方舟」は「ペテン集団」「邪教」「セックス・ハーレム」とされ、主催者の千石氏については「カネと女に目がない男」「精力絶倫男」というレッテルが貼られた*1。つまるところ、「イエスの方舟」というのは、千石氏が己の性欲を満足させるためにでっち上げたインチキ宗教グループにすぎないとされたのだ。

 ところが、その後、千石氏と信者たちが姿を表して行った証言により、事件の構図は大きく変わっていく。

 新たな構図によれば、信者たちはそれぞれ家族とのトラブルを抱えており、「イエスの方舟」は言わば駆け込み寺的な存在であった。千石氏は信者たちの良き理解者であり、失踪やその後の逃避行も千石氏ではなく、信者の女性たちの主導で行なわれていた。そして、夫婦間を除けば、千石氏や信者たちの間での性的関係はなかったとされる。

 つまり、信者たちにとって千石氏というのは気のいい「おっちゃん」であって、「イエスの方舟」にまつわる数々の「スキャンダル」は世間が作り上げた一種の妄想だったのである。

 ともあれ、こうしたスキャンダルの最中にあっても、『サンデー毎日』のように冷静な報道を行うメディアも存在はしていた。だが、世間はそれを信じなかった。中年男性が何人もの若い女性となぜ共同生活を送っているのかという問いが投げかけられたとき、多くの人びとは「信仰に基づく人助け」という動機解釈よりも、「セックス・ハーレムの形成」という動機解釈に説得力を感じ、それを好んだということだ。

前川前次官の「動機」

 前川前次官の「出会い系バー」通いの話に戻ろう。なかなか信じがたい前川氏による動機の説明であるが、今週発売の『週刊文春』(6月8日号)には、同氏の説明を裏付けるような記事が掲載されている。

 この記事では、前川氏と何度も会っていたというA子さんが証言を行っており、「キャバ嬢になる」と言ったA子さんを同氏が厳しく叱ったことや、高級ブランド店への就職を熱心に応援していたことなどを語っている。A子さんのご両親も前川氏の存在を知っており、結婚式に呼ぶことを勧めるほどだったのだという。

前川氏への信頼がうかがえるA子さん。だが、本当に二人の間に肉体関係はなかったのか。
「ありえないですよ。私、おじさんに興味ないんで。口説かれたこともないし、手を繋いだことすらない。私が紹介した友達とも絶対にないです。いつも一人で前川さん帰っていってましたから。」


(出典)『週刊文春』2017年6月8日号、p.27。

 この記事を読むと、最初は信じづらかった前川氏自身の語る出会い系バー通いの動機が、かなりの説得力を持つように思えてくる。A子さんと前川氏のことを「まえだっち」と呼んでいたそうだが、彼女にとって前川氏は気のいい「おっちゃん」であったのかもしれない。

 もちろん、これは個人の証言に基づく記事にすぎず、別のメディアからがっかりするような前川氏の姿が伝えられる可能性もある。人の心は目に見えない以上、貧困調査とは異なる動機が同氏のなかにうごめいていた可能性を完全には否定できない。また、出会い系バーに通うことが貧困調査の方法として果たして妥当だったのかという点についても議論の余地はあるだろう。

 さらに言えば、文科省による大学への天下り人事については、一大学人としてやはり厳しく批判せねばならない。前川氏の人格に関係なく、やはりそれは「あるべき行政の姿」を歪めたと言わざるをえない。

 そのうえでなお、もし千石剛賢氏と同様、前川氏が気のいい「おっちゃん」であり、しかもそうした人物が文部科学行政のトップにいたとのだとすれば、加計学園をめぐる問題とは無関係に、少し素敵な話ではないかと思える。

*1:*玉木明(1996)『ニュース報道の言語論』洋泉社、p.133。

悲劇がもたらす命

 そろそろDVDも発売になるということで、さすがに『君の名は。』のネタバレをしても許されるだろう。ということで、以下では物語の核心に迫るネタバレがあります。

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 『君の名は。』では、隕石の落下によって巨大な悲劇が発生する。で、なんやかんやあって、主人公とヒロインがもう一度その時間をやり直すことで悲劇の発生を食い止めるのだ。ううむ、二行で説明できてしまった。我ながら恐るべき要約力。

 それはさておき、この映画を見て考えたことがある。

 隕石の落下によっていったんは多くの人命が損なわれている。おそらくは隕石落下直後には、多くのボランティアが被災地を訪問し、生活支援を行ったことだろう。

 そのなかに若い男女がいたとしよう。二人はすぐに恋に落ち、やがて子どもが生まれた。幸せいっぱいの新しい家族の誕生である。

 ところが、そこに現われたのが、われらが主人公とヒロインである。二人の大活躍により、悲劇は回避された。悲劇が起きていたならば出会ったはずのボランティア二人は、お互いの存在すらも知らないままで生活を続ける。当然、二人のあいだに生まれたはずの子どもは最初からいないことになる。

 悲劇の発生を前提とした子ども。その消滅は果たして喜ぶべきことなのか…

 …というのは、単なるぼくの妄想である。

 ところが、たまたまウィンストン・チャーチル第二次世界大戦』(第4巻)を読んでいて、この妄想を思い出した。以下、少し長くなるが、同書から引用してみたい。米国での原爆実験が成功したという知らせをチャーチルが聞いたときの記述である。

このときまで、われわれは激烈な空襲と大部隊の進攻とによって日本本土を攻撃するという考えを固めていた。まっとうな戦闘においてのみならず、あらゆる穴や防空壕においても、サムライの捨身精神で死ぬまで戦う日本軍の無謀な抵抗のことを、われわれは考えていた。私の心には沖縄の情景が浮かんでいた。そこでは数千名の日本人が、指揮官達がハラキリの儀式を荘重に行なった後、降伏を選ばずに一列になって手榴弾で自爆する光景であった。日本軍の抵抗を一人ずつ押え、その国土を一歩ずつ征服するには、百万のアメリカ兵の命とその半数のイギリス兵の生命を犠牲にする必要があるかもしれなかった。(中略)

いまやこの悪魔のような情景はすっかり消えてしまった。それに代わって、一、二回の激烈な衝撃のうちに全戦争が終結する光景が浮かんだ。それは実際、快く輝かしいものに思われた。私が瞬間に思い浮かべたのは、私が常にその勇気に感嘆してきた日本人が、このほとんど超自然的な兵器の出現のなかに彼らの名誉を救う口実を見いだし、最後の一人まで戦って戦死するという義務から免れるだろうということだった。


(出典)ウィンストン・チャーチル、佐藤亮一訳(1984)『第二次世界大戦 4』河出書房新社、pp.432-433。

 もちろん、この引用をもって「原爆投下は正しかった」と言いたいわけではない。このチャーチルの記述に、連合国の首脳の一人として原爆投下を正当化したいという願望が反映されていることは疑いえないだろう。

 ただ、それとは別に、やはり考えてしまうことはある。もし仮に原爆が投下されず、日本政府が本土決戦を選択したら何が起きていたか。

 当時、まだ幼かったぼくの母は九州にいた。米国と英国が計画していた作戦によれば、まずは九州南部に軍を上陸させる予定だったようだ。戦闘が始まれば母もそれに巻き込まれていたかもしれない。

 また当時、ぼくの祖父は徴兵に取られて名古屋にいたと聞いている。本土決戦ともなれば、祖父が戦死した可能性は相当に高い。ぼくの父はもう生まれていたが、祖父が戦死していれば、その後の人生は大きく変化したことだろう。おそらく母と出会う機会もなかったはずだ。

 しかし、トルーマン大統領は原爆実験成功の報を聞き、本土上陸作戦の中止を決定する。そして、広島と長崎に原爆が投下され、ソ連が参戦したこともあり、日本政府はポツダム宣言を受託した。

 言うまでもなく、人生には偶然が満ちており、さまざまな要素が影響を及ぼしあいながらその行く先を決めていく。それらの要素のなかで、原爆投下や本土決戦の中止だけを重視するのは恣意的と言えるかもしれない。けれども、やはりこの二つの歴史的出来事があったからこそ、ぼくは存在できていると言うことにそれほど間違いはないはずだ。ぼくの命は、間接的にではあれ、大いなる悲劇によってもたらされた。

 繰り返しにはなるが、だから「原爆投下は正しかった」と言いたいわけではないし、そんなことを言うつもりは決してない。また、このエントリになにか明確な結論があるわけでもない。

 ただ、自分の命が巨大な悲劇のうえに成り立っているということを改めて認識したというだけの話である。

偽物の愛国心?

ジョンソンによる警句の背景

 先日のエントリについて、サミュエル・ジョンソンに関する説明が足りないのではないか、という指摘を受けた。そこで補足を…と思ったのだが、残念ながらぼくは18世紀の英国について専門的に研究しているわけではない。

 そこで手抜きではあるが、ローハン・マックウィリアム『19世紀イギリスの民衆と政治文化』(昭和堂、2004年)という著作から、ジョンソンに関する記述を引用してみたい。

18世紀および19世紀の大半を通じて、愛国主義は急進主義の基礎となるイデオロギーと、エリートたちを攻撃することができる反対派の言葉を構成していた。エリートが利己的で国を愛する気持ちを持たないものとみなされる一方、急進主義者は国の繁栄を気づかう高貴な精神の持ち主であると主張することができた。(中略)
トーリ党の支持者であったジョンソン博士が「愛国主義は不埒なやつらの最後の隠れ家だ」と不満を述べたとき、彼はまぎれもなく急進主義者を攻撃していた。18世紀の急進的な愛国主義は反カトリック帝国主義、外国人への敵意などさまざまな形をとった。逆に、エリートたちは愛国主義が市民の権利にかかわるさまざまな主張に汚染されていたために、その言葉を用いることにためらいがあった。
(出典)ローハン・マックウィリアム、松塚俊三訳(1998=2004)『19世紀イギリスの民衆と政治文化』昭和堂、pp.150-151。

 少し補足をしておくと、ここで言う急進主義とは、つまるところ「民衆の政治参加」を求める立場である。急進主義者に言わせれば、当時の英国の政治を牛耳っていた王族や貴族たちエリートは自分たちの利益ばかりを追求し、国全体のことなど考えていない。自分たちこそが「真の愛国者」だというのである。

 それに対して、ジョンソンは急進主義的な「愛国者」こそ、国に対する本当の愛を持たず、自己利益を追求していると批判しているのだ。引用文に示されるように、ジョンソンが肩入れしている側は「愛国主義愛国心(patriotism)」という言葉を使いづらいという状況はあったにせよ、対立する党派がそれぞれに「われこそが真の愛国者」であり、「彼らは偽の愛国者」だと主張していたのである。

 実際、ジョンソンは「不埒なやつらの…」という警句を発する前年の1774年、「愛国者」という演説を行い、そのなかで「真の愛国者」と「偽の愛国者」という区別を試みている。その一部を紹介しておこう。

真の愛国者は気前のよい約束をしない。彼は議会の会期を短縮したり、法を無効にしたり、われわれの祖先から受け継がれてきた代表制を変化させようとはしない。彼は未来が自分の思うままにはならないことや、変化がいつかなるときも好ましいものとは限らないことを知っているのだ。(中略)
権利が奪われているものとして自らの国を見たがる人物は、愛国者たりえない。したがって、アメリカに対する権利侵害などという馬鹿げた主張を正当化する者は愛国者ではないのだ。彼らはわれわれ自身の植民地に対する自然かつ合法的な権威を国民から奪おうと試みている。それら植民地は英国の保護のもとで安定し、英国の憲章によって統治され、そして英国の武力によって防衛されてきたのだ。
(出典)http://www.samueljohnson.com/thepatriot.html

 要するに、既存の身分制秩序を守り、植民地(アメリカ)からの権利要求など相手にしない人物こそが、ジョンソンの言うところの「真の愛国者」なのであり、それと意見を異にする者はいくら愛国心などと口にしていたとしても「偽の愛国者」でしかない、ということになるだろう。

 現代から見ると、ジョンソンのこうした区別はずいぶんと恣意的に見えるのではないだろうか。自分と意見が同じくする人物は「真の愛国者」であるが、異なる人物は「偽の愛国者」でしかない、というのはちょっと都合が良すぎるように思える。

ナショナリズムの変化

 ここで少し大きな話をすると、19世紀後半にナショナリズムの性質が変わったというのは、ナショナリズム研究ではしばしば指摘されるところだ。19世紀前半までナショナリズムは、まさに上述のような急進的立場をとることが多かったと言われる。

 初期のナショナリズムは平等主義的な性格を帯びることが多く、王族も貴族も平民もみな「同じ国民」なのだという前提のもと、民衆の政治参加を求める声と結びつきやすかった。他方、伝統的な身分制度に従って統治を行うエリートたちにとって、みなが「同じ国民」という発想は好ましいものではないから、ナショナリズムに対しては懐疑的にならざるをえない。

 ところが、19世紀後半になると、ナショナリズムは国家統治のためのイデオロギーとして活用されるようになる。ヒュー・シートン=ワトソンやベネディクト・アンダーソンが言うところの「公定ナショナリズム」が出現し、愛国主義とはすなわち国家の統治に服することであるという発想が強くなっていく。そのあたりから保守主義愛国主義とは強く結びつくようになる。

 もっとも、それ以後も愛国主義がつねに保守主義とだけ結びついてきたわけではない。既存の国家体制に批判的な人びとが愛国主義を標榜することは決して珍しくなかった。日本においても戦後のある時期まで革新勢力愛国主義とが強く結びついていたことは、磯田光一『戦後史の空間』(新潮社、1993年)や小熊英二『民主と愛国』(新曜社、2002年)に詳しい。

「真の愛国」が言論を抑圧するとき

 いずれにしても明らかなのは、何をもって「愛国」とし、誰をもって「愛国者」とするのかは、その人がよってたつ政治的立場によって強く規定されるということだ。平等を重視する人と競争がもたらす活力を重視する人、国際協調を重視する人と軍事力による覇権を重視する人、それぞれに「何が国にとって良いこと」なのかについて考えが異なるのは当たり前のことだ。

 ところが、「われこそは愛国者」と考える人は、政治的立場や認識の違いをしばしば愛国心の有無や、真の愛国/偽の愛国といった図式へと置き換えてしまう。そしてそれは、時に言論の自由すらも脅かすことになる。

 英国の作家ジョージ・オーウェルが書いた有名な小説に『動物農場』がある。この小説のあとがきとして「新聞の自由」という小論が付されている。この小論によると、第二次世界大戦時の英国では、ご多分に漏れず言論の自由には制約が課せられるようになっていた。そこでは、「民主主義は全体主義的手法によってのみ防衛されうる」という主張が展開されるようになったという。

 その主張に従うなら、民主主義を守るためにはいかなる手段を用いてでも敵を殲滅しなくてはならない。それでは、その敵とはいったい誰のことか?そこには、民主主義をあからさまに、意識的に攻撃する人物のみならず、誤った思想を広めることで民主主義を「客観的に」危機にさらす人物も含まれるのだという。

 つまり、本人にはそんなつもりは全くなかったとしても、「客観的に」誤った思想を抱いているのであれば、その人物の言論は危険であり、抑圧されてしかるべきというのだ。オーウェルに言わせれば、そうした発想は思考の独立性を破壊することにほかならない。

 「真の愛国/偽の愛国」という文脈で言えば、いくら本人としては国のために発言していたとしても、異なる政治的立場からすればそれは偽の愛国でしかなくなる。それが国家にとって有害であるならば、抑制されるべき言論ということにもなりかねない。ヘイトスピーチのようにマイノリティの権利を直接に侵害する言論でもない限り、「客観的に見て、お前の主張は国益に反する」といった類の威嚇は、言論の自由にとって大きな脅威になるだろう。

 話をまとめるなら、少なくとも政治的な議論においては、語り手の「愛国心の有無」を問うたり、「真の愛国/偽の愛国」といった対立軸を持ち出したところで、生産的な結果が得られることはまずない。むしろ必要なのは、そういう「心」の問題は措いて、それぞれの立場や意見の違いをクールに話し合うことではないだろうか。

「愛国教育」の行き着くところ

 愛国的な教育を標榜する小学校が大きな話題になっている。

 森友学園による元国有地の取得価格が安すぎるのではないかという疑惑に端を発して、さまざまな問題が語られている。言うまでもなく、国有地の取得過程や同学園の教育内容に関して、語りうる資格をぼくは持たない。あえて言うとすれば、子どもたちが健やかな環境のもとで学んでいけるよう決着させることが大人としての責任だろう。

 このエントリで取り上げたいのは、森友学園の籠池理事長がTBSラジオの番組である『荻上チキ・Session-22』に出演したさいに語った内容についてだ。籠池氏が語った内容については、その音声および抄録の書き起こしが公開されているので、興味のある方はそちらを参照されたい。

 籠池氏は冒頭、自分たちは子どもたちに「性善説」を教えていると語っている(先の書き起こしには未収録)。同氏の言う「性善説」の定義は定かではないが、文脈から言って「人は善意で行動する生き物だ」というぐらいの意味だろう。要するに、「自分もまた善意で動いているのであり、勘ぐられるような悪意ある行為などしていない」ということなのではないかと思う。

 ところがその直後、国有地の取得価格の公表を求めた木村真市議や、この問題が大きな注目を集めた契機となる報道をした朝日新聞の話になると、籠池氏は唐突に「性善説」を放棄する。彼らの批判は「するため」のものでしかない、つまりイチャモンをつけることが目的であって、国有地云々というのは難癖でしかないというのだ。そしてその背後には、衆議院議員に立候補したいという功名心や愛国心教育の阻止といった動機があると示唆する。

 自分たちは善意にもとづいて行動するが、自分たちと敵対する人びとは悪意によってのみ行動する。言い換えれば、自分たちは愛国者だが、敵対する人びとは非愛国者であるか、外国の手先でしかない。こうした認識に、ある種の愛国心に内在する問題があらわれているようにも思える。以下では、この点について論じてみたい。

愛と差別の関係

 『想像の共同体』などの著作で知られるナショナリズム研究者ベネディクト・アンダーソンは、ナショナリズムをわりと肯定的に評価している。たとえば彼は、ナショナリズムが同胞への愛に基づいているのに対して、人種主義は他の人種への差別に依拠していると論じる。

 ところが、この分類に対しては批判もある。愛と差別は簡単には切り離せないというのだ。ありがちなフィクションのストーリーを例に考えてみよう。

 主人公とヒロインとは深い愛情で結びついているが、普段はその感情をなかなか素直に表現することができない。ところが、ヒロインは悪の組織の手に落ちてしまう。主人公はそこでヒロインに対する深い愛を確認し、危険をおかして救出に向かう。

 この例に示されるように、愛がもっとも燃え上がるのは、その対象が脅威にさらされているときにほかならない。もちろん、自然災害や病気のように明確な敵が存在しない脅威も存在する。けれども多くの場合、脅威をもたらしているとされるのは、特定の人物あるいは集団だ。だからこそ、愛の強さは憎しみによってブーストされる。愛国心は、外国からの脅威に自国が晒されているときに、もっとも燃え上がりやすいのだ。

 それゆえ、愛国心を表明するにあたっては、敵の存在を強調することが手っ取り早い手段となる。そして、こうした手段への依存が深まるほど、敵の存在なくしては愛国心を表明することが困難になってしまう。愛よりも憎しみが前に出てしまうのだ。

 加えて、敵の存在を意識すればするほど、その人は陰謀論に絡め取られやすくなる。敵対的な連中は互いに手を結んでおり、自分たちを陥れるための陰謀をつねに張り巡らせているという世界観に近づいていく。籠池氏による「外国人がわれわれを陥れるために、幼稚園に子どもを入学させた」という主張は、典型的な陰謀論的発想のあらわれと言えよう。

公の場で語られる「愛」は偽善になる

 愛国心には、もう一つやっかいな問題がある。それを公の場で語ることの難しさだ。

 もともと、愛というのはきわめてプライベートな心情であり、公の場でそれを語る人物には、どうしても「うさんくささ」がつきまとう。この点について、政治哲学者のハンナ・アレントは次のように述べている。

友情と異なって、愛は、それが公的に曝される瞬間に殺され、あるいはむしろ消えてしまう。(「汝の愛を語らんとすることなかれ/愛は語ること能わざるものなればなり」)。愛はそれに固有の無世界性ゆえに、世界の変革とか世界の救済のような政治的目的に用いられるとき、ただの偽りとなり、堕落するだけである。
(出典)ハンナ・アレント、志水速雄訳(1958=1994)『人間の条件』ちくま学芸文庫、p.77。

 公の場で愛を語ることは、その瞬間に自己PRや自己正当化といった別の動機を呼び込んでしまう。だからこそ、無償の愛の背後には私的な利益が潜んでいるのではないかという猜疑心も生じやすくなる。人の心のなかを覗くことはできないからだ。

 実際、今回の森友学園の一件に関しても、「愛国心はならず者の最後の隠れ家(Patriotism is the last refuge of a scoundrel)」という有名な警句を引用している人を見かける。18世紀のイギリスの文学者であるサミュエル・ジョンソンの言葉だが、これは愛国心の存在を否定するものではない。

 この言葉が登場するのは、ジョンソン自身の著作ではなく、ジェイムズ・ボズウェルによるジョンソンの伝記『サミュエル・ジョンソン伝』(1775年)だ。これを紐解くと、ジョンソンが批判していたのは、「われわれの国に対する本物の惜しみない愛」ではなく「自己利益を覆い隠すために取り繕う、うわべだけの愛国心」だということがわかる(1934年版、p.348)。つまり、ジョンソンは愛国心なるものが存在することは否定していないが、それが利己的な人物によって詐称されうることを指摘しているわけだ。こうしたジョンソンの警句にも示されるように、「われこそは愛国者なり」という表明は、偽善者という非難を呼び込みやすい。

 そこで登場するのが、自分たちと敵対する人びとの利己性を殊更に強調するという手法だ。この手法を使えば、自分たちは愛国心に満ちた無私の存在だという気恥ずかしい自己提示を行うことなく、自らの利他性をアピールすることができる。「あいつらは自分のことしか考えてない」という非難をする人物は、「自分はみんなの利益を考えている」というメッセージを暗黙のうちに伝えているのだ。籠池氏が木村市議の利己性(衆議院議員になるための功名心)を訴えるのは、自己の利他性を強調するためのレトリックだと考えることができる。

 このように、自らの愛国心の強さをアピールしたい人にとって、利己的な人物は必要不可欠な存在である。「利己的な非愛国者」がいることで初めて、愛国者としての自らの存在が際立つからだ。もし仮に、社会の多くの成員が愛国心に燃えるような状況が生まれたとしても、彼らはどうにかして「愛国心の弱い人びと」を見つけ出し、糾弾することによって自らの愛国心を顕示し続けねばならないのである。

善悪二元論的世界観の拡大?

 まとめるなら、ここで語ったタイプの愛国心は、「われわれ」の利他性を(暗黙のうちに)標榜する一方で、「彼ら」の利己性を最大限に強調し、それを憎悪する。「彼ら」の殲滅あるいは改心を求めているにもかかわらず、実際には自らを愛国者として定義し続けるために「彼ら」の存在に深く依存している。朝日新聞の廃刊を求めながらも、実は「朝日新聞的なもの」をどこまでも必要としている、と言ってもいいかもしれない。

 しかし、「われわれ」には「性善説」を適用し、「彼ら」には「性悪説」を適用して事足りるという世界観はやはり不自然だし、陰謀論にも直結しやすい。「われわれ」のなすことにはどこまでも甘くなるし、「彼ら」の行動はつねに悪意のあらわれとして解釈されてしまう。こうした世界観が拡大していけば政治的対話は困難になる一方であり、教育の場でそれを子どもたちに教えるのはちょっと勘弁して欲しいとも思う。

 今回の森友学園に関する一連の騒動に対する評価を行うには時期尚早だし、それがどこまで波及するのかも分からない。ただ、ぼくが心配なのは、ここで語ったようなタイプの愛国心や世界観が、日本のみならず、さまざまなところで影響力を拡大しつつあるのではないかということだ。

 ネットメディアの普及は、自分の好みにあった世界観に基づく情報ばかりを摂取することを容易にする。最初は半信半疑だったとしても、気がつけば悪意に満ちた人びとが連携して「われわれ」を陥れようとしているといった陰謀論にどっぷり、なんてこともあるかもしれない。そしてそれは、ここで述べてきたようなタイプの愛国者に限った話ではない。

 加えて言えば、これとよく似た世界観は、森友学園の理事長とは対極的な政治的立場にある人たちにも垣間見えることがある。俗に「極左」と呼ばれる人たちが、気づけば「極右」と呼ばれる立場になっていることが珍しくないのは、それら二つの立場の世界観にある種の共通性があるからではないかとも思える。

 以上の不安が杞憂であることを願いつつ、ここでこのエントリを終える。

参考文献

アレント、ハンナ、志水速雄訳(1958=1994)『人間の条件』ちくま学芸文庫
―――、志水速雄訳(1963=1995)『革命について』ちくま学芸文庫
アンダーソン,ベネディクト(2007)白石隆ほか訳『定本 想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行』書籍工房早山。
Balakirishnan, G. (1996) ‘The National Imagination’, in G. Balakrishnan (ed.) Mapping the Nation, London: Verso.
Boswell, J. (1934) Boswell’s Life of Johnson (Volume II), edited by G. Hill and L. Powell, Oxford: Oxford University Press.

拙著『ナショナリズムとマスメディア』について

これは「ステマ」ではない

 「ステマ」という言葉は、消費者のフリをして特定の商品やサービスの購入に他の消費者を誘導することを指す。以下の文章は、本を買って欲しい、あるいはせめて最寄りの図書館にリクエストを出して欲しいという著者の切なる願いの反映であり、あえて言えば宣伝文である。

 したがって、これは「ステマ」ではない。

ナショナリズムとマスメディア」事始め

 ぼくが「ナショナリズムとマスメディア」というテーマで研究を始めたのは、1995年のことだ。当時、ぼくは大学3年生だった。

 もともとは国際的な経済格差に関心があり、たまたまマスコミュニケーション論のゼミを志すことになったことから、ゼミに入るための選考では情報発信力の国家間格差というテーマでレポートを書いた。

 その後も同じテーマで研究を進めるべく本を読んでいたのだが、そこで出会ったのがベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』という本だった。ナショナリズム論の古典とも言われる著作である。

 アンダーソンの著作と出会ったぼくは「国際コミュニケーションについて研究するためには、まずはナショナリズムについて学ばねばならない」と考えたのではないかと思う(たぶん)。そこでまずは「ナショナリズムとマスメディア」というテーマで論文を書くことにした。学生論文集の寄稿者をちょうど募集していたからだ。

 この論文を書き始めた当時は、国民国家論ブームだった。冷戦が終結し、新たな世界秩序の模索が続くなかで、基本的な政治単位である国民国家の問い直しが進められていたことがその背景にあったのではないかと思う。そこでは、国民国家がいかにして人びとを「国民」という枠に閉じ込め、そこに包摂されないマイノリティを抑圧してきたのかを告発するという論調の議論が多かった。ご多分に漏れず、ぼくもそうした国民国家論の影響を強く受けた。

 その影響は、ぼくが書いていた論文の結論部分に強く現れた。今にして思えば白黒をつける必要は全くなかったわけだが、当時のぼくはナショナリズムをどう評価すべきかを論じねばならないと考えていたのだ。ナショナリズムを肯定すべきか、それとも否定すべきか。

 一方には、ナショナリズムの重要性を熱く語るアンソニー・スミスのような論者がいて、他方にはナショナリズム国民国家を厳しく批判する国民国家論がある。当時、人間関係にやや疲れていたぼくには、なんとなく後者が魅力的に見えた。ナショナリズムの醸し出す同調圧力みたいなものが、どうしても好きになれなかったのだ。

 学生時代のぼくは、「飲み会では吐いても飲み続け、場を盛り上げろ」等々の同調圧力が苦手だった。空気を読まずに異論を唱えて、うざがられることもあった。ぼくにはそれらの同調圧力と、「挙国一致で敵国に立ち向かうべし」というようなナショナリズムの論理とが地続きに見えた。

 だから、この論文の最後の部分で、ぼくはナショナリズムを「乗り越えられるべきもの」として論じた。

ナショナリズムを肯定する

 それから20年以上にわたって、ナショナリズムとマスメディアというテーマはぼくの研究生活における中心的なテーマであり続けてきた。そして昨年、ようやく『ナショナリズムとマスメディア 連帯と排除の相克』(勁草書房)という著作を上梓することができた。さんざん遠回りしてようやく、なんとか一冊にまとめた感じである。

 ただし、20年前とは変わった点もある。この著作でぼくは、はなはだ腰が引けたかたちではあれナショナリズムを肯定的に論じることになった。ちょっとした「転向」と言えるかもしれない。

 もっとも、「転向」それ自体は、ぼくが大学院生だったころにすでに起きていた。ナショナリズムの勉強を進めるほどに、それがどれだけ自分たちの生活のあり方を規定しているのかを認識するほどに、ナショナリズムを全否定するのは難しいと感じるようになったのだ。加えて、イギリスに留学し、さまざまな国からの留学生に囲まれて暮らすなかで、自分が日本人だという事実からは逃れられないと感じたことも大きかったように思う。

 もちろん、だからと言って「ワールドカップの中継を見ないのは非国民」式の同調圧力が好きになったわけではない。むしろ、人びとがお互いの生活を支え合うための論理としてのナショナリズムを肯定しつつも、それに不可避的に伴う同調圧力をいかに抑制しうるかがぼくのテーマの一つになったと言っていい。

マスメディアという観点から考える

 学部生のころからマスコミュニケーション論のゼミに所属していたこともあり、ぼくの研究においてマスメディアの問題は重要なテーマであり続けてきた。

 マスメディアがナショナリズムを高揚させることは珍しくない。同胞を称賛し、他国への憎悪や蔑視をかきたてる。あるいは、自国民をきわめてネガティブに描くことによって、改革の必要性が訴えられることもある。

 たとえば、寛容な福祉制度のせいで国民がすっかり堕落してしまった(だから、制度の改革が必要だ)というタイプの主張を保守的なメディアが展開することは珍しくない。「GHQによる洗脳のせいで戦後の日本人は骨抜きになってしまった」という言説をそこに入れてもいいかもしれない。

 もっとも、マスメディアの役割はそれにとどまらない。われわれの多くは、遠く離れたところに暮らす、見たことも話したことも、名前すら知らない人を同じ国民だと認識する。そうした「想像の共同体」が生まれるうえで、活版印刷によって可能になったプリント・メディアがきわめて大きな役割を果たしたというのがベネディクト・アンダーソンの主張だ。

 さらに言えば、身の回りの出来事や、もっと規模の大きな出来事をわれわれが理解し、解釈するうえで、国民共同体は基本的な枠組みを提供している。「日本は…」「中国は…」「アメリカは…」といった国民共同体の単位で政治や経済を語ることは日常的な営みであり、マスメディアはそうした認識の枠組みを「当たり前のもの」として日々、再生産している。

 このようにナショナリズムについて考えるうえでは、マスメディアの役割について考えることは重要な課題であり続けている。もちろん、近年においてメディア環境は大きな変化を遂げており、それを勘定に入れる必要があることは言うまでもない。

激変するナショナリズム

 ここ数年、ヨーロッパやアメリカではナショナリズムの高揚がさかんに論じられるようになっている。ヨーロッパ各国における排外主義政党の台頭、イギリスのEUからの離脱、トランプ大統領の「アメリカファースト」など、グローバル化の潮流に反し、国境を越えるヒト・モノ・カネ・情報の流れに対抗しようとする動きが目立つようになっている。

 このような反グローバル化の運動というのは、かつては左派的な色彩が強く、いまもその潮流は残っている。ところが、近年において目立つのは、むしろ右派からの反グローバル化の動きである。

 そもそも、近年の動きを従来の右や左といった対抗図式だけで考えると、見通しを大きく誤ることになる。たとえば、従来の図式で言えば、右が福祉国家化に反対し、左がそれに賛成するという構図が一般的だった。ところが、近年のヨーロッパにおける極右政党の多くはむしろ、福祉制度を移民による「タダ乗り」から守るために外国人排斥を訴えている(実際には、移民が福祉制度を濫用しているという証拠は乏しく、納税などの面での貢献を踏まえると経済全体ではプラスに働くという見解が有力である)。

 あるいは、左がLGBTを積極的に支援し、右がそれに反対するという構図があったとするなら、それもまた揺らいでいる。イスラム教はLGBTに差別的だという理由でムスリムの排斥を訴える政党が支持を集めるケースもあるからだ。

 これとは少し異なる問題として、労働者階級に対する偏見を煽り立てるうえで人種主義批判が用いられることもあるのだという。イギリスの若き論客であるオーウェンジョーンズはその著書『Chavs』のなかで、同国の労働者階級の人びとに対する偏見や蔑視がいかにメディアで流通してきたのかを告発している。ジョーンズの議論のなかでもとりわけ印象的なのが、「労働者階級の連中は人種主義的だ」というタイプの差別である。言わば、ムスリムであれ、労働者階級であれ、「連中は差別的だ」ということが差別の理由づけに用いられるという現象が生じているのである。

 このようにナショナリズムや差別の論理が大きな変化を遂げるなかで、われわれはナショナリズムとどう付き合うべきなのか、そこでマスメディアはいかなる役割を果たしうるのか、という問題意識のもとで執筆されたのが、拙著ということになる。前半ではナショナリズムとマスメディアに関する学説史を辿りつつ、後半ではより近年の諸問題にひきつけて考察を行った。

 ただし、出版助成を受けていることもあり、お求めやすい価格では決してないし、内容的にも読みやすい著作だとは言えない。実際、発売より二ヶ月近く経ったものの、Amazonでの売上げも芳しくないようだし、書評も一向に出ない。

 だが、本を出版した以上、それを一人でも多くの読者のもとに届ける責任は著者にもある。そこで、恥を忍んで、このような一文をしたためた次第である。

 なお、本書は出版助成を受けているので、増刷でもかからない限り、著者のもとに印税は一銭も入ってこない。しがって、「こんな奴を儲けさせたくない」という心配は無用である。

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マスコミュニケーション論で語る「桃太郎」

 今を遡ること数年前、「桃の鬼退治」が世間の注目を集めるという出来事があった。
 以下は、一人のマスコミュニケーション研究者として、それを記録しておかねばならないという義務感によって書かれた文章である。ただし、多くの部分を知人からの伝聞情報に依拠していることを最初に明記しておかねばならない。現場の状況を知ることが難しい研究者としての限界である。

モラルパニックとしての「鬼の襲撃」

 この出来事の発端を求めるならば、出来事そのものからさらに20年ほど遡らねばならない。当時、知名度の低いある週刊誌が「特集ワイド 桃から人が生まれた?寂れた山村で老夫婦が奇怪な証言」という記事を載せたことがあった。雑誌記事アーカイブで私も読んでみたが、川に流れてきた桃から男の子が生まれたというキワモノ系の記事でしかなく、当然、他のメディアに波及することはなかった。影響力の小さなメディアにこうした記事が載ったところで、メディア・アジェンダ化する可能性はきわめて低い。

 それから何事もなく月日は流れた。その間、老夫婦や男の子のことがメディアで取り上げられることはなかった。風向きが変わったのは、数年前のある出来事がきっかけだった。

 彼らが暮らす山村で、「鬼」と呼ばれるグループが暴れまわっているという報道がなされたのだ。報道によれば、「鬼」たちは突如として凶暴化し、乱暴狼藉の限りを尽くすようになったという。

 もっとも、私に言わせれば、これは典型的なモラルパニックだった。「鬼」グループが暮らす鬼ヶ島はその山村からかなり離れており、「鬼」たちが頻繁に訪れて暴力を振るうには無理があった。「鬼」たちの暴力が山村にある程度の被害を与えたことは否定できないが、それも突然に発生したわけではなく、これまでにも散発的にいさかいは発生していた。

 もともと山村と鬼ヶ島との関係は険悪で、山村の住人が鬼ヶ島を訪れ、さまざまな嫌がらせや乱暴を行っていたことも明らかになっている。ところが、この時には鬼が島の住人を加害者、山村の住人を被害者とする構図がメディアによって作られたことで、これまでとは大きく異なる展開が生まれた。

 以前とは異なる展開が生じたもう一つの要因は、この年、天候不順や農作物の不作、村人の火の不始末による火災など、さまざまな問題が山村に発生したことにあった。そこに「鬼」グループの襲撃が加わったことで、「鬼」たちとは全く無関係な被害までもが彼らの所業にされるというフレーミングが行われることになった。言わば、風が吹こうが雨が降ろうがすべて「鬼」が悪いということにされてしまったのだ。

 そうしたフレームに便乗し、拡大させたのが、ある首都圏キー局のワイドショーだった。この番組によって、「鬼たちが突如として山村を繰り返し襲撃し、大きな被害を与えている」という印象が生み出されることになった。

 ワイドショーのコメンテーターである元警察関係者や社会学者が、一面的な情報にもとづいて「鬼」たちを断罪し、彼らを封じ込める必要性を語った。その社会学者に言わせれば、「鬼」グループは伝統的な社会規範が弛緩し、若者たちが一般的な常識を持ち合わせなくなるという現代の社会病理を体現する存在なのだという。

 そして、この報道は他のメディアにも波及し、大規模なメディア・アジェンダとなっていった。そこで登場したのが、例の老夫婦と男の子だった。

「桃太郎による鬼退治」企画の成立

 「桃から男の子が生まれた」という怪情報を週刊誌に売り込んだことから判断しても、老夫婦にはメディア露出に対する強い願望があったと推測される。そうした老夫婦がこの降って湧いたようなモラルパニックを見逃すはずはなかった。

 山村を取材で訪れていたテレビクルーに老夫婦は「鬼を退治できるのは、この子しかいない」と売り込んだ。かつて「桃から生まれた」とされた男の子は、老夫婦の厳格な管理のもと、自己主張の苦手な青年に成長していた。老夫婦がクルーに必死にまくしたてる横で、青年は硬い表情のまま、ずっとうつむいていたと聞く。

 そのヨタ話に乗ったのが、首都圏キー局の某プロデューサーだった。年末特番の企画を探していた彼は「桃太郎の鬼退治」という筋書きに飛びつき、それを生中継しようと考えたのだ。実際のところ、青年の名前は桃太郎ですらなかったのだが、「桃から生まれた」という設定を最大限に活かすべく、番組ではそう呼ばれることになった。

 かくして番組の企画は進み始めた。大まかなシナリオはこうだ。「桃太郎」(以下では便宜的に彼をこう呼ぶことにする)は、山村を徒歩で出発し、幾多のトラブルを乗り越えつつ、数ヶ月かけて鬼ヶ島に到着する。そして、鬼が島での鬼と対決するわけだが、その部分は年末に紅白の裏番組で生中継することになる。ダニエル・ブーアスティンが「疑似イベント」と呼ぶ、メディアで報道されるという前提があって初めて発生するイベントの典型例と言えるだろう。

 だが、この企画には問題があった。桃太郎の知名度が皆無であり、キャラも薄すぎるということだ。そこで、年末特番に先立って同局の人気番組である『世界が称賛!ニッポンの摩訶不思議』で、桃太郎の出生から鬼が島への出発までが報じられることになった。

 加えて、桃太郎のキャラの薄さを補うべく、何人かの同行者をつけることにした。そこで、プロデューサーが最初に考えたのが、人気お笑いグループである猿蟹ブラザーズの蟹田、栗川、臼元、蜂山、ウシ・フンを桃太郎とともに鬼が島に向かわせるという企画だった。よくは知らないのだが、普通の人間のなかに一人だけ排泄物のマスクを被っている人物が混ざっているという奇妙な構成のグループである。最近の若者の感覚はなかなか理解しづらい。

 ところが、この企画のスポンサーに日本一食品が入ったことでこの案は難しくなった。というのも、猿蟹ブラザーズは、日本一食品と競合する食品メーカーのCMに出演していたからだ。そこでプロデューサーは猿蟹ブラザーズを諦め、素人参加型番組にすることにした。もっとも、素人とはいっても、タレント志望の無名の若者たちである。その名を猿村、雉田、犬山という。

 加えて、日本一食品の要求は厳しかった。同社の新商品である「日本一印のきびだんご」を番組中で取り上げろというのだ。スポンサーの商品を番組出演者に使わせるプロダクト・プレースメントという広告手法である。

 そこでプロデューサーが思いついた奇策が、「日本一印のきびだんご欲しさに、猿村、雉田、犬山は鬼が島に同行する」という筋書きだった。言うまでもなく、きびだんごと引き換えに危険な旅への同行を申し出るというのは、普通に考えればありえない交換条件である。実際、番組制作の現場でもこのプロダクト・プレースメントには反対の声があったと聞く。だが、辣腕で鳴らしたプロデューサーの発言力は大きく、結局、この案は大筋で通ることになったのである。

 こうして「桃太郎の鬼退治」企画はスタートし、まずは『世界が称賛!ニッポンの摩訶不思議』で桃太郎生誕のエピソードが取り上げられた。SNSでは「ありえないwww」「ネタでしょ?」といった声も上がったものの、多くの視聴者はそれを信じたようだった。

 マスメディアが人びとの意見を変えることは難しいが、意見を新しく作ることは可能であるという知見に基づくなら、「人が桃から生まれる可能性はあるかないか」ということについて、多くの人びとは考えたことがなかった。すなわち、先有傾向が存在しないトピックだったのであり、だからこそ荒唐無稽な情報を受け入れることができたのだと想定される。

『鬼が島タイムズ』の孤立

 ここで視点を変えて、鬼が島側の動向についても論じておこう。鬼が島にはかつて良質の炭鉱があり、多くの炭鉱労働者が居住していた。しかし、炭鉱が閉鎖されてからすでに久しく、貧困と高齢化、人口の減少が急速に進んでいた。島の若者の多くは劣悪な環境で育ち、売春や違法薬物に手を出す者も少なくなかった。

 そうしたなか、昔からの因縁の相手である山村で暴力を働いた者がいたことは事実だ。けれども、先述のように、山村の住人たちも鬼が島にやってきては嫌がらせや暴行をはたらいていたのであり、どちらが被害者で、どちらが加害者なのかをはっきりと決めることは難しい。

 にもかかわらず、全国メディアでは鬼が島バッシングが大々的に展開されるようになった。鬼が島にも度々取材はやってきたけれども、「人は見てから定義するのではなく、定義してから見る」というウォルター・リップマンの言葉が示すように、最初から鬼が島の住人たちを加害者として決めつけるスタンスでの報道が繰り返された。

 結果として、鬼が島町役場にはダンボール何十箱分もの投書が送りつけられ、広報の電話も鳴り止まない状態となった。そのほとんどは鬼が島住民に対する批判であり、なかには脅迫文まで含まれていた。島に一つしかない小学校では、保護者による児童の送り迎えが半ば義務化されることになった。わざわざ鬼が島にまでやってきて、落書きやゴミへの放火を行う者までもが現れたからだ。

 そうしたなか、全国メディアに対抗する論陣を張ったのが、鬼が島のローカル新聞『鬼が島タイムズ』だった。同紙は、鬼が島住人を悪と決めつける全国メディアの報道を繰り返し批判し、鬼が島の人びとが置かれた窮状を訴えた。

 だが、そのような声が全国に届くことはなかった。「『鬼が島タイムズ』は偏向した新聞である」「鬼が島の住民を危険な方向に誘導している」といった批判が有名作家や文化人などによってさかんに行われた。『鬼が島タイムズ』は完全に孤立していた。

 「桃太郎の鬼退治」を企画するテレビ局から連絡が入ったのは、ちょうどその頃だった。「鬼退治」の年末特番に「鬼」グループに出演して欲しいというのだ。

 これまで散々、鬼が島に対するバッシングを行ってきたテレビ局からの出演依頼である。普通に考えれば、引き受けるはずがない。しかし、『鬼が島タイムズ』で記者をしている知人から聞いた話によると、鬼が島を訪れたプロデューサーは次のように言い放ったのだという。

「ここまで報道が加熱すれば、何らかの落とし前をつけないと視聴者は満足できないですよ。カタルシスが必要なんです。この騒ぎを終わらせるには、誰かが悪者になって、やっつけられる姿を放送するしかない。そうすりゃ、放送が終わって半年もすれば、みんな忘れますよ。逆に、けじめをつけなければ、嫌がらせはいつまでも終わりません。」

 自分で騒動を焚き付けておいて、この言い草である。だが、このプロデューサーの主張に、それなりの説得力があることも否定できない。最終的には、バッシングに困り果てていた島の大人たちが「鬼」グループの若者たちに土下座までして番組への出演を懇願し、若者たちも渋々それを受け入れた。この話を聞かせてくれた知人の目に光るものがあったことを私は忘れない。

道中のシナリオ

 桃太郎が山村を出発して鬼が島に到着するまでの過程は、『世界が称賛!ニッポンの摩訶不思議』で随時放送された。桃太郎のビデオを流し、スタジオの外国人が「こんな素晴らしい出来事、他の国ではありえないですよ!」と称賛する流れである。

 出発日の早朝、桃太郎に老夫婦が「日本一印のきびだんご」をもたせる。不自然な演出ではあるが、やむをえない。加えて面倒なことに、この山村には日本一食品の競合メーカーの看板が数多く設置されていた。カメラアングルを調整してそれらが映らないように工夫し、どうしても映ってしまう場合にはモザイクで処理する。

 桃太郎の最初の逗留地は、ボクシングジムであった。なにせ彼には格闘技や武術の経験が全くない。その彼が「鬼」グループを倒してしまうのでは、さすがに視聴者も訝しがる。そこで、彼は鬼が島に向かう道中、さまざまな格闘技や武術を学び、強くなっていくというシナリオである。無論、これもプロデューサーの発案だ。

 そして、このボクシングジムで桃太郎と出会うのが猿村である。設定としては地元で暮らすボクサー志望で、中学生の時から地元で喧嘩に明け暮れ、そうとうなヤンチャをしていた経歴の持ち主とされる。実際には、東京の中高一貫校の出身で、現在は東京の私大に通うタレント志望者なのだという。

 猿村の目の前で、桃太郎はわざとらしく「日本一印のきびだんご」を落とす。それを渡すように荒々しく迫る猿村。対して桃太郎は、自分にボクシングで勝ったらきびだんごを渡すと挑発する。ボクシング勝負で桃太郎に敗れた猿村は、桃太郎に心酔し、鬼が島までの同行を申し出るのである。

 同じような出会いと衝突を繰り返し、桃太郎は猿村のほか、雉田と犬山を仲間にする。しかし、ただ仲間を増やすだけでは視聴者が飽きてしまう。そこでプロデューサーが思いついたのが、猿村と犬山との衝突だ。仲間になったあとも二人は衝突を繰り返し、それを桃太郎や雉田が仲裁することで、グループとしての結束が強まっていくというシナリオである。もっとも、実際には猿村と犬山は最初から仲が良く、ロケの合間にはよく二人でパチンコに行っていたと聞く。

 道中、桃太郎は自分に割り振られたキャラをよく演じていた。老夫婦の厳格な管理から初めて解放され、かりそめとはいえども積極的な役回りを与えられたことで、その表情にも徐々に明るさが出るようになった。今回の出来事に一つでも救いがあるとすれば、それはこの気の毒な青年が抑圧的な環境から逃れ出るきっかけになったということかもしれない。

「鬼退治」というメディア・イベント

 ダニエル・ダヤーンとエリフ・カッツは、メディアによる中継を織り込んで実施される儀式的イベントを「メディア・イベント」と呼び、それには戴冠型、競技型、制覇型という三つの類型があると主張した。

 戴冠型とは王族の葬儀や結婚式のように過去と現在との連続性を強調するイベント、競技型とはオリンピックやサッカー・ワールドカップのように現在行われている競技に人びとの関心を集めるイベント、そして制覇型は月面着陸などの未来に向けての人類の進歩を印象づけるイベントを指すという。

 ただし、一つのイベントが複数の性格を有することも多く、その意味で言えば「鬼退治」とは競技型と制覇型をミックスしたメディア・イベントだと考えることができる。生中継される桃太郎一行と「鬼」グループとの対決は競技、桃太郎一行が勝利することで得られるとされる平和と安寧は制覇にカテゴライズされるからだ。

 実際、プロデューサーが「鬼退治」にかける意気込みは並々ならぬものがあった。数年来、このキー局の視聴率は低迷しており、「鬼退治」前年の大晦日には紅白の裏で再放送のアニメ映画を流して「不戦敗」とまで言われていた。だからこそ、巻き返しを図るプロデューサーにとって、通常の格闘技番組にストーリー性を持たせることのできる「鬼退治」は魅力的なコンテンツであったのだ。

 だが、この年の大晦日、『世界が称賛!ニッポンの摩訶不思議4時間SP 今夜こそ桃太郎が鬼を倒す!』の放送日直前になっても、桃太郎一行は鬼が島からまだ100キロほど離れたところにいた。道中の修行編が盛り上がりすぎたために、進行に大幅な遅れが生じたのだ。

 やむをえず、放送前日に桃太郎一行は大型バスで、海の向こうに鬼が島を臨む海岸へと移動した。徒歩での旅というのが建前ではあるが、そんな建前を本当に信じている視聴者がいたとすれば、相当に鈍いと言わざるをえないだろう。

 番組の進行スケジュールでは、最初の1時間で海を渡り、次の1時間で鬼が島の探索、残りの2時間で「鬼」グループとの対決という流れであった。途中、これまでの旅路を振り返る回顧シーンを何度か挿入することで、桃太郎一行の肉体的、精神的成長をアピールする。その総決算が「鬼」グループに対する勝利なのだ。

 番組はスケジュール通りに進行し、鬼が島の町役場前で、桃太郎一行と「鬼」グループが対決するシーンになった。もちろん、すべてが仕込みなので、最初から「鬼」グループが負ける流れである。猿村、雉田、犬山が大暴れし、「鬼」グループのリーダー格を桃太郎が苦闘の末に打ち破る。

 その中継現場を、私の知人である『鬼が島タイムズ』記者は遠くから見守っていた。「鬼」グループのリーダー格の青年は、たしかにやんちゃで乱暴なところはあるが、仲間からは慕われ、知人を「記者のおっちゃん」と呼ぶ気の良い青年である。その青年が、桃太郎の無慈悲な一撃を浴び、地面に崩れ落ちる瞬間、知人はきつく拳を握りしめたという。

 闘いのあとには、「鬼」グループが山村から奪い取ったとされる国宝級の美術品の奪還シーンが放映された。だが、知人は知っていた。その美術品はもともと鬼が島美術館に所蔵されていたもので、数年前の山村側の襲撃で奪い取られたものであったことを。

祭のあと

 以上が、私の知る「桃太郎の鬼退治」の顛末である。「鬼」グループの体を張った演技のおかげで、鬼が島の町役場に対する嫌がらせはずいぶんと減ったという。かつてジャン・ボードリヤールは「われわれに必要なのは、にせものの増殖と暴力の幻覚がもたらす催淫的な味わいである」と述べたが、それは「鬼退治」の視聴者にとっても同様だった。本当に「鬼」グループが討伐されたか否かは重要ではない。悪い連中が打ち倒されたという感覚から得られるカタルシスこそが重要だったのだ。

 その一方で、桃太郎を育てた老夫婦は、今では育児教育に関する著作を何冊も出版し、教育評論家としてワイドショーにも出演するようになった。なかでも『桃太郎の育て方』はベストセラーとなり、その印税で都心のタワーマンションを購入した。肝心の桃太郎とは音信不通だというから皮肉なものである。

 鬼退治に同行した猿村、雉田、犬山は、タレントとしては成功していない。猿村と雉田は芸能界を諦めて一般企業に就職、犬山は一発屋タレントとしてパチンコ屋やスーパーでの営業活動に勤しんでいるようだ。

 そして桃太郎は、今では鬼が島に住んでいる。『鬼が島タイムズ』の知人から事の顛末を聞かされた彼は大きなショックを受け、いまでは同紙の見習い記者として再出発を図っている。

 このネット全盛期、経営的には厳しいローカルメディアではあれども、彼の今後の活躍に期待しつつ、ここで筆を置くことにしたい。

「ポスト事実」の時代をいかに越えるか

「ポスト真実」は使いづらい

 今年も残りわずか…と書こうと思っていたら、年が明けていた。

 ということで、2017年最初のエントリは流行語ともなった「ポスト真実(post-truth)」について考えたい。

 正直に言えば、「ポスト真実」というのは使いづらい言葉だと思う。この言葉が使われるようになった発端は、事実に基づかない発言が大々的に行われたり、ネット上のデマサイトが多くのアクセスを集め、虚偽情報が流布するようになったことにあるのだろう。

 だが、それ以前には真実の情報が流通していたかと言われると、ちょっと首をかしげてしまう。そもそも、真実とはやっかいな言葉なのだ。

「真実はいつも一つ!」ではない

 ここでまず注意したいのは、事実と真実とは異なるということだ。事実とは、一般には誰の目から見ても明らかな事柄や出来事を指すように思う。物騒な例えを用いるなら、AがBを刺したとする。この場合、何をどう解釈しようと「AがBを刺した」ということを否定するのは難しい。

 ところが、真実という場合、そこにはもっと込み入った解釈が含まれることになりがちだ。たとえば、「Aは金銭にまつわる恨みを抱いていたがゆえにBを刺した」という文章には、Aの内面に関する推測が含まれている。心の中を見ることはできない以上、別の解釈が生じる可能性は当然にある。もしかすると太陽が眩しかったからかもしれないし、痴情のもつれがあったかもしれない。

 『名探偵コナン』の有名なセリフに「真実はいつも一つ!」というものがある。そして、実際、コナン君は単に犯人が誰かを当てるだけではなく、その犯行の動機にまで踏み込んで解釈をする。だが、実際にはさまざまな解釈がありえるわけで、コナン君の推理を拝聴しても「そんな動機で、人を殺す?普通?」などと思うことはよくある。

 というわけで、様々な解釈の余地がありうる以上、真実は一つではない。ついでに言えば、本屋やアマゾンでよく見かける『○○の真実』という本は、実際には様々にありうる物事の解釈の一つを提示しているにすぎない。にもかかわらず、あたかも唯一無二の解釈を語っているかのような傲慢さ、他の解釈に対する敬意の欠如を示している点で、信頼性の低い著作が多いような印象がある。

「真実」が共有されていた時代は存在しない

 話を戻せば、「ポスト真実」という言葉からは、それ以前には真実が人びとにきちんと伝達されていたという含みが感じられる。だが、真実には様々なバリエーションがありうる以上、以前には真実がみなに共有されていたと想定するのは難しい。何が真実かをめぐっては、ずっと以前から様々な対立が存在していたからだ。

 その一方で、「ポスト事実」というのであれば、言わんとすることは分からないでもない。つまり、事実関係の明白な誤りを含む情報が大手を振ってまかり通るようになっているということだ。昨年のアメリカ大統領選挙では、ローマ法王がトランプ氏を支持したとか、ワシントンDCのピザ屋でクリントン氏が児童虐待をしているとか、明らかに事実ではない情報がネットを中心に流れたという。こうした情報がこれまで以上に影響力をもつようになったのであれば、それをポスト事実の時代と呼ぶことはできるかもしれない。

旧時代的プロパガンダへの回帰

 ちなみに、歴史的に言うなら、ポスト事実の時代とは、旧時代的なプロパガンダ(政治宣伝)への回帰だとも考えられる。現代的なプロパガンダでは、全くの虚偽情報を流すのではなく、事実の一つの側面だけを流すという手法が重視されると言われたことがあった。

 名著として名高い高木徹『戦争広告代理店』(講談社文庫)によると、旧ユーゴスラヴィアの内戦では、対立する民族集団のいずれもが戦争犯罪に手を染めていたにもかかわらず、セルビア人による「民族浄化」ばかりが大々的に報じられた。結果、「セルビア人=悪」という構図が出来上がってしまったというのが、その事例として挙げられる。

 ところが、ポスト事実の時代においては、そうしたプロパガンダ技術の洗練はどこへやら、間違っていようと何だろうとターゲットに悪印象を与えられれば良しという旧時代的な感覚が蘇ってきたということなのかもしれない。旧時代的なプロパガンダがすたれた大きな要因は、その虚偽性が後でバレた場合に責任問題に発展するということがあった。ところが、責任主体が不明確であることが多いウェブメディアの場合、そうした問題が生じづらいということが旧時代的なプロパガンダへの回帰を容易にしたと言えるだろう。

すべては解釈…なのか?

 これまで「真実」と「事実」との区別を前提に書いてきたが、実際には両者の区別がいつもクリアなわけではない。「ある出来事が本当に起きたのかどうか」をめぐっては争いが絶えないし、歴史認識をめぐる論争の多くも事実の有無をめぐって行われている。

 この点を重視するなら、そもそも普遍的な事実なんてものは存在せず、すべては解釈だという発想にたどり着く可能性もある。同じ現実であっても、人はそれぞれに違った見方をする。だとするなら、普遍的な事実の追求などは諦め、自分にとっての真実を追求すればよいという発想だ。

 これに従うと、自分と同じ政治的立場の人びとは善であり正義だということになりがちだ。他方、自分と対立する政治的立場の連中は私利私欲に動かされる悪人か、歪んだイデオロギーに騙された無能者でしかない。

 こうした世界観は心地良いし、悪人や無能者の悪口は盛り上がる。この記事で鋭く指摘されているように、ページビューを集められるサイト運営者と、嘘ニュースを読んで気分が良くなるユーザーが「ウィンウィン」の関係にあるなら、それで良いじゃないかということにもなる。たとえ、それが実際に起きたことに反する情報であったとしても。

事実に対するニーズは存在しないのか?

 ただ、ここまで割り切った発想をする人というのは、それほど多くはないんじゃないか、という気もしている。たとえば、「あなたの立場にとって都合の悪い情報を遮断し、都合の良い情報だけを選択してくれる情報環境で暮らしたいですか?」という質問をされたとして、イエスと答える人はそんなに多くないんじゃないかと思うのだ。

 嘘ニュースサイトの記事を熱心に読んでいる人の多くも、実際にはそれが心地よいからではなく、それが事実だと思っているからこそアクセスしているのではないかと思う(というか、思いたい)。自分が嫌いな政治家、政党、政治運動、知識人、外国政府、外国人がいかに愚かで邪悪なのかという情報がもたらす心地よさは、確かにそれを事実だと信じさせる心理的傾向を生み出すのだろう。だが、いくら心地よくとも虚偽であるとわかればその情報を拒絶するだけの意思をほとんどの人は持っているとぼくは思う。…もちろん、これ自体がぼくの願望が反映された心理的バイアスの可能性もある。

「ポスト事実」時代のメディアと受け手の役割

 仮にもし、ぼくの想定が正しく、多くの人は事実についてそれほど割り切っていないのならば、「ポスト事実」時代のメディアに必要なのは、逆説的ではあれ、これまで以上に事実にこだわることなのではないかと思う。

 ちゃんと足を使って取材をする、出来事の解釈については多角的な視点を示す等々、ネット情報の断片をつなぎ合わせただけの記事との差異化を図っていくことが求められる。毎日の決まった時間に情報を発信すればよかったかつての時代と比べ、情報を出さねばならない頻度が高まっているウェブ時代のジャーナリズムにおいて、それがたやすくないことは確かだろう。けれども、ポスト事実の時代を越えていくためには、原点に立ち返るよりほかない。

 他方で、情報の受け手に求められるのは、自分にとって心地のよい情報ほど疑ってかかるという構えだろう。自分の応援する人物や集団にとって好ましい情報、それらを一方的な被害者とする情報、自分が嫌いな人物や集団の邪悪さや無能さを強調する情報にはとりわけ慎重になる。そして、自分にとって都合の悪い情報を切り捨てるのではなく、その妥当性についてちゃんと考える。それは面倒だし、しんどいし、時にうんざりするような作業ではある。しかも政治的な関心の強い人ほど、その作業の辛さは増すことになる。

 けれども、実はそこにこそ希望があるとも考えられる。幸いにして、世の中の人の多くはそれほど強固な政治的立場を持たないし、だからこそ潜在的には受け入れがたいはずの情報にもそれほど抵抗なく接することができる。ポスト事実の時代を越えていく鍵となるのは、結局のところ、そういう「ノンポリ層」であるのかもしれない。