擬似環境の向こう側

(旧brighthelmerの日記) 学問や政治、コミュニケーションに関する思いつきを記録しているブログです。堅苦しい話が苦手な人には雑想カテゴリーの記事がおすすめです。

ぼくの良識

 自分で言うのも何なのだが、ネット上でのぼくはわりと良識的なのではないかと思う。

 ツイッターやブログでも攻撃的だったり差別的だったりすることはなるべく書かないようにしているし、ぼくが書いたものを読んで傷つく人がいなければいいなとも思っている。もちろん、書いているものが下らない、内容がない、間違っている等々の批判はあるとは思っているが、それとこれとは別の話だ。

 そんな良識的なぼくのことだ、ツイッターでフォローしている人たちも良識的な人たちばかりだ。政治的な書き込みは多いけれど、人を差別したり中傷したりする人はいない。ただ最近は、ぼくがフォローしている人のあいだでいざこざが多いのが気になると言えば気になる。

 そんなぼくのタイムラインをさいきん賑わせているのが、「反差別や平和を掲げているのに差別的だったり、攻撃的だったりする人」に関する話題だ。ぼくも以前のエントリで、そういう人たちを批判したことがある。

 彼らのなかには反差別や平和を掲げているにもかかわらず、意見の異なる人たちに対して脅迫的なツイートをしたり、個人情報を暴露したり、差別的な言葉を投げかけたりする。あるいは、自分たちを批判する人が非常勤講師をしている大学に「辞めさせろ」という抗議を行ったという話も聞いた。良識的だと自負する人間としては、やはり問題だと感じざるをえない。

 こういう話を聞くと、結局、反差別だとか言っても、差別を行っている連中と同じ穴の狢ではないかという気持ちになってくる。まさに「どっちもどっち」だ。『差別の現在』という著作の以下の記述は、こうした気分をうまく要約してくれていると思う。

ヘイトスピーチが新聞紙上で盛んに報道されている。ある記事を読んでみる。そこには、ある集団が「朝鮮人出て行け!」と連呼し、他方で「レイシスト(人種差別主義者)!お前たちこそ出て行け!」と別の集団からの怒号が飛び交う。そして多くの人びとが、眉をひそめて、彼らの様子を遠巻きにしてみていると書かれていた。

記事は、朝鮮人差別をめぐる粗暴で硬直した言葉の応酬を伝えている。反差別を訴える言葉もまた、排除や差別を叫ぶ暴力的な声と同じ次元で対抗しており、その意味で同じように粗暴で硬直した叫びなのである。
(出典)好井裕明(2015)『差別の現在』平凡社新書、p.105。

 加えて言えば、差別者を糾弾する言葉のなかに、しばしば別の種類の差別が入り込んでしまう。だからこそ、差別を批判しているはずが、別の差別に加担するかのような構造が生まれてしまう。先の引用文でも書かれているように、良識的なぼくとしては、眉をひそめたくなるし、近づかないでおこうという気持ちにもなる。

 もちろん、差別は良くないことだ。ぼくの良識的なタイムラインには批判の意味を込めたリツイート以外ではヘイトツイートは滅多に登場しないけれども、それでもヤフーのコメント欄やはてなブックマークで上がってきたサイトなどで、差別的な書き込みを見ることはある。良識的なぼくはもちろん眉をひそめる。けれども、そんなのをいちいち気にしても仕方がない。だから少しのあいだ眉をひそめるだけで、さっさとスルーしてしまえばいい。1分後にはもう忘れている。

 差別と言えば、ぼくのタイムラインでもたまに差別を激しく批判している人もいる。でも、少し気にしすぎなのではないかとも思う。少しぐらい差別的なリプライをされたところで、気にしても仕方がない。

 だいだい、そんなに差別なんてされているのかよと思い、その人にどんなリプライがなされているのかを調べてみる。

「いいから帰れ」「ああ、日の丸燃やす輩の事か。確かにテロリスト予備軍だな(^o^)/」「怖い!在日韓国人を扇動するお前の罪は重い」「典型的な差別反対を叫ぶ差別主義者「相変わらず醜悪な面だからキチガイだらけなのに一発でわかったわ(笑)」「今こそ祖国で立ち上がれ! そして、日本には帰ってこないでください」「在日と言う国籍は無い!オマエが言う在日は日本にとって存在が迷惑な在日朝鮮人である」「南北統一の機運が盛り上がってきた。祖国での活躍のチャンスだ。早いほうがいいと思うぞ」「朝鮮文化を継承し誇るなら? チョゴリの正しい着方を学ぶべきだなw(この後、差別的なサイトへのリンク)」「差別だのと不都合な真実を言論封殺する在日集団凸撃かw」「韓国人と結婚し韓国に帰国しても日本の特別永住許可にしがみつく在日? 日本には、差別は無く、在日特権が有るという証かw」「難民を利用すんな、カス」「相変わらず下品で気持ち悪いツイート」「つーか在日が政治活動すんなよ 自分の祖国でやれ」「日本人を差別しないで下さい。日本人を平和に暮らさせて下さい!」「吐く息がウンコ臭いんだよ とっとと日本から出て行け!」「あなたが我々日本人へのヘイトスピーチをしていますね」「そもそも、日本に差別なんて無い」「なるほど。だから嫌韓が増えるんでしょうね。」「いつまでも日本に居座り悪さ嫌がらせ? 在日こそ恥ずかしいw」「祖国に帰って韓国朝鮮のためにがんばってくれ」「差別ゴロとして、法廷で抗い居直る韓違いw 在日の連鎖を断ち切ろう!」「精神異常のせいでは?」「都合の悪いことはすぐ忘れる、精神異常者」「いっそのこと、<<ヘイト半島>>って改名したらどうよwww」「(●>艸<):;*.':;.ブッ!ヘイト半島ピッタリです。」「在日朝鮮人過激派に注意」「お前ら朝鮮人は本当に頭悪いな」「ついに狂ったか…(笑)」

 ここ2週間ほどのリプライだ。わかりやすいものだけを抜粋し、文脈的にわかりにくいものは除いてあるから、実際にはこれよりもはるかに多い。これが一人の人物に向けられている(注1)。

 集団全体に向けられたものを知りたければ、ツイッター検索を使って「朝鮮人」で検索すればいい。1分間のあいだに5~10ツイートぐらいの勢いでヘイトツイートが量産されているのがわかる。自動でヘイトを撒き散らすボットが動いているのだろう。それが、2015年の日本のインターネット。

 それでも、ヘイトツイートは、そのターゲットとなった人たちの通知欄にたまっていくが、良識的なぼくのタイムラインには表示されない。それを批判するツイートもそれほど見ない。もはやインターネットではヘイトスピーチが日常化されていて、改めてそれを批判したところで目新しさもない。目新しくないということは、それが自分に向かってこないかぎり、存在しないのと一緒だ。だいたい、懸命に抗議の声を上げるような振る舞いはスマートじゃない。

 その一方で、反差別や平和を掲げているのに差別的だったり、攻撃的だったりする人たちの存在は、そのギャップからしてもわりと新鮮だ。しかも、やっていることは確かに酷い。だから、それは一生懸命に批判するのが良識だ。マスメディアでも取り上げられたではないか!

 かくして、ぼくの良識は守られる。ぼくのタイムラインではないところで差別は続くが、たまに遭遇したとしても、眉をひそめるだけでいい。

 それが、ぼくの良識。


(注1)こういう話を知人にしたところ、「ネットでいろいろと書くからじゃないんですか」という反論が返ってきたことがある。「いじめは、いじめられている側に原因がある」といった主張にはおそらく反対する人物だ。ところが、国籍のラインをまたいだところで「いじめは、いじめられる側に原因がある」のと同型の主張があっさりと息を吹き返す。

「命の軽さ」が与えてくれるもの

 ずっと以前、「人口の多い中国では、命の重さが日本とは違う」という趣旨の文章を読んだことがある。いまでもネットで検索すれば、そういう文章をすぐに見つけることができる。

 しかし、本当にそうなのだろうか、とも思う。子どもを喪った中国人の父母は「じゃあ、また新しく子どもを作ろうかね」とドライにさっさと切り替えられるものなのだろうか。

メディア上での命の重み

 命の重さ、という点で言えばメディアの扱いもずいぶんと違う。

 13日の夜にフランスのパリで発生したテロ事件。日本ではメディアの対応が遅い、小さいという批判もあるが、それでも『朝日新聞』の14日夕刊と15日朝刊の一面はパリのテロが飾った。Facebookを眺めていても、フランス国旗をモチーフに自分のプロフィールをトリコロールにしている知人が何人もいる。フランス国民との連帯の意思を表明しているのだろう。

 その一方で、パリでテロが起きる前日、レバノンの首都ベイルートでは連続自爆攻撃が発生し、少なくとも43人が死亡、240人以上が負傷したと報道されている。『朝日新聞』の13日夕刊第二面に掲載された、この事件を伝える記事は以下の通りだ。

レバノンの首都ベイルート南部で12日、連続して爆発があり、レバノン保健省によると43人が死亡、240人が負傷した。AP通信などが報じた。現場はイスラム教シーア派組織ヒズボラが拠点とする地区。ヒズボラを敵視する過激派組織「イスラム国」(IS)が犯行声明を出した。(カイロ)
(出典)『朝日新聞』2015年11月13日夕刊

 これが全文である。文字数にして136字。1ツイートに収まる。(追記 11/16)もう一つ注目すべきは、記事の最後、(カイロ)という部分だ。ここからも確認できるように、『朝日』はベイルートには支局を置いていないため、国際通信社からの情報に頼らざるをえなかったのだろう。

 たまたま『朝日』について調べやすい環境にあるので同紙だけを取り上げているが、他の新聞も同じようなものだろう。Facebook上でレバノンの国旗である赤と白、そして緑の木をモチーフにしてプロフィール写真に手を加えた人をぼくは誰も見ていない。

 メディア上での人の命の重さを示す「等式」として「他の大陸での一万人の死=他国での千人の死=自国の周縁部での百人の死=首都での十人の死=一人の有名人の死」が挙げられることがある(Ginneken 1997)。つまり、他の大陸で1万人が亡くなった出来事が持つニュースとしての価値は、有名人が一人亡くなるのと同じぐらいだというのだ。

 しかし、この「等式」は間違っている。他の大陸で起きた出来事でも、それが先進国で起きるのか、それとも開発途上国で起きるのかによってニュースの重みは全く異なる。その意味では、外国で発生した出来事のうち、どれがニュースとしての価値を持つのかについてのガルトゥングらの古典的な研究のほうが参考になるだろう。

 それによると、ニュース制作のスケジュールに合致するタイミングで発生した出来事、重大な出来事、自国にとって関係が深いと認識された出来事、意外性のある出来事、以前から継続する出来事、大国で発生した出来事、悪い出来事、等々がニュースとして報じられやすい性格を持つという(Gultung and Ruge 1965)。

 レバノンでのテロ事件はこれらの要件をそれほど満たさない。だから扱いも小さくなる。「意外性」という点で言えば、途上国でテロが発生したと聞いても、もしかするとわれわれの多くは意外に思わないのかもしれない。

 途上国は暴力に満ちた土地であり、人口が多く、人命も軽いと見なされる。テロで多数の人命が損なわれたとしても、それは言わば日常の風景なのであって、意外でもなんでもない。だからこそ、ニュースが伝えられたとしても右から左へと流れていってしまう。

 他方でパリは違う。今年の初頭に世界的な注目を集めたテロ事件があったにせよ、先進諸国のなかでも屈指の知名度を誇る華やかな都市だ。普段からメディアで頻繁に取り上げられ、訪れたことのある日本人も多いだろうから心理的な距離も近い。

 そんな都市での大規模テロ事件の発生は、それだけに衝撃度、言い換えれば意外性が強い。メディアでの扱いも必然的に大きくなる。(追記)『朝日』にもパリ支局はちゃんとある。支局をどこに置くか、特派員をどれだけ配置するかという決定の時点ですでにニュースの価値は決められている。ただ、日本での報道が少し遅れたのは、日本時間では土曜日の早朝というタイミングで発生したためにニュース制作のスケジュールに合致しなかったのかもしれない。

出生率から見る命の重み

 もちろん、先進国であるフランスではそもそも命の重さが違う。少子化対策が功を奏して出生率こそ比較的高いとはいえ(合計特殊出生率は2013年で2.01人)、命が失われれば人びとは痛烈に悲しみ、われわれはそれに共感する。フランスはわれわれと同じ先進国クラブの一員であり、いかにも人が余っていそうな途上国レバノンでの命の重さとはわけが違うのだ。

 ところで、命の価値が軽そうに見えるレバノン合計特殊出生率はいったいいくつなのだろうか。ここでのデータによると、2013年の段階で1.5人である。実はフランスよりもずっと低いのだ。

 レバノンに限らず、多くの途上国ではいま、合計特殊出生率が急激に低下してきている。たとえばインドの場合、1980年には4.68人だったのが2013年には2.48人に、バングラディシュでは1980年には6.36人だったのが、2013年には2.18人にまで低下している。

 その背景には、栄養状態や医療の改善による幼児死亡率の低下、避妊に関する知識の広がり、育児コストの増大などが挙げられている。小さな子どもが死ななくなったぶんだけ出生数が減り、一人ひとりが大切に育てられるようになっているのだ。出生率という観点からだけで見ても、途上国において人の命は急速に重くなりつつある。

「途上国では人の命は軽い」という発想

 ただし、これはあくまで数字から見ただけの話だ。

 先日、バングラディシュの農村を取材したドキュメンタリー番組を見ていると、老夫婦が何十年も前に亡くなった自分の子どもの話をしているシーンが出てきた。彼らが子どもを喪ったのは今よりも出生率がずっと高かったころの話だ。それでも彼らは言う。自分たちはその子たちのことを死ぬまで忘れないだろうと。彼らの子どもの命は果たして軽かったのだろうか。

 もちろん、これは人命を重く考える現代の人権思想に侵された者の発想なのかもしれない。けれども、「途上国では人の命は軽い」という主張の背後には、もしかするとそう思い込みたいという願望もまた存在するのではないだろうか。

 途上国の人の命が軽いのであれば、悲惨な出来事のニュースを耳にしたとしても、それに思い煩わされる必要性はずいぶんと減る。心理的に楽になれる。冒頭で紹介した「中国では人命が軽い」という話は、旧日本軍が中国大陸で行なった殺戮行為を否定する文脈で出てきたものだ。「人口の多い中国人の犠牲などは大した話ではないのだ」という本音がそこに伏在していたようにも思う。

 しかし、このような発想こそが、もしかするとわれわれの世界認識を大きく歪めているのかもしれない。先進国でのテロとその被害ばかりが注目され、先進国の軍隊によるものも含む途上国での無数の死と、それに伴う無数の痛みとが視野の外に置かれる。結果として、あたかも途上国から先進国へと流れ込んできた暴力が一方的に先進国の人間を痛めつけているかのような錯覚すら生まれかねない。このサイトによると、9.11の報復として始まったアフガニスタンでの戦争において、巻き添えとなって亡くなった民間人は2万6千人以上に達するという。

変化の兆し

 ただし、変化の兆しはある。たとえば中東地域でもメディアは急速な発展を遂げており、世界の衛星放送チャンネルの38%がアラブ人によって所有されているというデータもある(千葉 2014: 4)。先進国のメディアや通信社が国際的なニュースの流れを支配する時代は終わりつつあり、これまでは不可視化されてきた途上国の人びとの死やそれに伴う痛みが発信される経路も生まれてきている。

 この記事によると、Facebookが大規模な自然災害のさいに用いてきた「安全チェック機能」をパリでのテロでは使用可能にしたのに、レバノンでのテロではそうしなかったことがレバノン人ブロガーにより批判され、数多くシェアされているのだという。このブロガーは言う。ベイルートでの死はパリでの死よりも重要ではないように思える、と。

 ただし、上の記事ではレバノンでは非常事態においてネットに接続することが難しく、ユーザーも少ないことから使用できたとしてもそれほど意味はなかっただろうとも指摘されている。加えて、「安全チェック機能」は先月のパキスタンでの地震でも使用されており、Facebookが途上国の人びとの命を軽んじていると断言するのは早計だろう。

 ともあれ、情報流通の流れの変化が今後も続くとするなら、先進国の人命だけを重く見るような認識のあり方はこれまで以上に大きな齟齬をきたすことになる。先進国での事件だけが世界的な注目を集めるという構造への批判はますます強くなっていくと予想されるからだ。

 もちろん、以上のように述べたからといって、パリでのテロが大したことない事件だとか言いたいわけではない。そうではなく、パリであれ、ベイルートであれ、バングラディシュの農村であれ、戦時中の中国であれ、人が死ねば悲しいし、それが理不尽なものであるほどに怒りも生まれる。どの命であれ決して軽いということはない。そのことをこれまで以上に強く意識する必要のある時代にわれわれは差し掛かっているのではないかと思う。

引用文献

Ginneken, J. (1997) Understanding Global News: A Critical Introduction, Sage.
Gultung, J. and Ruge, M. (1965) 'The structure of foreign news,' in Journal of Peace Research, vol. 2(1).
千葉悠志 (2014) 『現代アラブ・メディア』ナカニシヤ出版。

ヒロインはなぜ清楚系か

(ツイートのまとめ)

 実家に帰省中、奥さんが本を持ってくるのを忘れたので、ぼくが持っていた小説を貸した。すると、次のような質問がやってきた。

 「どうして貴方が愛読する小説の主人公はいつもうじうじ苦悩していて、ヒロインは決まって黒髪の清楚系で、おっとりしていて天然なのに、実はしっかりしているという設定なのですか」(大意)

 主人公がうじうじ苦悩しているというのは、その手の自意識過剰系の人物に共感できるからにほかならない。

 ヒロインがおっとりした清楚系というのは、見た目が派手で積極的な女性は遊んでいそうとか、浮気しそうというイメージ(偏見)があるのかもしれない。しかし、ぼくが考えるに、より根本的な理由がある。そうした女性は決して自分のような男性を恋愛対象としては認識しないだろうという意識があるのだ。あるいは、清楚でおっとりした女性であれば、自分の容姿や性格を蔑み、嘲笑したりはしないだろうという(考えてみれば根拠に乏しい)発想があるのかもしれない。

 ただし、おっとりしていて天然だといっても、男性の言うことになんでも従うようなヒロインを望んでいるわけではない。「自分が言うことに何でも従われる」というのは、行動の責任は全て男性にあるということにある。そこまでを背負う覚悟はないのだ。

 なので、男性の存在を全否定しない範囲で女性にも主体性を発揮して欲しいというこれまた身勝手な願望がそこにはある。あんまりにも自分が駄目なときにはちゃんと叱って欲しい感じと言えるかもしれない。

 ちなみに、こういうキャラクター造型の場合、男性あるいは女性の側の積極的なアプローチによって恋愛が成就する可能性は低い。双方が奥手だからだ。したがって、恋愛を促進する要因となるのは「外在的な状況」ということになる。

 何らかの偶発的な要因によって一緒に住まざるをえなくなる、一緒に活動せざるをえなくなる等々によって無理やりに関係性が生み出される。さすがに恋愛関係へと至るには何らかの主体的な行為が必要になるが、それは最後の最後、最小限の主体性によって成就される。全てがお膳立てされたところで「好きだ」とようやく言える/言ってもらえる。それが精一杯なのだ。

 …というのが、ぼくの回答になるわけだが、書いていてものすごく駄目な感じがしてきた。でも、こういうタイプの小説が読んでいて楽しいわけで、娯楽なんだから別にいいじゃないかとも思う。女性向けのマンガを読んでいても「ここまで女性にとって都合が良いだけの男が存在してたまるか」「男子高校生の頭のなかがここまで清浄の地であってたまるか」等々の感想をしばしば抱くので、お互い様と言ってよいのではなかろうか。

 とはいえ、ぼくが好む小説は奥さん的には気持ち悪いということなので、残念ではある。

「政治の季節」の過ごし方【追記あり】

【注】趣旨がうまく伝わっていない箇所と誤った箇所とがあったため、追記しました(2015/8/7)

「事実」による印象操作

 『朝日新聞』の富永格特別編集委員のツイートが炎上した。NHKなどのメディアでも報道され、富永氏はツイートを削除している。

朝日新聞社によりますと、特別編集委員は今月2日、ナチス・ドイツのカギ十字の旗などを掲げた人たちのデモ活動の写真を掲載したうえで、「東京での日本人の国家主義者によるデモ。彼らは安倍首相と彼の保守的な政権を支持している」などと英語で書き込みを行ったということです。
(出典)朝日新聞特別編集委員 不適切ツイートで謝罪

 ただし、富永氏がツイートを削除したことに対する反発も強い。富永氏の書き込みは事実であり、削除したことによってデマだという印象が広がってしまったというのだ。そのため、富永氏にツイッターで苦言を呈した『朝日新聞』の武田肇記者に対して激しい抗議が行われ、当該記者がツイッターを一時休止するという事態にもなっている。(参考

 それでは、富永氏のツイートは果たして事実なのだろうか。確かに、排外主義系の運動でハーケンクロイツが掲げられることはあるようだ。しかも、以前のデモでハーケンクロイツを掲げていた男性が安保法制賛成デモに参加していたという情報もある。だがその一方で、富永氏のツイートにあった写真のデモの主催者は安倍政権にきわめて批判的だという情報もある。要するに、よくわからない。

 しかし、やはり富永氏のツイートが事実であるか否かに関係なく、氏のツイートには問題があるとぼくは考える。富永氏は以下のようなツイートをしているが、元のツイートに「一般的に」という言葉が入っていようとも、やはり問題だ。

 それは、富永氏のもとのツイートが仮に事実だったとしても、露骨な印象操作になってしまっているからだ。つまり、「(日本のネオナチは)安倍首相と彼の保守的な政権を支持している」という言明は、「安部首相と彼の保守的な政権を支持する人たちはネオナチと親和性がある」というニュアンスを含んでいる。

 【追記】急速に低下してきたとはいえ、いまも安倍内閣の支持率は30~40%近くある。有権者の割合だけで考えたとしても3000~4000万人の人たちが安倍内閣を支持していることになる。安保法制に限ってみても、朝日の調査ですら26%の人たちが賛成している。富永氏のツイートはそれら膨大な数の人びとに対するネガティブな印象操作になってしまっている。

 こうした印象操作が厄介なのは、仮に数人、数百人、あるいは数万人(たぶん、そんなにはいない)であってもナチスを支持しつつ安倍政権を支持している人がいれば、それを「事実」として語ることができるからだ。【追記終わり】

 逆の立場から見てみよう。「極左勢力は国会前でデモを行っているSEALDsを支持している」という言明が繰り返されれば、「SEALDsは極左勢力の傀儡だ」という印象を持つ人が出てくることは不思議ではない。言うまでもなく、前者の言明は後者の印象とイコールではない。たとえ事実を述べた言明ではあっても、それが繰り返されることによって誤った印象が生まれることはよくある。

【追記】この記事をアップしたあとで「極左勢力はSEALDsを支持していない」という指摘を受けた。確かにSEALDsは極左勢力を排除しているという情報もあり、この点は誤解を招く表記だった。謹んでお詫びしたい。

 ただし、「極左勢力がSEALDsを本当に支持しているか」はどうかは、印象操作を試みる者にとっては全く重要ではない。実際、ツイッター検索で「SEALDs」と「極左」というワードで検索をかけると、両者のつながりを断言するツイートは山ほど見つけることができる。

 自らの運動が誰からの支持を受けるのかは運動体には決めることができない。したがって、世間的にはネガティブな評価を受けている団体から知らないうちに支持されていたとしても、それは運動体のせいとは言えない。しかし、それは容易に印象操作の材料にされてしまうし、場合によっては支持者を装う「なりすまし」が現れ、過激な言説を弄することで運動のイメージダウンが図られるケースもある。【追記終わり】

 世間からネガティブな印象を持たれている集団によって特定の政党や運動が支持されていると強調することはプロパガンダの基本と言っていい。民主党の選挙演説に嫌がらせのために太極旗をもって押し寄せた人たちがいたというのはその典型例だ。政治学者のエルマー・シャットシュナイダーによれば、ほとんどすべての政治団体、利益団体の一般的な評判は良くないため、それらの団体に対する敵意を利用することは有効な選挙戦術だという(内山秀夫訳『半主権人民』而立書房、1972年、p.75)

 もちろん、世間からネガティブな印象を持たれている集団が特定の政党や運動を実際に支持していることは当然にある。けれども、その事実をもって政党やそれを支持する人びと全体を貶めようとする言明はどこまで行ってもプロパガンダの域を出ない。新聞社の編集委員がそうした問題に気づかないとすれば、やはり軽率だと言わざるをえないだろう。

「味方」からの異議にどう応じるか

 敵と味方とが鋭く分かれる「政治の季節」では、味方に有利なのか、それとも敵に有利なのかという論理がどうしても幅を利かせるようになる。そうしたなかでは、味方だと思われていた集団のなかからの異論の提起は「裏切り行為」として敵以上に激しい攻撃の対象になる。『朝日』の武田記者が厳しく批判されたのはその一例だ。この点について、社会学者のジグムント・バウマンは次のように述べている。

多くの政党、教会、国家主義的ないしは党派的な組織は、公然たる敵よりも、それ自体の反対者と戦うことに多くの時間とエネルギーを費やしている。概して反逆者や裏切者は、公然と自ら認めている敵よりも、強く憎まれる傾向がある。国家主義者や政党の闘士にとって、「わたしたちの一員」でありながら敵方に走った者、あるいは敵であることをはっきり宣言しない者ほど嫌悪感を催させる敵はほかにない。
(出典)ジグムント・バウマン、奥井智之訳『社会学の考え方』(HBJ出版、1993年)、p.75。

 政治・社会運動を展開している人たちが「味方」からの異議申し立てに対して神経質になる理由はわからないでもない。とりわけ左派系の運動は内部分裂に苛まれてきたことから、分裂の芽は早いうちに摘んでおきたいのではないだろうか。内部分裂の問題は日本の左派運動に限った話ではなく、たとえば政治哲学者のウィル・キムリッカは次のように述べている。

左派の人々は、社会が直面する現実の問題に95%同じ意見を持ちながら、意見が異なる5%の争点にすべての時間を費やし、意見の一致する95%の問題のために共闘しようとしない。
(出典)ウィル・キムリッカ、岡崎晴輝ほか訳『土着語の政治』(法政大学出版局、2012年)、p.470。

 こうした観点からすれば、お互いのあいだに意見の違いがあったとしても、より大きな目的のためにとりあえずはまとまることが必要だということになる。

 しかし、多様な人たちがお互いの違いを曖昧にしたままでまとまることは、結果として印象操作の対象となるリスクを増すことになる。「味方」の陣営のなかでもっとも極端な意見を持っている人物や集団が選び出され、あたかもその人物や集団が「味方」全体の意見を代表しているかのようなイメージを敵側によってばら撒かれやすくなるのだ。こういう観点からすれば、ぼくの前回のエントリもそうした印象操作を受けた結果なのかもしれない。

【追記】以上の点を踏まえると、安保法制に賛成する人たちからは、排外主義・歴史修正主義的な動きと一線を画する声がもっと上がってもよいのではないかと思う。政治学者の大嶽秀夫は戦後の日本において再軍備を訴える主張が復古主義的なイデオロギーと結びついていた点について、以下のように述べている。

再軍備は、軍事政策をめぐる争点である以上に、伝統的社会の復活、維持の象徴となったといってよい。したがって、占領政策(と米兵が持ち込んだアメリカ文化)によってもたらされた「戦後の悪弊」を一掃するための全面的な「戦後体制の見直し」政策の一環であり、その突破口と見なされていた…。
(出典)大嶽秀夫(2005)『再軍備ナショナリズム講談社学術文庫、pp.212-213。

 近頃話題になった自民党武藤貴也議員による以下のツイートは、こうした大嶽の指摘がいまも生きていることの証左と言える。

 防衛政策とこのような復古主義的なイデオロギーの結びつきは、それに反対する側による印象操作をより容易にしてしまっているのではないだろうか。
【追記終わり】

 加えて、ネット上の可視化された環境において「味方」内の異論を押さえつけようとすることが運動全体に対する印象をかえって悪くしてしまう可能性もある。敵側は容赦なく運動のそうした言論弾圧的性格を槍玉にあげてくることだろう。

【追記】しかも、異論を押さえつけようとする人たちの乱暴な言葉遣いは、一部の層には受けたとしても、それ以外の人たちを遠ざけていく。安保法制への反対運動の広がりが「いままでの平和なくらしを守りたい」という動機によって少なからず支えられているとすれば、「平和なくらし」とは無縁なはずの乱暴な言語使用は運動にシンパシーを感じるはずの人たちを疎外するからだ。「政治運動は怖い」「異論を唱えると総括される」といった深く根付いた意識を再活性化させ、長期的に見れば日本の政治・社会運動の根幹を蝕むだろう。【追記終わり】

 「味方」内の異論と激しくやりあえば内ゲバとして嘲笑され、異論を曖昧にすれば敵側からの印象操作の対象となる可能性を増し、異論を押さえつけようとすれば言論統制全体主義といった批判がやってくる。敵と味方の対立構造が存在する以上は、「味方」内の異論に対してどのように対処しようとも攻撃は受ける。

 明確な結論があるわけではないが、「政治の季節」というのはなかなかに過ごしにくい季節である。

【追記】最後に上で紹介したバウマンの著作から、もう少し引用を続けてみたい。

これらの(反逆者あるいは裏切者に対する:引用者)非難は、次のように考える…人々に向けられる。自分の国家や政党や教会や運動と公然の敵との間の分割線は絶対的なものではなく、相互の理解や合意さえも可能だ、あるいは自分の集団の名誉には汚点がないわけではなく、集団そのものが非のうちどころがないとか、いつも正しいというわけではない、と考える人々である。
(出典)ジグムント・バウマン、奥井智之訳『社会学の考え方』(HBJ出版、1993年)、p.75。

【追記終わり】

安保法制について

 以下は、安全保障論にも憲法論にも全く素人の戯言である。

 現政権は安保法制がどうしても必要だという。

 その理由はいまいち明快に語られないのだが、おそらくは中国の領海拡張路線に対する強い警戒感があるのだろうと思う。しかし、それを国会などの場で明確に語ってしまうと、そのこと自体が深刻な外交問題を引き起こしかねない。だからこそ、よく分からない比喩を持ちださざるをえない。その意味では、テレビカメラの前で生肉を使って解説せざるをえなかった安倍さんに少し同情する(それでも、2015年度の防衛白書では中国についてかなり踏み込んだ記述をしているようだが)。

 安保法制を推進する側は「はっきりとは言えないの!わかるだろ?察しろよ!」と言外に伝えているのに、反対する側は「何を言っているのやら、サッパリ分かりませんね」と理解できないふりをして、その比喩のあやふやさを攻撃するという「ゲーム」をやっているのかもしれない。

 そうした「ゲーム」の是非は措くとして、現政権が中国の拡張路線を警戒したくなる気持ちは理解できなくもない。繰り返しになるが、ぼくは安全保障論の素人なので、たとえば冷戦期のソ連と比較して現在の中国がどれほどの脅威なのか、冷戦期における日米関係と現在のそれとでどれほど状況が違うのかといったことを判断する材料を持たない。それでも、中国の拡張路線が多くの国々から警戒されており、かなり困った状況を引き起こしていることはたぶん事実だろうと思う。米国の国防費が削減されるなか、同盟国である日本にも相応の負担が求められるということもあるのかもしれない。

 こうした問題意識からすれば、これまでの憲法解釈から多少は逸脱したとしても、日米安保の枠組みを強化するために集団的自衛権の行使を可能にしたいという発想も理解できなくもない。もちろん、それならそれで解釈改憲のような迂回戦術を取るのではなく、憲法9条を改正するという正攻法を選ぶべきだというのは正論だ。

 だが、先日、国会前のデモを見学に行って思ったことだが、憲法9条に象徴される平和国家としての日本のナショナル・アイデンティティは良くも悪くもかなり深く根づいているのではないだろうか。

 たとえば、今年の5月に『朝日新聞』が報じた世論調査によると、憲法9条改正の是非について「変えないほうがよい」が63%、「変えたほうがよい」が29%という結果だったという(『朝日新聞』2015年5月2日朝刊)。改憲を社論とする『読売新聞』の世論調査ですら、9条1項は言うまでもなく(改正賛成14%、改正反対84%)、戦力を持たないことを定めた9条2項ですら改正に反対する声の方が大きい(改正賛成46%、改正反対50%)のである(『読売新聞』2015年3月23日朝刊)。おそらく、憲法9条を改正しようとする動きは今回の安保法制以上の強い反対運動を引き起こし、いくら支持基盤の強さを誇ってきた安倍内閣であってもさすがに持たないのではないかと思う。

 以上を踏まえると、今回の安倍内閣の強引な手法も理解できなくはない…ような気もするのだが、根本的なところでひっかかりを覚えてしまう。

 やはり国家が守らねばならないルールが恣意的に解釈されてしまうことに対する不安があり、その不安のさらに根底に何があるのかと言えば、現政権に対する不信感だ。

 といっても、ぼくはアベノミクスについてはわりと好意的に評価している。在外研究中に円安が急激に進行したせいで、個人的にはずいぶんな支出を被ることになったし、経済学についてもぼくは全くの素人だ。しかし、雇用情勢が良くなったことは確かだし、大学生の就職活動を見ていても売り手市場になったことは素直に喜びたい。

 さらに言えば、現政権が戦前回帰を目指しているという一部に見られる主張も、さすがに言い過ぎではないかとも思う。徴兵制もたぶんやらないだろう。

 けれども、自民党改憲案や歴史修正主義的な動きを見ていると、「もしかして、本気で戦前に戻りたいと思っているのではないか」という疑念が頭にもたげてくる。たとえば、近頃話題の日本会議のホームページには次のような文言がある。

特に行きすぎた権利偏重の教育、わが国の歴史を悪しざまに断罪する自虐的な歴史教育、ジェンダーフリー教育の横行は、次代をになう子供達のみずみずしい感性をマヒさせ、国への誇りや責任感を奪っています。かつて日本人には、自然を慈しみ、思いやりに富み、公共につくす意欲にあふれ、正義を尊び、勇気を重んじ、全体のために自制心や調和の心を働かせることのできるすばらしい徳性があると指摘されてきました。…私たちは、誇りあるわが国の歴史、伝統、文化を伝える歴史教育の創造と、みずみずしい日本的徳性を取りもどす感性教育の創造とを通じて、国を愛し、公共につくす精神の育成をめざし、広く青少年教育や社会教育運動に取りくみます。
(出典)日本会議がめざすもの

 上の文章で言うところの「かつて」が「戦前の日本」を指し、「みずみずしい日本的徳性をとりもどす」ことが運動の目的なのだとすれば、確かに戦前こそが彼らの目指すところなのではないかと勘ぐってしてしまう。

 ちなみに、戦前日本の「みずみずしい日本的感性」については、『「昔はよかった」と言うけれど』(新評論)や『戦前の少年犯罪』(築地書館)といった著作が参考になる。同様に、先日の言論統制に関する自民党議員の発言も、そういった戦前回帰的志向性を強く感じさせる材料になっている。

 仮にこういった戦前回帰志向がぼくの杞憂にすぎなくとも、集団的自衛権は日本の存立にどうしても必要だと現政権が考えるのなら、どうして戦前回帰的に見える動きを控えることができなかったのだろうか。国家の存立を第一に考えるのであれば、その目的の足枷になるような動きは厳として慎み、政治的資源をもっと有効に活用すべきではなかったか。

 実際、現政権の歴史修正主義的な動きは、日本の防衛力強化に対する国際的理解を大きく損なってきたように思える。過去の歴史を反省したくないが防衛力は強化したいというのであれば、それこそ日本政府は大日本帝国の再建を目指しているという主張にある程度の説得力を与えてしまう。欧米メディアの論調を見ていても、「歴史修正主義者」に対するまなざしは決して暖かいとは言えない。

 日本の側に「自分たちの側から戦争を仕掛けるなんてことはありえない」という確信があったとしても、外側からもそのように見てくれるとは限らない。中国の拡張路線に対する警戒感はあったとしても、日本の戦前回帰的に見える動きへの警戒感と相殺されて「どっちもどっち」に落ち着いてしまう。

 国家の防衛がリアリズムと合理性に依るべきものだとすれば、現政権の動きはその水準をクリアしているとは言いがたいように思う。その点からすれば、集団的自衛権が絶対に必要だという主張の「リアリズム」もまた疑わしく見えてくる。それはもしかして、戦前日本の「高いモラル」に対する幻想と同じ類のものではないかとも思えてくるのだ。

 自分たちで作り出した世界観のなかに安住し、それに反する意見を言う者を「反日」や「外国の手先」として片付けてしまう。「反日」か「親日」、「愛国」か「売国」しか存在しない世界。許容される言論の幅はどんどん狭くなり、中身のないスローガンだけが横行するようになる。

 そうなってしまえば、もはやリアリズムも合理性もへったくれもない。その先にあるのは、なんだかよくわからないうちに、なんだかよくわからない戦争に突入するという事態であるのかもしれない。

 これがぼくの杞憂であることを切に願う。

人生の選択

 森見登美彦さんの『四畳半神話大系』をひさびさに再読した。

 主人公の大学生が入学直後にどのような人間関係に身を置くかでその後のキャンパスライフに生じる違いを描いた作品だ。ううむ、この説明だとこの作品を実際に読んだ人にしか伝わらないかもしれない。

 とにかく、この物語の重要な要素が選択である。そこで思い返してみれば、ぼくの人生においてもわりと決定的な違いを生んだのではないかと思しき選択の瞬間というのが確かにある。

 実はこの話は別のブログに書いたことがある。だが、そのブログはわりと不幸な結末を迎えたので、いまネットにはこの話は落ちていない。そこで、この話の供養という意味でも再録してみたい。願わくば、このブログが不幸な結末を迎えませんように。

* * *

 そのころ、ぼくは19歳。二度目の大学受験を控えた予備校生だった。当時、ぼくは人に近況を訊かれても浪人生をやっていると言うのが恥ずかしく、予備校生という呼称を採用していた。大手の某予備校に通い、不毛な受験勉強に邁進する毎日であった。

 12月に入ったばかりのころだったかと思う。その日、ぼくは通っていたのとは別の予備校の自習室に潜り込んで勉強をしていた。大学受験のハードルが今よりも高かった当時、巷には受験生が溢れており、通っていた予備校の自習室が満室で使えないということがよくあった。そこで友人とともに近隣の予備校の自習室にこっそりと入り込んでいたのである。もちろん良くないことである。反省している。

 しかし、潜り込まれた方の側も、どうやら別の予備校の学生が入り込んでいることを察知していたのだろう、その日は突如として自習室にバイトと思しき集団が現れ、いまから学生証チェックを行うという。ぼくを含む慌てふためいた何人かの侵入者は早々に荷物をまとめ、自習室から遁走したのであった。

 自習室から命からがら逃れたわれわれは、やむをえず自分たちが通っていた予備校に戻った。その時間になると、すでに空き教室がいくつかあり、われわれはそのうちの一つに陣取って勉強を始めた。

 するとそのとき、校内アナウンスが流れた。なんでも某大学の説明会をいまから開始するのだという。その日の午前中にもそんなことを耳にしていたが、もともと受験するつもりのない大学だったので、すっかり忘れていたのである。これも何かの縁かもしれない。ぼくは気まぐれにその説明会に出てみることにした。

 説明会が終わるころ、ぼくの本命の志望校はその大学になっていた。無味乾燥な浪人、いや予備校生の生活があまりに長すぎたのか、とにかくぼくはその説明会にすっかり圧倒されてしまった。予備校からの帰り道にはさっそくその大学の赤本を購入していたのではないかと思う。

 12月に入ってからの突然の志望変更ということもあってか、一番の志望学部は補欠不合格という残念な結果に終わった。しかし、その大学の別の学部には合格し、そこに進学することにした。かくして自習室に潜り込んでいた不届き者を締め出そうという予備校の判断は、一人の予備校生の進路を変えたのである。

* * *

 4月になった。その日、ぼくは大学の入学式に出席したあと、キャンパス内を一人で歩いていた。大学といえばサークル活動である。ぼくは中学、高校と陸上競技をやっていたこともあって、陸上同好会に入ろうかと考えていた。

 陸上同好会の出店の前にやってきた。出店には一人の学生が座っていた。きっと入会希望者を待っているのだろう。しかし、ぼくには自分から声をかける勇気がなかった。そこで、出店の前を何度も行ったり来たりした。しかし、一向に声をかけてくれる様子がない。ぼくの相貌からして、いかにも陸上競技に縁がないように見えたのかもしれない。

 そこでへこたれたぼくは、家に帰ることにした。初めての一人暮らしを始めたばかり、まだまだ買い揃えねばならないものはたくさんある。

 校門に向かって歩いていると、ぼくは二人の女性に声をかけられた。音楽サークルの勧誘であった。高校では美術選択だったぼくと音楽との距離は遠く、自分からは絶対に入ろうとは思わない系列のサークルだった。普通なら丁重にお断りする類の勧誘のはずである。

 ところが、男ばかりに囲まれた予備校生活の結果、女性に対するぼくの免疫力は異常に低下していた。店で女性店員に話しかけられただけで赤面してしまうほどだった。そんな事情もあり、女子大生二人にうまくお断りすることができなかったぼくは、なぜか彼女たちから学食でお昼ごはんをご馳走されることになってしまった。

 とはいえ、そこでしつこく勧誘されたわけでもなく、気が向いたらそのサークルが拠点としている部屋に来てみてね、といった程度の話を聞いただけでその場は終わる。彼女たちは何処ともなしに姿を消した。

 身銭を切ってお昼を奢ってもらった以上、サークルに入るかどうかは別にしても、部屋に行かないというのはあまりに不義理ではないか。そう思ったぼくは、とりあえず教えてもらった教室に向かった。そして、その日からほぼ4年間にわたって、ぼくはそのサークルに身を置くことになったのである。ちなみに、新入生におごるご飯代がサークルとして予算化されていたことをぼくが知るのは、ずいぶん先の話である。

 かくして、陸上同好会の出店のまえでうろうろする新入生に声をかけなかったどこかの誰かは、その決断によって新入生の人生を変えた。たかがサークルごときで、と思われるかもしれないが、ぼくは結局のところそのサークルで人生の伴侶と出会い、子まで成したわけであるからして、言わば陸上同好会のその誰かは言わば不作為によって新たな生命の誕生に貢献したのである。

* * *

 大学2年生の学期末の試験を目前に控えたある日のことだ。その日、ぼくは大学図書館で勉強をしていた。いや嘘だ。ぼくが所属していたサークルでは試験前になると図書館の片隅に陣取り、みんなで勉強することになっていたのだが、それはまったくもって勉強するのに向いていない空間であった。勉強するどころかおしゃべりばかりしていたし、先輩が麻雀のメンツを探しにやってくることも多かった。試験の始まる2時間ほど前に「単位が~」と泣き言を言いながら、先輩と雀卓を囲んでいたこともあった。当然、成績は決して褒められたものではなかった。

 そんな試験期間のさなか、いつものようにだらだらとおしゃべりに興じていたぼくは、あろうことか試験の時間や場所をきちんと把握していないことに気づいた。今のように試験情報をネットで気軽に確認できるような時代ではない。そこでぼくは、大学の教務掲示板に試験の時間と場所を見に行くことにした。

 掲示板に近づいたとき、ぼくはある張り紙に気づいた。それは新たに開設されるというゼミに関するお知らせだった。ゼミのテーマは「マスメディア論、ジャーナリズム論、情報化社会論」。そのとき、ぼくの頭に閃くものがあった。

 当時のぼくは3年生になった暁には日本政治のゼミに入ることを考えていた。しかし、どこかフィットしないような印象も受けていた。そんなおりに見つけたのがこの張り紙だったのであり、これこそがぼくが求めていたゼミではなかったかと思ったのだ。ちなみに、このゼミの告知はひっそりと行われたこともあって、ゼミの存在自体に気づかなかった学生も結構いたという。

 結局、ぼくはそのゼミの選考を受け、なんとか潜り込むことができた。さらに、そのゼミの指導教授のもと、修士、博士課程へと進学してしまい、いまでもお世話になっている。かくして、試験の日程と場所をきちんと把握していなかったというぼくの不注意は、結果として一人の大学教員を生み出すに至ったわけである。

* * *

 人生の選択とは、一般に深い苦悩のうえの決断としてイメージされるのではないかと思う。しかし、ぼくの人生の決定的局面は、気まぐれと不作為と不注意によってもたらされた感がある。なんとも主体性に欠けた人生である。

 今でもときどき、あの大学説明会に出席しなかったら、別のサークルに入っていたら、あるいは事前にきちんと試験の日時と場所を把握していたらぼくの人生はどうなっていたのかを考えることがある。もしかしたら、『四畳半神話大系』がそうであったように、結局は同じような人たちと巡り合い、同じような職業に就いていたかもしれない。しかしまあ、そんなことはたぶんなかっただろう。

 別の大学に進学し、キャピキャピの女子大生からモテモテの4年間を過ごすことになったかもしれない。1年生のときに真面目な学術系サークルに入っていたら、いまごろ研究者としてももっと大成していたかもしれない。あるいは、別のゼミに入っていたら、学問の面白さに目覚めることもなく、いまごろ会社経営者として都心のタワーマンションの最上階にある自宅から高級ワインを片手に夜景を眺めていたかもしれない。もちろん着用しているのはバスローブである。

 だが、モテモテの4年間はどの大学に行っていようと実現は難しそうだし、そもそもぼくはワインを飲むとすぐに酷い頭痛に苦しむような下戸である。バスローブは持っていない。研究者としての大成は…今からでも遅くはないと思いたい。

 人生の選択はもちろんいつになっても止むことはない。でも、多くの人にとって人生の大きな方向性を決めるような選択はやはり10代から20代にかけて行われることが多いのではないだろうか。

 その時期をどのように過ごそうともおそらくはどこかに後悔は残る。一生懸命に勉強をすればもっと遊べば良かったと思うかもしれないし、遊んでばかりいればもっと勉強してよかったと思うかもしれない。それでも、選択ができるということそれ自体が若さの特権だし、後で後悔するにしても選択の時点では納得のできるものを選んで欲しい。何も選ばないこともまた選択の一つなのであるし。

 そして、若い人たちがそうした選択をできるよう条件をきちんと整えてあげることが、大人の役割なんだろうと思う。

憐れみが人を殺すとき

 どうにも整理のつかない話というものがある。

 先日、ネットを見ていると、高齢の男性が長年連れ添った伴侶を殺害したという事件の記事がアクセスを集めていた。少し長いが、記事を引用してみたい。

 93歳の夫が体の痛みを訴えていた妻に頼まれて殺害したとして、嘱託殺人の罪に問われた公判が千葉地裁で開かれている。夫は「今でも愛しております」と語り、2人の娘は「父は追いつめられていた。ごめんなさい」と悔やんだ。

 妻(83)への嘱託殺人の罪に問われているのは茂原市の無職の夫。家族によると、軽度の認知症という。

 起訴状などによると、夫は2014年11月2日、自宅で妻から殺してほしいと依頼され、ネクタイで首を強く絞めたとされる。

 夫は自ら110番通報。その後、妻は死亡。生前、「家族に迷惑をかけたくない」とメモを残したとされる。(中略)

 法廷での被告人質問や長女と次女の証言によると、東京・浅草の職場で出会い、結婚生活は60年余り。3人の子を持った。

 長女は「父は付きっきりで面倒を見ていた」と語る。買い物、庭の手入れ、トイレの連れ添い……。料理も妻に教わったという。

 「妻から『何もできない。苦しいだけ』と言われた。もう断れない」

 夫は殺害を頼まれた時の心境をこう明かした。

 最期、2人は添い寝をした。靴職人として働き、妻と知り合ったころを思い出した。昔話を続けた。「妻はニコニコしていた。とてもきれいだった」

 妻は介護サービスなどを受けるのを嫌がっていたという。長女は涙ながらに「私がもう少し気付いていれば。父にはおわびでいっぱい」と語った。(後略)

(出典)『朝日新聞』2015年6月18日

 正直に言えば、この記事を読んだときは落涙を禁じ得なかった。長年連れ添った夫婦が迎える悲劇的な結末。それを前にして、覚悟を決めた二人が昔を楽しく語り合っている姿を想像するとそれだけで胸が痛くなる。しかも、この男性は裁判においてなお自ら手にかけた妻への愛を語るのだ。

 この記事を読んで思い出したのが、かつてドイツで制作された『私は訴える』という映画の話だ。古い映画なので残念ながらぼく自身は見ていないのだが、市野川容孝さんの紹介によると、次のようなストーリーらしい。

 病理学者トーマス・ハイトは、妻のハナが多発性硬化症という難病に侵されていることを知る。この病気が進行すれば、身体の感覚機能や運動機能が低下し、言語障害や精神障害を生じさせるのだという。トーマスは治療のための新薬開発に取り組むが、成果を得ることができない。自らの病を知ったハナはトーマスに次ように訴える。

「自分が最後の瞬間まで、あなたのハナでいられるように助けてちょうだい。あなたの知らないハナ、耳も聞こえず、話もできず、白痴になったハナでは絶対にいや。そんなこと私には耐えられない。…そうなる前にあなたは私を救ってくれると約束して、トーマス。そうするのよ、トーマス。私を本当に愛しているなら、そうするのよ。」
(出典)市野川容孝(1997)「権力論になにができるか」(奥村隆編『社会学になにができるか』八千代出版)、p.235。

 トーマスは妻の願いを聞き入れ、毒薬を与えてハナを殺害してしまう。

 その後、トーマスは殺人罪によって起訴される。法廷で弁護士はハナが多発性硬化症によって志望したと主張し、トーマスの無罪を勝ち取ろうと考える。ところが、トーマスは法廷で自分がハナを殺したことを正直に話そうとする。弁護士は「あなたは自分の無罪を棒にふる気ですか!」と制止するのだが、トーマスは告白する。

「真実を告白します。私は不治の病にあった自分の妻を、彼女の望みによって、その苦しみから解放したのです。私の今の人生は彼女に捧げられています。そして、その決定は妻と同じ運命に会うかもしれないすべての人びとにもあてはまるのです。判決をお願いします。」
(出典)市野川、前掲論文、p.236。

 この『私は訴える』という映画はドイツで大ヒットを記録し、観客動員数は1800万人に及んだのだという。先に紹介した記事とどことなく似ていると言えないだろうか。

 ここで重要なのは、この映画がどのような文脈のもとで制作されたかということだ。

 この映画が制作されたのは1941年。当時のドイツでは「安楽死計画」のもと、障がい児童、精神病患者、不治の病のために労働の困難な人たちが組織的に殺害されていた。その犠牲者の数は7万人に及ぶという。安楽死計画は国内の反対により1941年には表向きには停止されるが、極秘裏に継続されていた。この安楽死計画を正当化するべく制作されたのが『私は訴える』なのだという。

 言うまでもなく、先の記事と『私が訴える』の内容とに共通する部分があるからといって、記事で取り上げられていた男性を厳罰に処すべきだとかそういうことを言いたいわけではない。個人的には、この男性には安らかな余生を過ごしてもらいたいと思う。

 むしろ気になるのは、(ぼくだけなのかもしれないが)記事を読んで落涙してしまうメンタリティのほうだ。相手がそれを望んでいるがゆえに、愛する者を自らの手にかけねばならなかった男性の苦悩にぼくは思いを馳せる。あるいは、夫を殺人者にしてしまうほどに辛い病を抱える女性の苦しみにも。「かわいそうだから、殺してあげる」という論理がそこでひょっこりと顔を出す。

 市野川さんによれば、障がいや難病を背負う人びとに対する憐れみは、病気のない世界に対する願望をより切実なものとする(市野川2006: 135)。その願望こそが、結果として病気にかかりやすい遺伝子を有する人びとや、難病に苦しむ人びとを「安らかに」眠らせる政策への支持を促したというのだ。

 もちろん、先の記事を読んで落涙することと、安楽死政策を支持することのあいだには深くて広い溝がある。それでも、この夫婦の苦しみに感情移入すればするほど、本人が望むのだから殺してあげることが救済なのだという論理が浮かび上がりやすくなるのではないだろうか。

 ここでまた市野川さんの指摘を紹介するなら、尊厳死の導入を訴える日本尊厳死協会の男女比を見ると、女性会員数が男性会員数の約2倍に達している(参照)。市野川さんはその理由として、介護の責任を担うことの多い女性は、その体験ゆえに自らが「迷惑をかける」立場になることを厭うのではないかと述べている(市野川 1997: 241)。そういう構造を踏まえてなお、本人が望むからという理由で死を与えることには問題があるのではないかというのが市野川さんの主張だ。

 たしかに、「家族に迷惑をかけるくらいなら死を選ぶ」という人が増えていけば、それは一種の規範となり、本当のところでは死にたくない人たちに無言の圧力がかかるようになるというのはありそうな話ではある。そうなれば本人の希望とは言い難いような死が増えていく可能性もでてくるだろう。とりわけ、高齢化がどんどん進行していくこれからの日本では。

 だからこそ安易な憐れみは禁物であると主張することには、たしかに筋が通っているように思える。新聞記事で事件をたまたま知っただけの気楽な部外者が、一時の情に流されて安易な自己決定を肯定してはいけないという結論はスッキリしている。検察側の「殺害決意は想像を絶する苦悩だったと思うが、妻の弱音とも考えられて軽率」という主張とも重なる。

 けれども、どこかモヤモヤする。そのモヤモヤをぼくはいまだうまく言語化することができない。だからこそ、冒頭で述べたように、これは整理のつかない話なのである。

参考文献

市野川容孝(1997)「権力論になにができるか」(奥村隆編『社会学になにができるか』八千代出版)
市野川容孝(2006)『社会』岩波書店